今年の元旦からスタートして、一日も抜けていない。
と書いて、おなじようなことを100回越えのときにも書いたなあ、と思いだした。
まあいい。
せっかくなので裏話を。
「音読日めくり」につづいて、この「マインドフルな毎日」も、とにかく一年365日、欠かさずつづけようと思ってスタートした。
思考と物書きの基礎トレーニングのようなもので、こういう「所業」はわりあい好きなのだ。
なにごとかを持続すること、というニーズがあるのかもしれないし、昨日やれたことを今日もやれる、今日やれたことを明日もやれるという、自分の能力の確認のニーズもあるかもしれない。
より深いところに別のニーズがあるような気もするが、とにかく苦しいだけではなく、義務感を超えるなにかのニーズがあることは確かだ。
ところが、スタートして30日くらい――つまり一か月くらいで、これはだめかも、と思った。
なにしろ、ネタがない。
とくに後ろのほうの「マインドフルの練習」は、毎日なにかしら違うネタをかんがえて書くわけだ。
こういうことをすればマインドフルの練習になるんじゃないか、と思える行為を毎日一個ずつかんがえて、それを書く。
これってやってみればわかると思うけれど、そうたやすいことじゃない。
そうそうポンポンとマインドフルの練習になるような行為を思いつくものじゃない。
一か月くらいですっかりネタは尽きてしまった。
もうこれ以上連載をつづけるのは無理、と思いながらも、あと一日、あと一日と書きつないで、とうとう今日まで来てしまった。
途中、何回かは人からネタを提供してもらったことがある。
ありがたいことだ。
また、「いつも読んで役に立ってる」といわれて元気づけられたことも何度かある。
まったくこうやってつづけていられるのは、みなさんとのつながりがあるから、感じられるからだなあ、と思う。
もうひとつ。
マインドフルネスの練習を毎日一個ずつ思いつくのは大変なことだが、これにはコツがある。
マインドフルネスの練習を思いつくためにはマインドフルになる必要があるのだ。
マインドフルネスをこころがけ、自分の呼吸と身体、ありように注意をむけ、いま自分がここにあって自分のありように気づきつづけている状態にむかったとき、ふっとアイディアが浮かんでくる。
これは本当のことだ。
何人かは私が思いつく瞬間を目撃しているが、そのことを証言してくれるかもしれない。
今日、つい先ほど、明日の分のマインドフルネスの練習を思いついた。
それはマインドフルネスをこころがけながらお茶を口にふくんだときに浮かんできた。
そういう状況でどういう練習を私が思いついたのか、明日のマインドフルネスの練習を読んでみてほしい。