2019年11月13日水曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(8))

北陸の実家に帰省している。
晩秋の、最後のスコンと晴れあがった日で、こういう日は経験的にあと何日もないだろうと思う。
数日前は雷が鳴って、雨が激しく降った。
普通、この時期の雷は、このあたりでは「雪起こし」といって、雪が降る前兆とされている。
が、雪は降らなかった。
気温もまだ暖かい。

今日は福井県立病院に行って長年定期的に開催してきたピアノコンサートで演奏してくる。
今月はこのコンサートと、今週末に語人・小林佐椰伽ちゃんのイベントでの語りのサポート演奏と、月末のパープルリボンコンサートがある。
これらは私の食道ガンが見つかる前から決まっていた。
ガンが見つかったとき、治療や体調の変化が読めなくて、11月のこれらのイベントに常態で参加できるのかどうかわからなかった。
なので、みなさんにはあらかじめ、健康状態が読めないこと、ひょっとして演奏ができなくなることもありうることなどを伝えた。
すべてのみなさんがそのことを理解し、受け入れてくれて、暖かく私の体調維持を祈り、はげましてくれた。

そしていま、11月になって、まだピアノが以前と同様に——ひょっとしてより前へと進みながら——演奏できそうなことがわかって、大変ありがたく、うれしく感じている。
オーストラリア在住のNVC仲間である矢澤実穂さんからは、共演する機会を作りたいと急遽帰国して、ダンスと朗読とピアノによる公演を渋谷でおこなうことにもなった。
こちらも体調が許すイベントとなるだろう。

化学療法による抗ガン剤治療を受けず、放射線照射治療を選択したことが(私にとっては)大きい。
ガンが見つかって以降も、検査や治療のための通院に時間を取られたほかは、それまでとほぼ変わりなく活動をつづけられている。
書くこと、演奏すること、みなさんと交流して伝えたり、いっしょにワークしたり、演出したり、出演したり、映像を撮ったり、編集したり、音楽を作ったり。

予想がはずれたこともある。
放射線治療の副作用が意外に大きかった。
治療中は食欲不振や体重減少、倦怠感が強く、武術の稽古をふくむ運動はほぼできなかった。
治療が終わってからは、おそらく免疫力の低下によるものだと思うが、かるい肺炎にかかって苦しかった。
それはいまもつづいているが、幸いなことに回復途上にあって、まだ完調とまではいかないが、もうしばらくすれば元にもどるのではないかと予想している。

この秋の季節、空気、太陽、雲、風景を楽しみ、コンサートで演奏し、みなさんと交流すること。
一日一日、一瞬一瞬が尊く、輝きに満ちている。
これをあなたにどれだけ伝えることができるか、私はいまそのことに関心を注いでいる

■ろくでもない学生時代

長くなってきたので、このへん——京都で下宿をはじめたころ——の話はざっくりとはしょる。
1年間浪人生活を送ったが、受験勉強はまったくせず、再受験すらまじめに取り組まなかった。
というのは、受験日に京都には珍しくかなりの積雪があり、歩いて行ける受験会場まで行くのがおっくうだったからだ。

再受験におっくうだった理由がもうひとつある。
さすがに2年めの受験では、親に泣いて頼まれたということもあって志望校一本に絞ることはせず、国立大の前に私大をいくつか受けていた。
そのなかで同志社大学の商学部に合格していて(たぶん受験科目に理系の数学があったからだ)、それで安心してしまったというのがある。

私の最大の関心は、親元を離れて京都に住みつづけられるかどうかだった。
当時付き合っていた彼女が京都に住んでいたこともある。

そんなわけで、私は同志社大学生となり、京都に住みつづけ、学校にはまったく行かずにいろいろなアルバイトをしながらライブハウスをめぐったり、琵琶湖までヨットを乗りに行ったり(貸しヨット屋でアルバイトもしていた)、女の子と遊んだり……ようするに遊び暮らしていた。
いまからかんがえても、ろくでもない学生であった。

そんななかで、その後の私の人生を大きく決定づける仕事(アルバイト)に出会うことになる。
いまの私はその仕事の経験からはじまったといっていい。

2019年11月12日火曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(7))

■小説を原稿用紙に書き移す

そのころ——高校生のころ——からなんとなく、鑑賞者の立場から「作り手」側の視点を意識するようになっていったと思う。
音楽にしても小説にしても、
「これはどのように作られているのか」
ということに興味を持つようになっていったのだ。

最初に興味を持ったのは音楽だった。
ブラスバンド部に一時的にでも所属していた経験が、吹奏楽団や交響楽団の全体のサウンドがどのような「パート」の組み合わせでできているのかに興味を向けることになったのかもしれない。
ベートーベンやチャイコフスキーの交響曲や、ビバルディの弦楽曲のスコア(総譜)の縮刷版を買ってきて、レコードを聴きながらそれを読むことがおもしろかった。
多くの楽器やパートが複雑にからみあって壮大な、あるいは繊細なサウンドを織りあげている、その作曲家の技に魅了された。

小説もそうで、「どのように書かれているか」に興味が向かった。
あるとき、まるごと1本、小説を原稿用紙に書きうつしてみようと思った。
といっても、長編小説だと大変なので、短編小説だ。
たしか、小松左京のとても文学的な短編シリーズの「日本女シリーズ」の一篇だったように記憶している。
それを頭から丸ごと、原稿用紙に、改行、字下げ、ルビ、句読点をふくめ、そっくりそのまま書きうつしてみた。

原稿用紙にして80枚とか100枚とか、そんな分量だったと思う。
ちょっと色っぽいシーンもあったりして、楽しんで書きうつした。
この経験はのちに自分が小説を書くようになって、大変役のたった。

■大学受験に失敗する

畑正憲やコンラート・ローレンツの随筆、日高敏高、今西錦司らの動物の本に強い影響を受けた私は、進学進路を京大の理学部動物学科しかないと決めていた。
子どものころから小動物が好きだったし、熱帯や亜熱帯でのフィールドワークにぜひ行ってみたい、自分もそんな研究をしてみたいと思っていた。
高校の進学コースも理系だったので、理学部を受験するのは不自然ではなかった。

大学受験をするもうひとつの——というより最大の目的は、親から離れてひとり暮らしをしたい、ということだった。
私の両親はよく子どもをかわいがってくれて、いまとなっては私も感謝をしているが、とにかく過干渉だった。
教育熱心で、しかしそれは小学校くらいまでは許せるが、中高生になり独立心が生まれてくると、親の過干渉はうっとおしさしかなかった。

高校生くらいになると徹底的に反抗し、親がしろといったことは自分がやりたいことであったとしても意地でもやらない、してはならないということをわざとやる、というような態度を取った。
受験も京大一本ですべりめもなし、本人は絶対受かるつもりでいた。

しかし、結果はあえなく不合格。
数学で大きなミスをやらかし、合格点に足りなかったのだった。

浪人することになったのだが、とにかく親元を離れたかった私はへりくつをつけて京都にある駿河台予備校に通うことになった。
親も「勉強してくれるなら」とあきらめたのだろう、その選択をしぶしぶ受け入れた。

予備校にも入学試験があり、それも失敗するかとドキドキだったが、なんとかパスして、京都に下宿することになった。
駿河台予備校はそのころ、出町柳の近くにあった。
予備校の斡旋でいくつか下宿先を探して、東山二条・岡崎にある学生下宿に決まった。

とにかく親から離れるのがうれしくて、また田舎から出てきた若輩者には誘惑が山ほどあり、受験勉強どころではない生活が4月からうきうきとはじまったのだった。

■京都で下宿生活

私が下宿した東山二条・岡崎という立地は、かなり魅力的・誘惑的だった。
近くに平安神宮、東山動物園、京都市立美術館、京都会館などが集まっている。
二条通りを西に歩いて鴨川を渡れば、商業的メインストリートといってもいい河原町通りがすぐだ。
河原町を南に下れば、三条、四条と繁華街に出られるし、北に上がれば京都御所や同志社大学のわきを通って下鴨神社がある。

二条より一本北側の丸太町通りもいろいろな店があって、とくにライブハウスが魅力的だった。
4月に下宿生活がスタートして何日めかの夜、私は生まれて初めて、ジャズのライブハウスというものに行ってみた。

明日は福井県立病院ピアノコンサート

2012年10月から3か月おきにつづけてきたこのピアノコンサートも、満7年となった。
今回が最後となるかもしれない、というつもりで準備してきたが、体調はまずまず。
先月末から空咳と微熱があって、最初は風邪をひいたのかと思っていたが、診察を受けたら軽い肺炎とのことで、明日のコンサートに支障が出ないか懸念していた。
幸い回復しつつあって、熱もなく、残っていた咳はだいぶおさまってきている。
ただ、肺炎の影響なのかどうかわからないが、腰痛が出ていて、痛み止めを飲まないとかなりきつい。
まあ、痛み止めはよく効いているけど。

福井県立病院でのピアノコンサートは明日で28回めとなるはずだ。
コンサートホールやイベントホールではなく、病院のエントランスホールという開かれた空間での演奏だ。
ピアノの前にオーディエンス用の椅子がならべられているが、そのまわりはいつもの病院の空間。
受付があり、自動チェックイン機や精算機があり、案内所があり、待合所があり、長いエスカレーターは上の階へとつづいている。

エントランスは吹き抜きになっていて、上の階からも演奏を聴くことができる。
上の階にはレストランや休憩スペースがあり。
大きな病院で、病床数は正確には知らないが1000床くらいあると聞いている。

ピアノ演奏がはじまると、用意されたオーディエンス用の椅子にすわって聴く人もいれば、通りがかりに立ちどまって聴いてくれる人もいる。
受付の事務のみなさんも聴いてくれているだろうし、上の階から顔を出して聴いている人もいる。
最初から最後までずっと聴いている人もいれば、ちょっとだけ立ちよってすぐに去っていくような人もいる。
このようなオープンな空間で演奏する機会は、そう多くない。
私もそういった人々のようすを感じながら、それに応じて演奏も変化していく。

この数年は毎回かならず、わざわざ聴きに来てくれる人も増えてきた。
コンサートの日程を病院に電話で確かめて、その日に足を運んでくれるのだ。
知り合いもいれば、まったく交流のなかった人もいる。
最近はFacebookなどでコンサートの日以外にも交流している人もいる。
明日はどんな人が来てくれるだろうか。
楽しみなのだ。

明日は私の中学校のときの先生がご夫婦で来てくれることになっている。
私の活動を知った先生が、それならぜひ参加のみなさんも一緒に歌をうたう機会を作ってはどうか、と発案してくれた。
明日はみなさんもよく知っている歌の歌詞をプリントしたものを配って、みんなで歌えるようにしてくれるという。

3か月後は来年の2月になる。
そのとき私の体調はどうなんだろう。
また演奏できるのかどうかまったくわからないけれど、できればまた行って、みなさんの前で演奏できるといいなとは思っている。
そのためにどのように毎日を大切にすごすことができるか、自分自身に問いながらすごしていきたい。

ピアノ七十二候:立冬/地始凍(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
立冬の次候(56候)「地始凍(ちはじめてこおる)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年11月11日月曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(6))

■繰り返し聴く、繰り返し読む

結果的には、ピアノレッスンとブラスバンド部をやめたことで私は好き勝手に音楽を楽しむ自由を手にいれたといえるかもしれない。
中学、高校と、私は弾きたい曲の楽譜を買ってきては我流で練習し、難しい部分はすっとばしたり、勝手に簡素にアレンジしたりして演奏を楽しんでいた。

その間に父のオーディオ機材もグレードアップして、家の居間には立派なステレオセットがやってきた。
レコードを聴くことはもちろん、FMラジオの高音質な放送を聴けるようにもなった。
また、これは高校になってからかもしれないが、カセットデッキが導入され、レコードやラジオ放送を録音して何度も繰り返して聴けるようになった。

これは私にとって大きなことだった。
音楽にしても本にしても、気にいったものを何度も繰り返し聴いたり読んだりする。
子どものころはだれもが、気にいった絵本を親にねだって何度も読んでもらったりするものだが、その繰り返しが学生時代までつづいていたのは、私の大きな影響を残したと思う。

本も乱読といってもいいくらいたくさんむさぼり読んだが、たくさんの本を読むと同時に何冊かの気にいったものを繰り返し読みつづけてもいた。
SFではロバート・ハインラインが気にいって、ほとんど読破すると同時に、とくに気にいった話は何度もリピートした。
アシモフの『銀河帝国の興亡』(ファウンデーションの話)も気にいっていた。
日本の作家でも小松左京や半村良の小説をリピートした。

高校生くらいになるとだいぶ難解なものにも手を出すようになって、安部公房の小説も繰り返して読んだ。
両親の本棚にならんでいた文学全集も端から順に読んだ。
とくに海外の翻訳ものは大好きで、一時はヘルマン・ヘッセにどはまりしていた。

小説だけでなく、旅行ものや動物もののノンフィクションもたくさん読んだ。
日本では畑正憲の一連の作品、海外ではコンラート・ローレンツの『ソロモンの指輪』など、あげだしたらキリがない。

■ジャズを発見する

高校生になってしばらくしてから、NHKFMに「ジャズフラッシュ」という週一の番組を発見した。
ジャズという音楽との出会いだった。
田舎にはもちろん、ジャズ喫茶などないし、あったとしても高校生の身分ではそんなところに出入りもできない。

生演奏というものにもほとんど接したことがなかったくらいだ。
中学生のとき、市民会館にNHK交響楽団がやってきたことがあって、そのときはじめて生のオーケストラの音を聴いた。
レコードで聴くのとまったく違う音色におどろいたり、楽団員のズボンや上着の裾がてかてかとすり切れて光っているのを見たりした。

ジャズは衝撃的で、それまで私が接してきたどの音楽とも違っていた。
最初は王道どおり、ビバップやモダンジャズの演奏をエアチェックしながら必死に追いかけていたが、曲名も演奏者もたくさんありすぎてとても覚えきれない。
ジャズという音楽の全貌を一度に全部把握しようとしたのが無茶だった。

途方に暮れていたある日、おなじジャズ番組からそれまでとまったく違う感じのサウンドが流れてきて、耳を奪われた。
それはウェザーリポートというグループで、いまでいうフュージョン、当時は電気ジャズだのクロスオーバーといわれていたサウンドだった。
「これがおなじジャズ?」

びっくりした私は、さっそくウェザーリポートを追いかけはじめた。
自分でも耳コピしてピアノでまねしてみたりした。
しかし、いかんせん複雑なバンド音楽をピアノ一台でコピーすることは難しい。
それならと、ピアノソロの演奏を探してコピーしてみた。
マル・ウォルドロンなどの大変暗い曲をコピーした記憶がある。

それが私のジャズ演奏のまねごとの最初だった。
それからはいろんなスタイルの演奏をまねしてピアノで練習したが、すべて我流だった。
学校にもジャズを聴く同級生はひとりもいなかった。

じつは小説の書き方も、ちょうどおなじころに私は「まねごと」をしていたのだった。

YouTube:現代朗読ゼミの冒頭の座学から

2019年11月9日。
現代朗読ゼミの最初に、初参加の人がいたこともあって、すこし座学をおこないました。
その抜粋ですが、ここではこんな話をしています。

表現のわかりやすさ/わかりにくさについての話。
表現の場における非言語的情報交換の想像以上の豊かさについて。
現代朗読がめざす(練習する)豊かな世界について。
自分の内側の情報と外側の情報を統合するフロー状態を練習する。

現代朗読ゼミの参加申し込み・問い合わせはこちら

映像はこちら
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2019年11月10日日曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(5))

■せせこましい年功序列がいやになる

当時の中学校——いまから50年近く前のことだ——というのは、とくに田舎はそうだったと思うのだが、年功序列式の先輩・後輩関係がやかましかった。
生まれたのがほんの1年しか違わないのに——人によっては数日しか違わないということもある——学年が1年違うだけで先輩・後輩とうるさく、形式的な礼儀を重んじることを強要された。
それが私には嫌でいやでしかたがなかった。

ブラスバンド部も例外ではなかった。
ひとりでは作れない大きなサウンドを、自分もその一部になってみんなで作るのは楽しかったが、音楽とは関係のないところで儀礼的なことをうるさく強要され、また教師からも強圧的な態度で接せられるのが、本当に不快だった。

先にも書いたように、私はそのころ、学校活動とはべつに読書に夢中になっていた。
とくに同級生や先輩など、学校というせまい世界での人づきあいの必要性を、まったく感じていなかった。
友だちは何人かいたけれど、べつにいなくても不自由はないと思っていた。

ブラスバンド部での活動がすぐに嫌になってしまった。
音楽だって、ピアノレッスンはやめたけれど、家にはピアノがあって——学校にもあった——好きな曲を好きなように弾くことができた。
強要されて不自由なパートを四角く演奏する活動をつづける必要性を、まったく感じなくなってしまった。

学年が変わるのを待たずに、私は退部届けを部長に出した。
つよく慰留されたが、私の気持ちはもうすっかりブラスバンドから離れてしまっていた。

■音楽の先生と英語の先生にかわいがられた

当時の私は反抗心がかなり芽生えていたようで、先輩・後輩関係だけでなく、教師にたいしても一種の「権力者」だという認識があって、とくに理不尽に強権的だと感じる教師にはかなり反抗的な態度をとっていたようだ。
最近になって当時の学校関係者から聞いたことだが、いまだに私のことを忌み嫌っている教師や同級生がいるらしい。

それはそうかもしれない、と思う。
読書好きのおかげだったといまでは思われるが、当時の私はとくに勉強などしなくてもかなりいい成績だった。
授業中は反抗的な態度を取ることがあり、試験勉強もろくにしないのに、成績だけはいいというのは、秩序を重んじる教師にとってはかなり扱いづらい存在だったろうと思う。

しかし、私のことをおもしろがっている教師もいた。
たとえば、音楽の先生もそのひとりだった。
とても優しい先生だったので、反抗的な私にたいしても強権的な態度を取れなかっただけかもしれないが、ピアノが弾ける私を合唱部のピアノ伴奏をやってみないかと誘ってくれた。

合唱部は全員が女性徒で、べつに女性合唱部というわけではなかったが、「男が女といっしょに合唱なんて」という変な風潮が当時の田舎町にはあって、男子生徒はひとりも参加していなかった。
そこに私ひとり、ただしピアノ伴奏者として参加することになった。

これはなかなか楽しかった。
おなじ集団表現でも、私はひとり、別枠といっていいポジションにいて、そのポジションが居心地よかったのだ。
私の伴奏も部員や指導の先生に好評で、歓迎されたのもよかった。
そしてなにより、変な先輩・後輩という序列があまりなかった。

その先生は何年か前に、自宅で転んで怪我をして入院したことがきっかけで認知症をわずらい、急に弱って亡くなってしまった。

音楽の先生以外に、私を1年生のときだけ受け持ってくれた英語の先生がいた。
とても気概があり、教師でありながら平等や反権力の意識が強く、過激な言動にびっくりさせられることもあったし、私も厳しくしかられることが多かった。
しかし、彼女の論理は私には納得できるもので、しかられたとしても理不尽を感じることはなかった。

その先生とはいまだに付き合いがつづいていて、もうかなり高齢だけれどいまだに市民運動に積極的に参加されていたりして、たまに私がたずねていくと歓待してくれて話がはずむ。

2019年11月9日土曜日

オーディオブックの演出、移動は延期

ゼミ生の矢澤ちゃんからもらった果実のドリンクジェル、おいしい。
ありがとう。

昨日は矢澤ちゃんの朗読を聴かせてもらって、すこし演出と修正。
作品がたまったので、後日オーディオブックとして収録する予定。
あたらしいオーディオインターフェースも来たので、収録体制は万全、のはず。

今日はこれから朗読ゼミ。
ゼミ後、北陸に向かおうかと思っていたけど、咳と腰痛がまだだいぶ残っているのと、午後から夜にかけて体調が低下する傾向が気になるのとで、延期。
午後はゆっくりしよう。


いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(4))

■長引く肺炎のなか朗読レッスン

昨日は朗読の個人レッスンをおこなった。
このところ、軽度の肺炎にかかっていて、それが長引いている。

肺炎というのは、かかったことがある人にはよくわかると思うが、けっこうやっかいだ。
最初は空咳が出たり微熱があったりして、風邪をひきかけているのかと思った。
が、風邪のように気管支の炎症ではなく、咳はもっと奥のほうから痰《たん》も痛みもなく起こる。
息苦しさがあって、大きく息を吸いこむと、むせかえるように咳が出る。
だから大きく息を吸えない。

運動するとすぐに息切れする。
ゆっくり歩く分にはいいのだが、急ぎ足で歩いたりすると息切れして苦しくなる。
階段の上り下りもゆっくりしかできない。
ましてや駆けたり、筋トレしたりなんてことはできない。

そんな状態が十日近くつづいていて、なるべく安静にして回復をはかっているのだが、なかなかよくならず、長引いている。
出かけることを控えているが、個人レッスンなら人が来てくれるので負担も少ない。
そして不思議なことに、朗読のことをやっているときは、グループワークでも個人演出でもあまり疲れを感じないのだ。

私は社会的には職業を問われれば、小説家であり、ピアニストといえるが、これほどまで朗読が好きになり、朗読と関わるようになったのには、ちゃんと理由がある。
私自身は朗読はやらないというのにだ。
つまり、私が自分で本を読み、表現行為としてひと前ではおこなわない。
私が朗読に関してやるのは、朗読のためのテキストを書き、朗読者のトレーニング指導を行ない、朗読演出をし、時には採集的なライブやステージで同じ共演者という立場でピアノやキーボードなどの楽器を演奏することはある。
私がそんな風に朗読とかかわっているというと時々おどろかれることがあるのだが、ここにいたったその筋道をいま書いているのだ。

■ブラスバンド部にはいる

中学校に入ってピアノのレッスンに行くのはやめてしまったけれど、音楽が嫌いになったわけではない。
とはいえ、中学生になったばかりの男の子の音楽知識や経験なんてたかが知れている。いまのようにネットに音楽が溢れかえっていて、どこでも自由に好きな曲を聴ける時代ではなかった。

私の音楽体験と知識は、まずはピアノレッスンで自分が練習していた初歩のクラシック音楽——とくにピアノ曲。
それからテレビやラジオから流れてくる流行歌やポップスなど、ランダムで雑多な音楽。
学校の音楽の時間に歌ったり、レコード鑑賞で聴いたクラシック音楽やフォーク音楽。
そういったところだった。

ほかには小学校でも中学校でも、学校では定期的に放送で流れる音楽がいくつかあって、繰り返し強制的に聞かされるために耳にこびりついてしまった。
運動会に流れるマーチなどの勇ましい音楽もそうだ。

私はマーチ(行進曲)がけっこう好きで、中学校にはいるとブラスバンド部がそれを練習して演奏するということを知った。
それまで集団で音楽をやることがなかった私は、そのことも興味がひかれたのかもしれない。
ピアノレッスンはやめたけれど、音楽に興味をうしなったわけではなかった私は、中学生になるとブラスバンド部に入部した。
パートは花形のトランペットの端くれだった。

まずは毎日、マウスピースをくわえて音出しの練習をした。
入部したての1年生だけが体育館の外にならばされてマウスピースをくわえ、ブーブー音出しの練習をえんえんとやらされるのには閉口したけれど、音が鳴らないことにははじまらない。
どんな楽器でもそうだが、入門のときにはかならずある程度の(ばかみたいな)反復練習が必要になる。
ピアノの練習でそれには慣れていた。

ある程度音が出るようになると、パート練習にはいる。
ブラスバンドのなかでもトランペットはメロディラインを高らかに演奏する花形パートだったが、全員がメロディを吹くわけではない。
トランペットパートもさらに3パートくらいに分かれていて、その一番底部のメロディとはかけはなれた部分を受け持つ第3パートを、1年生はまずやらされる。
第3パートの音は、メロディ的には変な感じだが、3パート全員が合わさるとちゃんとハーモニーを作るようにできている。
自分が吹く音がハーモニーの一部になっていて、全体のハーモニーができあがるのは、なかなか楽しい経験だった。

私は楽譜が読めたので、音が出るようになるとすぐにパート譜を演奏できるようになった。
同期の1年生がほかにも数人いたが、みんな楽譜を読むのが苦手だったので、彼らに教えてやったりもした。
私はブラスバンド部のなかに(一瞬だけ)自分の居場所を感じて、しばらくは楽しく部活動にいそしんでいた。

ところがそれも1年を待たずして終わりを告げることになる。

2019年11月8日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(3))

■ピアノを習う

ところで、中学生の私は読書しかしてなかったわけではない。音楽も好きで、しかし小学3年のときから習いはじめたピアノは、中学入学と同時にやめてしまっていた。

両親——とくに父は音楽好きで、当時は珍しい電気蓄音機を持っていたくらいだ。
田舎町にも楽器屋があって、ブラスバンドや音楽の時間に使うさまざまな楽器を売っていたが、当時はピアノを購入する家が増えはじめていた。
ヤマハやカワイ、スズキなどのメーカーが音楽教室を全国的に展開し、ピアノを個人家庭に売りこみはじめていたのだ。

音楽好きの両親がそれを見逃すはずはなく、四歳になったばかりの私の妹が近所の音楽教室に通うことになった。
通いはじめてしばらくすると、私の家にアップライトのピアノがやってきた。

私が三年生になる直前に、
「ピアノを習いたいか?」
と聞かれて、妹とおなじ音楽教室ではなく、ピアノの個人レッスンに通うことになった。
ただし条件があって、それは毎日、かならず最低30分は練習すること。
最初のころはそれでも楽しかった。
昔ながらの、バイエルやハノンを使ったレッスンで、楽譜はすぐに読めるようになって、レッスンはどんどん進んだ。
毎日の練習が成果をあげ、一年足らずのうちにバイエルは全部終わってしまって、四年生になる前にはブルグミュラーの組曲に取りかかった。

バイエル練習曲とはちがって、ブルグミュラーはいまでも弾いて楽しいようなちゃんと音楽になっている曲集で、だんだん難しくなっていったがこれもどんどん進んだ。
半年ほどでブルグミュラーも終え、チェルニー練習曲やソナチネ曲集を弾くようになっていた。

■ピアノを習うのをやめる

年に一回、ピアノ教室の発表会が市民会館のホールであった。
三年生のときはプログラムの最初のほうで小さな子どもたちにまじって発表したが、五年生になるころには中学生の女の子にまじってプログラムの後ろのほうでモーツァルトのソナタを弾いた。
ピアノ教室は私以外のほぼ全員が女の子で、かなり目立ったことだろう。
子どものころはそんなふうに目立つこともかえっておもしろく、喜んで教室に通っていた。

が、六年生になるとなんとなく心境に変化がおとずれた。
当時の田舎社会の風潮というのもあったかもしれない、男の子がひとり、女の子にまじってピアノレッスンに通っていることを時々揶揄されるようになり、私もなんとなく恥ずかしさを感じはじめていた。

そう感じはじめるとにわかにピアノレッスンに行きたくなくなり、練習もやらなくなってしまった。
中学にはいるのと入れ替わりに、ピアノレッスンをやめさせてくれと、泣かんばかりに両親に頼んで、なんとかやめさせてもらった。
そのころにはベートーベンのソナタやドビュッシーの難曲なども弾きこなすようになっていたので、私がピアノをやめることはかなり残念だったろうと思う。

このあとが不思議だったのだが、私がいまだにこうやって自由にピアノ演奏を楽しみ、また即興ピアノで朗読など他ジャンルとの共演をするという独自のスタイルを獲得できたのは、このときにピアノレッスンをやめられたことが大きなきっかけとなっていることに間違いない。

2019年11月7日木曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(2))

■旺文社の文学文庫

中学生になったとき、私がよく本を読むようになったことを喜んだ両親が、大きなプレゼントをしてくれた。
旺文社の文庫本サイズの50冊セット文学全集だ。
文庫本といっても、表紙はすべてハードカバーで、デザインも薄緑色に統一されていて、揃っている感があった。
しかも50冊がちょうどおさまるミニ本棚もついていた。

これはあと50冊を加えて全100冊セットになっていて、後日、買いそろえてもらった記憶がある。

両親の本棚にある文学全集は旧仮名遣いが混じっていたり、文字が細かかったりと、中学生にはまだハードルが高かったので、この旺文社のシリーズはうれしかった。
このシリーズで日本も世界もいっしょくたに、代表的な文学作品をたいてい読んだ。
ルナールの『にんじん』とか好きだったし、ドストエフスキーとかスタンダールとか、夏目漱石の『坊っちゃん』や『猫』もこれで読んだ。

■SF小説にハマる

中学生のころはやたらと本ばかり読んでいた記憶がある。
学校の図書館にももちろんたくさん蔵書があって、なかでもジュニア向けの世界SF選集にハマった。
いまとなってはまったく思い出せない無名の作家のものもたくさんまじっていたが、有名どころもあった。
日本人作家では、当時ジュブナイルをたくさん書いていた眉村卓の作品などがあったように思う。

眉村氏はつい先日、お亡くなりになった。
ご冥福をお祈りする。

図書館のSF選集をきっかけに、SF小説のおもしろさにどっぷりとひたる日々がやってきた。
世間ではSF小説というとまだまだキワモノ扱いだったし、両親も私がSFを読むことはあまり歓迎しなかった。
しかし、おもしろいものはしかたがない。
『SFマガジン』という月刊の文芸雑誌が早川書房から出ているのを知って、近所の書店で定期購読を申しこんだ。

これが私にとって、「いま現在」動いている、最新の文芸の世界(SFという限られたジャンルではあったけれど)の情報に接する、最初の機会となった。
田舎の中学生にとっては画期的なことだった。

■北陸の山間部の田舎町

田舎といってもどのくらいの田舎なのか、説明しておかねばならない。
私が生まれ育ったのは福井県勝山市という町で、市とはいっても現在は人口が2万3千人をまもなく切ろうかというところだ。
県庁所在地の福井市から電車で小一時間、車でも3、40分、九頭竜川にそって山間部へとはいっていく。
九頭竜川中流域の河岸段丘によってできた盆地で、四方を山に囲まれている。
天気がいいと白山山系が見える。

さらに奥へと進めば、大野市、和泉村をすぎて、岐阜県の白鳥へと抜ける。
その先は飛驒や美濃地方へとつながる。
かつては交通の要所だったようだが、いまはさびれてしまって、高速道路も通っていない(長らく工事中ではある)。

そんな町でも、私が子どもの頃は何軒か本屋があった。
もちろんいまのように流通が発達してはいないので、ほしい本があれば本屋に注文する。
うまくすれば二、三週間でとどく。
通常は一か月くらい待たされる。
そのくらい、都市部との情報遅延や格差があったということだ。

そんな田舎のどん詰まりのような町で、私は毎月届けられる『SFマガジン』という現在進行形の文芸情報をむさぼるように読みあさっていた。

ピアノ七十二候:立冬/山茶始開(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
立冬の初候(55候)「山茶始開(つばきはじめてひらく)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。