2019年1月28日月曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(24)

1986年から職業的・商業的小説家になったわけだが、東京に居を移すことはなかった。
ラジオやテレビの仕事もあったし、名古屋の劇団や朗読者である榊原との関係もあった。
商業出版の世界はほぼ東京に集中していたので、やりにくい面があることもたしかだった。

定期的に上京し、まとめて出版社をまわり、仕事の打ち合わせをした。
ほかに、地方に在住していながら情報を得る方法として、パソコン通信という電子ネットワークがすこしずつスタートしている時期だった。

最初に日経の新聞記事データベースがスタートしていた。
アクセスポイントが金沢にあり、データベースに接続するにはそこに電話をかけ、音響カプラーという接続機器でパソコンをつなぐ必要があった。
利用料金も高く、たしか1分10円とか、それ以上の値段だったと思う。

朝日新聞のデータベースサービスもスタートした。
そして日本電気がPC-VAN(現Biglobe)という全国ネットをスタートさせ、ほぼ同時期に富士通がNIFTY-Serve(現ニフティ)というパソコン通信網をスタートさせた。
いずれも福井市内にアクセスポイントがあり、私の住んでいる町からは市外局番にはなったが、日経データベースよりだいぶ安い値段でネットが使えるようになった。
またパソコン通信は情報を取得するだけでなく、ユーザー同士のコミュニケーションの楽しみが広がっていった。

地元の工業技術センターや家電店が運営する地域のBBSもできはじめた。
福井放送の当時の社主が先進的な人で、福井放送でも「たんぽぽ」というBBSがスタートすることになった。
私はそのシステムオペレーターを引きうけた。
また、NIFTYでも「本と雑誌フォーラム」のシスオペをするようになった。

こんなふうに、活字出版の世界からしだいに電子ネットワークの世界に使う時間が増えていった。
バブルに陰りが見えはじめた1990年以降には、私が主に書いていたノベルズという形態の小説本が徐々に売れなくなっていった。
私も活字出版からの収入が激減していった。
多くの書き手が消えていったが、私は地元のラジオ、テレビや、ネットの仕事の比重が増えていたので、なんとかやれていた。

2000年以降にはインターネットが普及しはじめるのだが、その前に携帯電話の爆発的普及がやってきた。
私はネットで読める連載小説を自分ではじめたり、それをマネタイズする方法を探ったりして、まぐまぐというメルマガ発行システムを利用していたのだが、気がつけばその小説を多くの若い人が、しかも携帯電話で読んでいる、という状況が現れていた。
その状況にたいして、東京のある印刷会社の社長から私に直接連絡がはいったのは、2000年ごろのことだった。