2014年2月17日月曜日

責められることを恐れて萎縮する人々

photo credit: Pinot & Dita via photopin cc 

すべての人は自分のニーズを満たすために生きている。
それを「自己実現」といういいかたをする人もいる。
イキイキと自分らしい時間をすごし、自分を表現し、大切な人とつながり、豊かな人生を送りたい、といったような望みをもち、それを実現させるために生きている。
しかし、人は社会的動物であるがゆえに、自分自身のニーズより他人のニーズや社会的規範のなかで自分を見失い、萎縮してしまうこともある。

子どもがなにかいけないこと――たとえば真っ白い新築の家の壁にクレヨンで絵を描いてしまったというようなこと――をしたとき、それを大人にしかられることがある。
親は自分の子どもに、
「壁に絵を描くのはよくない、ルール違反だ」
ということを教えようとしてしかる。
自分の子どもに社会性を身につけてもらいたい、社会的秩序を守れるようになってほしい、よその家でもそんなことをしないようにルールを守れる子どもになってもらいたい、という望みがある。

子どもにしてみれば、前に紙に描いたときお母さんに喜んでもらえた花の絵を、真っ白い壁に描いたらまたどんなに喜んでもらえるだろうかと思い、わくわくしながら描いたのかもしれない。
しかし、予想に反して怒られてしまった。
そのとき、親に自分のニーズを理解してもらえず、ただ「いけない」と禁じられたとき、自分のニーズを押さえつけようという「萎縮」が起こる。

これは子どもにかぎらず大人でも起こることだ。
自分がなにかをしようとしたとき、そのことで怒られる/責められる/社会的制裁を加えられるのではないかという、漠然とした恐怖/不安をいだき、おこないが萎縮してしまう。
そういう人を見ることが多くなっているように感じる。
社会が他罰的で、法治原則的で、システマチックで、非人間的に窮屈になっていけばいくほど、個々人の行動は制限され、萎縮していく。

そんな風潮のなかで自分まで萎縮するのではなく、自分のニーズにしっかりとつながり、イキイキと行動していきたい。
まずニーズを満たすための自分のおこないがあり、その結果としてなんらかの反応が起こる。
その逆を予想したり想像したとき、行動は萎縮するし、ものごとは予想どおりに進まないことがほとんどだ。
結果を予測するのではなく、ただ自分のニーズに集中し、おこなう。
その結果起こったことについては、そのときにあらためて対処すればいいし、対処できるだけの自分のパフォーマンスを高めておくためにも、自分のニーズを満たすための純粋なおこないに集中できればよい。

おなじようにそのことを他人の行為にあてはめたとき、自分の言葉が相手のパフォーマンスを低下させないためには、時間をさかのぼって相手を避難したり評価したりすることがなんの益もないことに気づくだろう。
おたがいに共感的でありつづけ、高めあえる関係性を持ちつづけたい。

※2月の羽根木の家での共感的コミュニケーション勉強会は、2月22日(土)15時からと、2月27日(木)に開催します。27日の昼の部は15時から、夜の部は19時からです。
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