2019年1月10日木曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(9)

ジャズバー〈バードランド〉ではバーテンダーを2年半くらいやった。
毎日仕事でやってくるピアニストのほかにも、バードランドには毎日プロのバンドマンが何人か飲みに来た。
仕事が終わってからの深夜や、ナイトと呼んでいた深夜から朝方にかけてのステージの合間などにやってきた。

バンドマンたちの仕事は、キャバレーやクラブなどの大きな店で4、5人編成のバンドではいっていたり、ひとりかふたりで小さな店に毎日はいっていたりした。
まだカラオケが普及しはじめる前のことだった。

私も店の仕事の合間にピアノを練習したりしているうちに、先輩のバンドマンからたまに仕事をたのまれるようになった。
なにしろ譜面が読めるのと、ポップスなどのコードはそう難しくないから、バンドでならそこそこ弾けるようになっていたのだ。

バンドマンたちは「ハコ」と呼ばれる、毎日決まった時間に何ステージかこなす仕事で食べていたが、たまに結婚式とか、企業の記念のパーティーとか、なにかのレセプションとか、そういう仕事が臨時ではいってくる。
それはギャラが高いので、みんなそちらを優先したがった。
すると、ハコの仕事に穴があく。
そんなとき、まだ駆け出しのハコを持っていない若手に、ハコのエキストラを頼むのだ。
私にもそういう仕事がたまにはいってくるようになった。

ひとりで出かけていって、ピアノで客の歌伴をしたり、ソロで流行歌やポップス曲を適当に弾いたり。
そういう演奏用の楽譜がバンドマンの間で流通していた。
あるいは歌手が持っているハコに、伴奏ではいることもあった。
もちろん、バンドのピアノやキーボーディストとしてはいることもあった。

当時の京都にはまだ〈ベラミ〉という大きなキャバレーがあった。
山口組の組長が銃撃されたことで全国的にも有名になった店だが、そういう店のエキストラにも出かけることがあった。
そんなときは、バーテンダーの仕事は別のアルバイトに肩代わりしてもらう。

バンドマンの仕事は楽だった。
たいていが夜7時半か8時からはじまって、30分演奏して30分休む。
それを3ステージか4ステージこなす。
夜中の12時には仕事が終わる。
あとは知り合いの店に行って飲んだり、バードランドで客やバンドマンやホステスと遊んだり、あるいはさっさと家に帰ってしまってもいい。

自由時間の多い仕事だった。
そんな自由時間を使って、私は自分のバンドを結成した。