「なに食べようかなあ」
「お腹ぺこぺこー」
「あたしもー。なにしよっかなー」
「冷やし中華にしようかな」
「あ、それいいねー」
「でも、パフェも食べたいんだよね」
「あたしもパフェ食べたい。パフェ、おいしいよねー」
「でも、やっぱ冷やし中華かな」
「冷やし中華だよねー。暑いもんね。あたしも冷やし中華にしよっかなー」
「パフェも捨てがたいんだよね。迷うなー」
「悩むー。カレーにしよっかなー」
「いきなり?」
「直前に変更するタイプ」
「カレーもいいよねー。暑いときにはカレーだよねー」
「だよねー。でもやっぱ冷やし中華にしよっかなー」
「どうしよう。迷うよねー。パフェも捨てがたいし」
「パフェもいいよねー。悩むー」
「お腹ぺこぺこー」
「あたしもー」
最初に戻り、ループ。
私は「悩む」とか「迷う」とかいう自分の態度にどことなく罪悪感を覚えていて、それはおそらく「男の子」として教育されてきたどこかで獲得してしまったものだと思うのだが、つい最近まで女性たちが「悩む」「迷う」ことそのものを「楽しんでいる」ということにまったく気づかなかった。おろかであった。
上記の会話はそのまま隣の席の若い女性ふたりの会話を逐語で書きうつしたものだが、ほとんど内容に意味はない。迷っていることを楽しみ、その楽しみを共有し、共感している、その状況そのものに意味があるようだ。
私には無理。