貴重な文化財といっても過言ではない「本郷館」の取り壊しが迫っている。
本郷館の詳細については、以下のウェブサイトを参照のこと。
ウィキペディア
本郷館プロジェクト
本郷館を考える会オフィシャルサイト
1905年に建造された日本最古の木造三階建て下宿で、漱石の『三四郎』などにも本郷館を思わせるような下宿が出てくるし、蒋介石が住んでいたり、林芙美子が東洋大学の学生と同棲していたこともあるなど、学術的、文化的な価値ははかりしれない。
これがやがて取り壊されるという。あと2週間ほど。
取り壊しに至った経緯については、上記サイトに詳しいのでここでははぶくが、住人や本郷館を愛する人たちによる反対運動がここ何年かずっと続けられていた。
署名が集められ、私もそれに参加した。約3,000人の署名が集まった。
にもかかわらず、住人の強制立ち退きが始まり、取り壊しが強行されるらしい。
署名を集めていた人の話によれば、署名を拒否する理由として、
「個人所有の建物なんでしょう? それを他人がどうこういえない」
というものが多かったという。
たしかにそのとおりで、現行の法律でも所有者が取り壊すと決めた物件に対してそれを差し止めることはできない。
しかし、はたしてそれでいいのだろうか、と私は思う。
この場合、たしかに本郷館という建物とその土地は、所有者のものであり、法的にはそれを好きなように処分していいことになっている。
しかし、本郷館という物件には「公共性」があるのではないだろうか、と私は思うのだ。
個人や企業などの所有物でも、公共性が強いものはたくさんある。
たとえば、街のなかに存在する巨樹。人々がいこい、雨宿りしたり、子どもを遊ばせたりするような巨樹がたくさんある。それらはだれかが所有していたとしても、ある日いきなり伐採されたら困ったり悲しんだりする人は多い。そういう物件は、公共性を抜きにしては考えられないと思うのだ。
所有者は法律の文言だけではなく、公共性のことも考慮するべきできないのか。
公共性が必要なものは建物だけではない。
たとえば電気。これはたしかに民間企業から我々がお金を出して買っているものだが、たんなる「商品」ではない。共有財産の側面がたしかにある。電気を作るのをみんなで支え、インフラを整備し、社会全体が快適になるように協力している。
貧乏になって電気料金が払えなくなったとき、いきなり電気を止められたりすると生死に関わる。電気を「提供してやっている」という「公共理念」のない会社だと、電気代を払えない者の電気はただちに止めてしまうだろう。げんにいまの日本の電気会社はすべてそうだ。
公共理念というのは、社会にはお金持ちも貧乏人も、妊婦もお年寄りも障碍者もいるけれど、みんなで支え合って暮らしていこう、という考えが共有されていなければ、みじめなことになる。
公共理念は建物や文化財についても、おなじことがいえる。
本郷館はたしかに個人の所有物ではあるけれど、社会全体の財産でもある。所有者も含め社会全体で文化価値の高い財産を守っていこう、という意識が公共理念ではないだろうか。本郷館の所有者が、「この物件は自分の私物なので好きなように処分してもかまわない」と思っているのだとしたら、まことに公共理念のない、民度の低い人だといわざるをえない。
ゴッホの絵を高額で落札した金持ちが、それを私物として自分の書斎に飾り、だれにも見せずひとりでにやにやしていたとしたら、どうだろう。その文化資産はだれも価値を享受できなくなってしまう。
それとおなじことが、本郷館の取り壊しで起きようとしている。
本郷館は個人の所有物ではあるかもしれないけれど、私物ではないのだ、ということを私は訴えておきたい。