2014年8月18日月曜日

評価・批評・批判のことばはどう聞くか

ちょうどここ二、三日の「マインドフルな毎日」( http://otohi.blogspot.jp )で取りあげているテーマに、「評価社会である現代社会をどう生きるか」というものがある。
だれもがそうだろうと思うのだが、私のなかにも繊細でデリケートな部分があって、しかしそれは成長の過程でしつけや教育、あるいは社会的風潮によって、自分でも見ないようにしたり、隠蔽したり、より強いふるまいで覆いかぶせたりして、埋もれてしまっている。
しかし、ときにその部分がひょいと顔を出し、とてもつらい思いをすることがある。

他人から評価を受けるときに現れやすい。
なにか与えられた仕事をする。
自分なりに力をつくして成果を出そうとがんばる。
その成果を会社や上司の基準で評価され、裁定がくだされる。
実際に評価されるときもつらいが、この仕事は最終的に評価をくだされるものだ、ということを思うだけでもつらくなる。
評価されることなく、自分の思うようにのびのびと能力を発揮できれば、どれだけ楽しいだろうかと思う。

逆にいえば、自分が自分の内なるニーズやモチベーションにつながって、夢中でのびのびとおこなったことは、たとえだれかからひどい評価をくだされたとしても、ダメージは少ない可能性がある。
人から与えられたり、義務感に突き動かされておこなったことが酷評されると、ガックリくる。

自分が能力を充分に発揮するためには、自分の内側にあるニーズやモチベーションに力強くつながっておく必要があるし、その結果としてよい評価が生まれるかもしれない。
自分の外側にある命令や義務で動いているとき、能力を充分に発揮するのはむずかしいし、結果的によくない評価になってしまうかもしれない。
つまり、自分の内側と外側にあるものをよくみきわめておきたい、ということだ。

自分がいまどの部分の要求や必要性にしたがって動いているのか、それをみきわめておきたい。
その結果生まれた評価についても、どの部分から生まれたものなのか。
自分の価値観に照らしあわせて思うような評価が生まれなかったとき、それは自分にとって残念なことであり、より努力する余地があるということだし、また自分のニーズにつながってモチベーションをみずから高めることは容易だ。
しかし、他人や社会的な自分の外部にある評価基準で悪い評価がくだされたとき、それはあくまで他人の、あるいは社会的な価値観によるものなのだ、ということを理解しておきたい。

だれかがこちらを悪くいったり、批判したり、非難したりしているとき、それは相手がただ自分の価値観を表明しているだけであって、こちらはそのことによって落ちこむ必要はない。
相手の価値観は尊重してあげたいが、それ以上に自分の価値観を大切にし、非難されたことでさらに自分のニーズに強くつながり、よりいきいきと成長の努力をするきっかけができればいい。

※明後日・8月20日(水)夜8時から、三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉で恒例の共感的コミュニケーション・ワークショップを開催します。
 朗読と音楽のミニライブ付き。
 参加費1,000円+ワンオーダー。
 詳細と申し込みはこちらから。