2017年6月28日水曜日

日本みつばちがやってきた

二年ぶりに日本みつばちの養蜂にたずさわれることになった。
和食ちゃんが縁をつないでくれて、町田の養蜂家の守屋さんから1群を譲り受けることができたのだ。
それを、多摩のあした農園に置かせてもらえることになった。

あした農園の渡辺さんも日本みつばちに興味があって、もう1群を譲ってもらえることになったので、あした農園に2群が同時にやってきた。

巣箱はいわゆる重箱式だが、独自に作られた小型のものだ。
話を聞いてみると、容量がちいさいので巣の成長が早いとどんどん継ぎ足していく必要があるが、小型なので巣が落下することは少ないという。
私は巣枠式でしか飼ったことがなく、重箱式は初めてだ。

今年はまずこれで群を育て、翌年分封してくれれば、そちらを巣枠式にいれようという魂胆だ。

昨日、町田からあした農場に巣箱を運んできた。
夕暮れになってみつばちたちの活動が静まるのを待って、車で運んだ。
あした農場を南側に見渡せる絶好の場所に巣箱を設置した。

今日は朝から雨降りだったが、見に行ってみたら、みつばちたちは元気で、どうやら落ち着いてくれたようだ。
渡辺さんも守屋さんも見に来てくれていて、私は目撃しなかったのだが、この雨のなか、花粉を運んでいるみつばちも見たとのことだった。

花粉を運んでいるのは、幼虫を育てている証拠だ。
晴れたらどのくらいの頻度で運んでいるのか、数えてみようと思う。

日本みつばちが命(群)をつなげる環境というのは、生き物の多様性が保証されていることの指針になる。
ニンゲンはおごりきった物質文明思想をあらためて、地球生命の多様性に寄与できる生き方にシフトしていけないだろうか、と思うのだ。

2017年6月26日月曜日

ひさしぶりにビビっ! ファビアン・アルマザンというピアニスト

最近けっこう有名になってきて、来日もしているらしいんだけど、まったく知らなかった(とはいえ、最近のジャズシーンからはとんと遠ざかっている)。
ファビアン・アルマザンという名前のピアニストで、キューバのハバナ出身らしい。

幼少のころからクラシックピアノをみっちりやっていて、演奏を聴くと、なるほどさりありなん、という感じ。
どこがそんな感じかというと、ブラッド・メルどーもそうなんだけど、いわゆるジャズピアニストの奏法である左手でコードもしくはテンションノートによるバッキング、右手でメロディラインやアドリブフレーズ、というスタイルをあまりとっていない。
右も左も自由に動いていて、左のラインもアドリブフレーズとしてときに重要な役割をになっている。
クラシック音楽でいえば、バロック音楽の対位法的な感じ。

しかし、そんなみみっちいことよりも、なによりも、音楽性がすばらしい。
たまたま最初に聴いたのが『Alcanza』というアルバムで、全体が組曲のような、物語のような感じがする構成になっている。
映画音楽のように映像やストーリーを連想するサウンドだ。
いいのだ、これが。

もともと映画音楽そのものも好きだが、映画音楽的なサウンドが好きだし、自分でも演奏するとき、朗読という、いわばストーリーと共演することが多い。
そもそも私自身、演奏家であると同時に、小説家でもあるわけだし。

アルマザンの音楽はまぎれもなく長編小説だ。
ジャズ的だし、間違いなく現代ジャズの語法で語られているのだが、サウンドはクラシック的であり、フォルクローレ的でもある。
ストリングスがはいっていて、しかしそれは「ストリングスがはいっているジャズ」とか「ストリングスがはいっているイージーリスニング」といったものとはまったく違っていて、サウンドの重要なパートをになって仕組まれているのだ。

YouTubeを探すとストリングスがはいったバンドでのライブ映像がすこし出てくるが、トランペットやサックスの位置にストリングスがいるといってもいいくらいだ。

『Alcanza』ではもうひとつ、ボーカルのカミラ・メザがすばらしい。
チリの人らしくて、本国ではジャズミュージシャンとして第一人者で、自身の大きなバンドも率いていたらしいが、いまは活動拠点をニューヨークに移している。
ソロアーティストとして十分にすばらしい人だが、アルマザン・バンドのボーカル(とギター)としてはまりきっている。

良質の映画を一本観たあとのような、良質の文学作品を一冊読んだあとのような、なんともいえないふくよかな、同時にいても立ってもいられないようなクリエイティブな刺激をもらった音で、ひさしぶりに何度もリピートしながらこれを書いている。

◎ギフト制によるレッスン/個人セッション
対面でもオンラインでも、レッスンや個人セッションを「後払い/いくらでもギフトで」という方式でおこなっています。メールでもメッセージでも気軽にどうぞ。お待ちしてます。興味のある方はこちらの詳細ページをご覧ください。

しつこく作りつづけるぞオーディオブック

今月リスタートした現代朗読ゼミだが、こちらでは「身体表現としての朗読」の研究とトレーニング、そしてステージ作りの実践をおこなっている。
そのほか、かつてさかんにおこなっていたように、オーディオブックの研究とトレーニング、実践としての収録・製作・配信をおこなっていきたいと思っている。

20代後半からラジオ番組の製作にたずさわるようになって以来、30数年、ずっと音声コンテンツにかかわってきた。
音楽や朗読のライブだけでなく、収録コンテンツも数多く作ってきた。

いまでこそオーディオブックというと一般的になってきたが、アップルがiPodとiTunesで日本に殴りこみをかけてきたとき、本格的に日本語の朗読コンテンツを作っていたのは、わがアイ文庫ほか数社程度だった。
つまり、ネット配信のオーディオブックコンテンツの製作者としては、草分けと胸をはってもいいんじゃないだろうか、と思う。

もちろん、当初の製作方法やノウハウにあぐらをかいているわけではない。
日々進歩する収録機材やソフトウェア、ネットのシステムなどを追従し、取りこみながら、朗読者そのものの育成方法についても進化/深化しつづけてきたという自負がある。

ライブ朗読のみならず、収録朗読、あるいはYouTubeを含む動画ネット配信などに興味をお持ちの方は、まずは一度、現代朗読ゼミに単発体験参加に来てみてほしい。
どんな形であれ、朗読や音声コンテンツに興味をお持ちの方は歓迎なのだ。
まったくの初心者も大歓迎です。

6月開催:現代朗読ゼミ
29(木)10時半から約2時間。

7月開催:現代朗読ゼミ
いまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現することをめざす現代朗読ゼミ、7月の開催は2(日)10時半/6(木)10時半/13(木)10時半/22(土)10時半/27(木)10時半/29(日)10時半、いずれも10時半から約2時間。

2017年6月25日日曜日

たんぱく質を取れレシピ(とれれしぴ)

糖質をカットするダイエットがはやっているが、私もだいぶ前からなるべく糖質を取らないように留意していた。
といっても、ご飯や麺類は好きで、まったく食べないわけではなく、とくに外でご飯を食べるときにはそもそも糖質を摂らないのは無理。
ゆるい糖質カットだが、その分、たんぱく質は積極的に摂りたい。

筋トレをやっている人は良質のたんぱく質を摂るために、鶏肉の脂身のすくない部位をよく食べるという。
私は鶏肉といえばもも肉が大好きなのだが、むね肉を使った簡単料理をやってみたので、紹介したい。
それにしても、むね肉って安いのね。

【材料】二人分
・鶏のむね肉……1枚
・玉ねぎ……小1個
・鷹の爪……1本
・にんにく……1かけ
・オリーブ油、塩、こしょう、粒マスタード

鶏のむね肉は食べやすい大きさにスライスしておく。
玉ねぎも月型にスライス。
鷹の爪は種を抜いておく。

フライパンににんにくのみじん切りと鷹の爪、オリーブ油(大さじ1)を入れ、弱火にかける。
にんにくが香り立ってきたら、鶏肉と玉ねぎを入れ、塩・こしょうをして火を強め、鶏肉に火が通るまで炒める。
最後に粒マスタード(大さじ1)を加えてまぜあわせたら、完成。
皿に盛りつけて、あればイタリアンパセリなどを散らしたら、なおよし。

このパターンで手抜きパターンの応用編もご紹介。
粒マスタードの代わりにマヨネーズを使う。
鷹の爪とにんにくは省略。
フライパンにオリーブ油をいれて、鶏肉と玉ねぎを炒めて、塩・こしょう。
最後にマヨネーズをからめて、おしまい。
これもけっこういける。
マヨラーの方はお試しを。

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2017年6月24日土曜日

紙本の『共感的コミュニケーション2017』在庫入荷

安いし、かさばらないし、スマホにいれていつでも持ち歩いて読めるし、Kindle本のほうがいいよってコトあるごとに強調しているのに、それでも紙の本のほうがいいという人が一定数いるので、ちょこちょこと発注しては在庫をいくらか手元に置くようにしている。

どうやって作ってるの、とよく聞かれるのでちょっと書いておくと、以前はBCCKSというePubから紙本まで一貫して作れるサービスを使っていたんだけど(いまも使ってるけど)、紙本だけより経済的な「製本直送.com」というサービスを使っている。
InDesignで版下を作って、それをPDF入稿するので、だれにでもおすすめできるわけではないけれど、とにかく1冊から発注できる。

カバーは別の印刷所に、こちらはイラレデータで入稿して発注。
けっこう手間がかかるのだが、一度作ってしまえば追加発注は楽。

というわけで、入荷しているので、紙本が必要な方はこちらからどうぞ。
カード決済も使えて、購入もやりやすくなっているはずです。

2017年6月23日金曜日

共感サロンがめざすところ

ちょっと乱暴ないいかたかもしれないが、共感的コミュニケーション(NVC)は「使ってなんぼ」だと思っている。
NVCを習得してなにをしたいのか、NVCを身につけることでどんな世界を実現したいのか。
NVCを学ぶことそれ自体が目的では、もちろん、ない。

習ったら使ってみる。
最初は下手くそでも、とにかくトライしてみる。
使ってみることで、習うこと以上のことが見えてくる。
すると、習うよりはるかに多くの上達が生まれてくる。
そしたらまたあらためて、学びの場に参加してみる。
全然ちがう風景がそこにあるはずだ。

なんのために共感的コミュニケーションを身につけるのか。
そこがはっきりしていて、とにかくそれをトライしてみる人は、上達が早い。

家族との関係を改善したいのか、職場の人間関係をよくしたいのか、夫婦のつながりを取りもどしたいのか。
社会に貢献したいのか、対立を解消したいのか、いきいきとした自分の人生を生きたいのか。

私の場合も目的がある。
おそれなくいきいきと、自分らしくのびやかに表現すること。
自分の人生を大切に生きること。
同時に他人の時間もおなじくらい大切にすること。

共感的コミュニケーションは強力なスキルだが、それだけでは足りない部分も(私には)ある。
それをおぎなうために共感サロンという場をひらいている。

共感サロンでは共感的コミュニケーションの学びにくわえて、自分自身のことを知ること、とくに身体とあたまが分離してしまっている現代人である我々の、生きものとしての「統合」をはかること。
いまこの瞬間の生命現象にいつもつながっていて、いきいきとほがらかに、そして力強くふるまうこと。

これらを、声を出したり、なにかを書いたり、対話したりすることをきっかけに、各人が探求していく。
これが共感サロンのめざしているところだ。
瞬間瞬間移りかわり、変化している状況と自分自身の身体をどれだけ注目し、知り、そこから生まれてこようとしているすばらしいものを妨げないようにできるか。

学びの場であり、実践の場でもある。
そういうことを深めていきたいと思っている。

7月開催:水城ゆう共感サロン(7.1)
オンラインまたはくにたち会場への直接参加、どちらでもどうぞ。著者によるアットホームな共感的コミュニケーション(NVC)の勉強会です。7月の開催は7月1(土)18時/3(月)11時、いずれも約2時間。

2017年6月22日木曜日

7月25日:国立・韓氏意拳養生功講習会

国立での駒井雅和中級教練による韓氏意拳・養生功の韓氏意拳学会公認講習会、2017年7月のお知らせです。

◎日時 2017年7月25日(火) 19:30〜21:00(ショートクラス)
◎参加費 2,500円(講習会費、会場費、講師交通費を含む)
◎場所 国立駅から徒歩5分の会場
◎持物 動きやすい服装・筆記用具・メモ

参加予約はこちら「韓氏意拳学会公式フォーム」から。
もしくは水城ゆうウェブサイトのコンタクトフォームから。

もうすぐ15周年の語人(ストーリーテラー)サヤ佳

私が活動拠点をくにたち春野亭に移してから初めてとなるレッスンに、語人(ストーリーテラー)の小林サヤ佳ちゃんがお母さんの希依子さんと豊田市からやってきた。
ふたりが最初に私のところにやってきたのは、じつに15年前のことだった。
サヤ佳ちゃんはそのとき、中学3年生で14歳だった。
知的障害を乗りこえて二人三脚で語りの活動をはじめたばかりだった。

母の希依子さんは、サヤ佳ちゃんが語りで自立して生きていってほしいと、いろいろな人のもとを訪れてサヤ佳ちゃんにレッスンを受けさせていたのだった。
私はそのとき、世田谷の豪徳寺に活動拠点があったのだが、わざわざそこまで「ご指導をお願いします」とやってきたのだった。

以来、気がついたら15年、サヤ佳ちゃんの成長を見守り、サポートをつづけさせてもらったことは、私にとっても大きな喜びだ。
その間、私の「指導」は一貫して「よけいなことはしない、成長の邪魔をしない、ただただまっすぐにのびのびと語ってもらう」という方針だった。

本来、人というのはそういうもので、障害があろうがなかろうが、成長するためには「邪魔されないこと」「のびのびと練習できること」「ジャッジされないこと」が必要で、それが保証されたとき、本来その人が備えている能力の可能性を最大限に伸ばすことができる。
それは大人であってもおなじだ。

音楽や文学、朗読などの世界で指導をもとめられることが多かったし、いまでもそうだが、もし私が「指導」するとしたら、「なにもしない」「邪魔しない」ことに尽きる。
私ができるのは、その人がのびやかに、安心して楽しく表現できる環境をととのえることだ。

とはいえ、私も表現する人間なので、私とともになにかをいっしょに作る・共演する、という立場になった場合、当然相手にお願いしたいことも出てくる。
サヤ佳ちゃんを私の共演者としてあつかったとき、彼女にもっとこうなってもらいたい、ここでこうやってほしい、こんなふうな表現がほしい、ということが出てくる。
それはもちろん、彼女になにかを「足してほしい」といっているわけではなくて、本来彼女が持っているものをより発揮してもらいたいだけなのだが、そうするためにはそうするための訓練がやはり必要になる。

この15年間、お母さんの庇護のもと、ひたすらまっすぐ伸びつづけてきたサヤ佳ちゃんだけど、ここから先はそろそろ表現者としてさらに魅力を増す別次元のレベルへと進んでいってもらいたいし、それができる人だと私は確信している。
これまでもすばらしい語り手だったが、これからはさらに朗読や身体表現も加わって、本当に楽しみな表現者へとさらに大きく成長していくだろうと、私は思っている。

2017年6月21日水曜日

「感謝する」とはどういうことか

よく「生きていることに感謝しなさい」「感謝しながらいただきなさい」「感謝が大事」などといわれる。
なぜか命令形でいわれることが多くて、私などは反射的に反発反応が生まれてしまうのだが、ちょっと待て、じぶん。
感謝するとはどういうことなのか、あらためてかんがえてみたい。

共感的なアプローチでかんがえてみる。
これはマーシャル・ローゼンバーグのことばだが、
「人は二種類のことしかいっていない。「ありがとう」と「お願い」だ」
というのがある。

解説すれば、「ありがとう」をいうのは「ニーズが満たされたとき」で、「お願い」をいうのは「ニーズが満たされていないとき」だ。
ニーズには「満たされている」か「満たされていない」かふたつの状態があって、そのどちらの状態にあるかによって人の言動が変わってくる。

だれかが怒っていたり、悲しんでいたり、苦しがっていたり、寂しがっているとき、その人のニーズは満たされていない状態にあって、その人の言動は「お願い」ととらえることができる。
聞いてもらいたかったり、なんらかの助けを必要としているのかもしれない。

その逆の場合は「ありがとう」ととらえることができる。
これがマーシャルのいっていたことだ。

すると「感謝」つまり「ありがとう」を表現するのは、ニーズが満たされたときの言動ということになる。

私は「感謝する」のはだれかに強制されたり、なんらかの手順のなかで決められたとおり行なうのではなく、自然に自分のなかから湧きでてくる表現だろうと思っている。
私のなんらかのニーズが満たされたとき、ありがとうが自然に出てくるのだ。

人になにかをしてもらって、そのことで自分のなんらかのニーズが満たされたとき、自分のニーズが満たされたことを相手に伝えるのが「感謝する」という言動だろう。
相手とより共感的につながりを深めたければ、自分のなんのニーズが満たされたのか、具体的に相手に伝えればいいだろう。

「あなたが手伝ってくれてたすかりました。サポートや尊重、つながりのニーズが満たされ、私はうれしいのです。ありがとう」

よりつながりの質を高めるのに役立つ伝えかただ。
これを自分自身にむけてやるとき、それは「お祝い」となる。

水城ゼミ・共感サロンメンバー向けの共感的コミュニケーションの勉強会です。6月の開催は23(金)19時/24(土)16時、いずれも約2時間。

2017年6月20日火曜日

「私にはあなたのニーズを知りたいニーズがある」という暴力

とかく親密な関係にあるふたりの間で起こりがちなことだが、共感的につながりたいと思うあまり、お互いのニーズを知りたい、確認したいという気持ちが高まり、ときにそれが切迫してしまうことがある。

ちょっとした行き違いがあったり、対立が起こったりしたとき、共感的コミュニケーションを学んだ自分としては、相手を責めるのではなく、共感したいとかんがえる。
暴力的な世界から、共感と思いやりの世界に移行したいと思っている。
なので、相手がなにを大切にしているのか、いまこの瞬間の相手のニーズはなんなのか、共感を向けて知ろうとする。

また同時に、自分のニーズは相手とつながりたい、相手に共感したい、相手のニーズを知りたいことだと思っている。
自分のニーズを理解し、そこにつながり、相手に共感していく。
これは共感的コミュニケーション(NVC)のセオリー通りであり、どこもまちがっていないように見える。
だから、相手に、
「あなたのニーズは○○なのかな? 私はあなたのニーズを知りたいというニーズがある」
と迫ってしまう。

しかし、ちょっと待ってほしい。
そのときあなたは、対立が起こったその時点から時間が経過しているいまこの瞬間にいたって、相手のニーズがすでに変化しているかもしれないことに気づいているだろうか。

あなたが共感しようと相手に迫ったとき、すでに相手は、だれかから共感を受けたり自分のニーズを伝えたりする余裕や気持ちがなかったりするかもしれない。
相手はただ、自分をそっとしといてもらいたい、自分のスペースと自分なりのペースを必要としているだけかもしれない。
そういう相手に「ニーズを教えてほしい」と迫るのは、これは共感ではなくすでに「強要」となっていることに、あなたは気づいていない。

「強要」とか「要求」「命令」というのは、相手に選択肢をあたえないという意味でまさに「暴力」といっていい。
銃を突きつけて、こうしろ、さもないと撃つぞ、といっているようなものだ。
共感とはつねに、相手の側にも選択肢があるものだ。

あなたは相手のニーズを知りたい、教えてもらいたい、しかし相手はそれを教えたくないかもしれないし、すでに話をする余裕すらないのかもしれない。
こちらに答えてもいいし、答えなくてもいい、また、なにか別のことをしてもいい、と相手が選択することをこちらが尊重している必要がある。
あなたのニーズはそのとき満たされないかもしれないけれど、ニーズが消えるわけではない。
自分のニーズを相手に伝えた上で、相手が自分のニーズにしたがって選択することを尊重したい。
それが、お互いのニーズをともに尊重する共感的コミュニケーションの原理である。

自分とつながるテキストライティングWS(7.1)
いまの時代こそ表現の根本である「ことば」が重要であり、私たちは自分自身を語ることばを獲得する必要があります。それを模索するワークショップを7月1日(土)に国立およびオンラインで6時間にわたって、じっくりとおこないます。

2017年6月19日月曜日

実効性が高い身体的共感練習

韓氏意拳という武術に取り組むようになってもっとも強烈にショックを受けたことがある。
それは、いかに自分が自分の身体のことを「知っているつもり」「コントロールできているつもり」であるか、ということだ。

子どものころから自分の身体を含む「生き物」に関心があって、さまざまな興味や好奇心で探求しつづけてきた。
生き物をたくさん飼ったりしたのもそのせいだし、中学生のころにはヨガにはまって自分なりに修行じみたことをやったりした。
おかげで、息こらえで4分以上息を止めていられるようになった(いまはどうだろう?)。

ピアノを弾いてきたので、その過程で身体、腕、手、指のコントロールの鍛錬をつづけてきた。
ハノン練習曲集やチェルニー練習曲集はそのための挑戦のためにやったし、しだいにできるようになっていくのも苦しいながらに楽しい面もあったのは確かだった。

一方、武術はいうまでもなく、自分の生死を賭する場面を想定した稽古をおこなう。
その際、「つもり」はそのまま「隙《すき》」につながる。
その隙は敵に差しこまれて、こちらの「負け」つまり「死」となる。

稽古を重ねるうちに、自分の隙よりも相手の隙のほうが先に見えてくる。
自分ができていること、できていないことがすこしわかってくると、それができていない相手のことがよく見えるのだ。
囲碁の勝負の世界で「岡目八目《おかめはちもく》」ということばがあるが、自分のことより人のことのほうがよく見える、ということだ。

自分の隙もわかるようになってくると、愕然《がくぜん》とする。
自分の身体がどれほど見えていなかったか、身体がいかにバラバラになっているか、いかに身体へのまとまりや注目がうわずって足まで降りていないか、そしていかに思考ばかり先行して体認ができていないか。

武術においてもっとも隙が大きくなるのは、観念が先行するときだ。
こうすればああなるはずだ、という思考や型、形、やりかたをすこしでもなぞろうとしたとき、こちらは「死に体《たい》」となる。
観念は感覚を奪う。
生きた体「活体《かったい》」でいるためには、観念の世界をはなれ、思考を手ばなし、感覚体でいつづける必要がある。

これを別のことばでマインドフルネスとか「気づきのある状態」ということもできる(一般的イメージよりずっと濃い世界だが)。
このとき、まぎれようもなく、自分の「ニーズ」が浮き彫りになる。

共感的コミュニケーション(NVC)では「ニーズ」につながることを大事にするが、武術の世界ではそれはわざわざつながるものではなく、極限状況においていやがおうもなく浮き彫りになってくるものだ。
極限状況を想定した稽古において、それはおのずと浮かびあがってくる。
実感としてはニーズが「発生」してくる、といってもいいかもしれない。
ニーズは韓氏意拳の「意」に似ていると私はとらえている。

ニーズ=意が発生すると、いやがおうもなく身体はそれに応じようとする。
かんがえる間もなくそちらに向かって動く。
タイムラグはとても短い。

これらの稽古は困難をともなうが、有効性が高い。
自分とつながること、相手とつながること、こういったコミュニケーションの世界においても、観念にとらわれないために身体感覚はとても重要で、有効だと実感している。
身体をともなわない共感練習は実効性が低いといわざるをえない。

7月開催:水城ゆう共感サロン(7.1)
オンラインまたはくにたち会場への直接参加、どちらでもどうぞ。著者によるアットホームな共感的コミュニケーション(NVC)の勉強会です。7月の開催は7月1(土)18時/3(月)11時、いずれも約2時間。

2017年6月18日日曜日

人の感情の影響を受けないために

毎月、実家に帰るたびに開催している「実家音読カフェ」を、今回も実施した。
このところ、毎回参加者が増えつづけていて、「これ以上増えたらどうしよう」と心配していたのだが、杞憂だった。
今回の参加者は4人と、落ち着いてやることができた。

そこで出た話題。
老人ホームに読み聞かせのボランティアに行っていたんだけど、行くたびにこちらの気持ちが落ちこんでしまって、だんだん耐えられなくなってやめてしまった、ということをいう人がふたりいた。
みなさん、きちんとこちらの朗読をきちんと聞いてくれるんだけど、その前後の交流のなかで、認知症が進んでいる人のぼんやりしたようすや、起伏の激しい感情をしめす人を見ていると、こちらまでその影響を受けてしまって、動揺するというのだ。

人間にはもともと、相手の感情や動作、姿勢を、無意識に写し取ってしまう心の働きがある。
社会的な動物として必要があってそういう働きを持っているのだが、ときにそれはやっかいなことを引きおこすことがある。

そんなときはどうすればいいか。
その場を離れる、逃げる、というのもひとつの方法だが、せっかくボランティア活動に来ていてみなさんのお役に立ちたいと思っているのだから、落ちこんだり動揺することなく、自分は自分としていきいきとふるまっていたい。
こんなとき、共感的コミュニケーションが役に立つ。

共感的コミュニケーションでは、相手の感情やふるまいに注意を向けるが、それはそのさらに奥にあるニーズを知るためであって、目的はあくまでニーズにつながることだ。
なので、相手がどのようなふるまいや感情表現をしていても、こちらはその影響を受けないようにする。
相手の言動や感情は、相手のニーズが満たされたり満たされなかったりしているために現れてきているもので、こちらとはなんの関係もない。
もしこちらが相手とつながりたければ、言動や感情レベルではなく、ニーズレベルでつながるようにする。
つまり、相手がなにを大切にしているか、どんなことを必要としているのか、そのことに注意や好奇心を向けていくのだ。

そのとき、こちらはこちらのままでよく、相手の言動や感情に振り回されることなく、ただ相手に好奇心を向けていくだけだ。
こちらがつながろうとしている態度が相手に伝われば、相手は落ち着いたり、言動や感情に変化が起きたりするかもしれないし、もしそうなって双方のあいだにつながりが生まれたら、こちらもきっとうれしくなるだろう。
おたがいに自分のニーズに気づきつづけ、よりいきいきと交流することをめざすのが、共感的コミュニケーションだ。

今回の参加者がせっかくのボランティアをやめてしまったと聞き、その理由を知ったとき、私はとても驚いてしまったのだ。
なぜなら、私も高齢者を相手の活動のチャンスをたくさん持っているけれど、落ちこんだり動揺するどころか、むしろこちらのほうが元気になり、あたたかく幸せな気持ちで会場をあとにすることがほとんどだからだ。
相手が高齢者だろうが子どもだろうが、本来、いっしょにやるワークはそういうものだろうと思っていたので、びっくりしたのだ。
だから、上記のような話をさせていただいた。

もちろん共感的コミュニケーションを身につけるにはそれなりの理解と練習が必要だ。
しかし、ボランティアワークでみなさんの役に立ちたいと思っている人には、自分がいきいきと活動をつづけていくためにも、共感的コミュニケーションを身につけてほしいと思うのだ。

ボイスセラピー講座@国立(6.24)
呼吸や声を使って自分自身や身近の人を癒し活力を養うボイスセラピーの概要を学び、身につけるための講座です。この講座の受講修了が音読トレーナーの資格取得講座の受講要件となります。6月24日(土)10時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催。

2017年6月17日土曜日

自分の内側と外側に分けて文章を書く練習

月に一回開催しているテキストライティング・ワークショップでは、参加者の顔ぶれに応じて内容が変化していきますが、今回はちょっとおもしろいワークができたので、記録として書きとどめておきます。

なにごとか起こったことやストーリーを人に伝えたいとき、なにをどのように書けばいいのか、という問題に直面します。
たいていの人は思いついたところから、あるいはインパクトのありそうな場面から、もしくは状況説明から書きはじめたりします。
その選択はなんとなくあいまいで、ある程度書いてみてから確認したり、推敲したり、書き直したりします。
明確さをもって書きはじめる人は、よほど書きなれている人でないかぎり、あまりいないのではないでしょうか。

このとき、文章を読んでもらう「読み手」が、どのように受け取るのかをちょっとかんがえておく必要があります。

読み手はその文章がどの視点から書かれているのかを無意識に受け取り、その視点からできごとなりストーリーなり場面なりを脳内で構築しながら読んでいきます。
書き手の視点で書かれていれば書き手が見たり聞いたりしたことを自分の経験として擬似的に体験しながら読みすすめます。
フィクションだったらそれはたいてい主人公の視点だったりします。

では、読み手の視点とはどのようなものか。
読み手の視点には、そのベクトルがふたつあることを理解しておくと、文章を書くための明確さに役に立ちます。

ひとつは自分から外側を見て、ものごとがどのように起こっているのかという「観察」。
もうひとつは、そのものごとが起こったときに自分がそれをどのように受け取り、どのような反応や変化が起こっているかという「観察」。

いずれにしても観察が重要で、そこには客観性が求められます。

どちらを先に書くのかによっても、文章の印象はかなり変わります。
またどちらを重視して伝えたいのかという書き手の意図も関わってきます。
いずれにしても、視点のベクトルを意識して、それぞれ分けて書く必要があります。

こうして書かれた文章はとても明確で、輪郭がはっきりしていて、読み手にも受け取りやすいものになります。
そのことはワークショップで実際にやってみて、はっきりわかることでした。

今回のワークショップでも、書いている文章がそのプロセスを経てみるみるクオリティの高いものに変化していきました。
そのことは本当にびっくりであり、また案内する私にとっても喜びでした。
あまりに効果的だったので、この方法はまた機会があれば試してみたいと思っています。

次回7月のテキストライティング・ワークショップは1日(土)の開催です。
詳細とお申し込みはこちらから。

2017年6月13日火曜日

ひさしぶりの朗読ゼミでわくわくした


ほぼ1年ぶりとなる現代朗読ゼミをくにたち春野亭でおこなった。
参加者は私もいれて4人と少人数だったのだが、現代朗読に初めて触れる人もいたので、基本的な考え方から基礎トレーニングの入口あたりまで、ざっくりとではあるが楽しくやらせていただいた。

朗読という表現行為にはアプローチの方法がふたとおりある。
ひとつはテキストの内容や作者の思いなどを伝える「伝達」に主眼を置いたもの。
もうひとつは、テキストを読んでいる自分自身に注目し、自分の生命現象を伝えようという「表現」に主眼を置いたもの。

どちらがいいという話ではないが、現代朗読においては後者のアプローチをとっており、そちらに興味がある方においでいただきたいと思っている。

そんな話(ひさしぶりにした)のあと、身体や呼吸に注目して、いまこの瞬間の自分自身の生命活動をとらえる練習。
そして、「何かを読んでいる自分の状態を緻密に観察する」練習。
といっても、これはそう簡単にだれでもできることではない。

やってみればわかるが、我々現代人は本当に自分の身体が見えなくなっている。
いやそんなことはない、ちゃんと見えている、という人は、たいてい、見えている気がする、見える感じがする程度のもので、表現行為に使えるクォリティの感受がある方はまれだ。

このバーチャルな「感じ」はマインドフルネスや自己共感の質も落とすことがある。
現代朗読の練習は、朗読という簡単な行為を通じて自分を緻密に見るトレーニングでもある。
朗読表現に興味がない人にも有効なのだ。
朗読に興味がある人には、ここからさらに自分自身の生命活動に直結した表現行為へと進んでいくスリルがある。

私自身にもやりたいことがある。
群読と音楽を融合させたコンテンポラリー・リーディング「ウェルバ・アクトゥス」に再挑戦したい。
まだだれも見たことのないようなライブパフォーマンスを作ってみたい。
そのためにはもう少し仲間がほしい。
それは特別なパフォーマーじゃなくてもよく、ごく普通の、ただし自分の存在の可能性にチャレンジしてみたいと思っている人が望ましい。

うれしいことに、昨日の初参加の人は私の考えかたややり方に共感してくれ、さっそくゼミ生の仲間になってくれた。
ここからふたたび始まる。

6月開催:現代朗読ゼミ(6.17)
約1年間のお休みをいただいていた現代朗読ゼミが、内容と方向性をあらたにリニューアルオープンしました。6月の開催は17(土)/22(木)/25(日)/29(木)、いずれも10時半から約2時間。

2017年6月12日月曜日

イベントもりもり週末、です

昨日から月例の北陸実家帰省中。
昨日は福井の母の施設に寄ったあと、同志社大学のみなさんの集いに出て、演奏と講演をやらせていただきました。
今日は実家での音読カフェを終えたところです。

実家滞在からは木曜日に東京に戻りますが、その日は下北沢〈かまいキッチン〉の共感カフェ。
今回の担当は野々宮卯妙です。

金曜日・16日のお昼は、国立古本カフェ〈門〉で「もけごはん付き共感カフェ」です。
どなたも気軽においでください。

その夜は国立春野亭またはオンラインで共感サロンです。
基本的にサロンメンバー専用の勉強会ですが、サロンメンバーがまだ少ないので、メンバー以外の方も歓迎です。
興味のある方はサロンメンバー参加を前提にしたお試し参加でお願いします。
直接おいでいただくも、オンラインで参加いただくも、ご都合のよい方法でどうぞ。

これは翌土曜日・17日の16時からも開催します。

その17日の午前10時半からは現代朗読ゼミを開催します。
朗読という敷居の低い、しかし奥の深い表現行為を通じて、自分自身を知る・つながることを稽古したり、あたらしい表現への挑戦を試みたりします。
単発体験参加歓迎です。

その夜は19時から身体文章塾です。
今回のお題は「耳」です。
単発体験参加歓迎。

日曜日・18日の午後は烏山区民センターで世田谷韓氏意拳初級講習会があります。

盛りだくさんな週末となっています。
チャンスがある方、どこかでお会いできるとうれしいです。

2017年6月9日金曜日

個人セッションを受けた方がブログに紹介してくれた

グループセッションのほかに、個人的に音楽レッスンや個人セッションをお受けしているが、昨日は音読療法と共感的コミュニケーションについての個人セッションをおこなった。
受けてくれたのはみかこさんという方で、以前、音読カフェに参加してくれたことがあって、そこから興味を持っていただいたそうだ。

対人援助職についておられるそうで、お仕事にも活かせる共感的コミュニケーションについてお伝えした。
さっそく自分のブログにそのことを紹介してくれた。
ありがとう。
みかこさんのブログ記事はこちら

ご夫婦で音楽活動もされていて、みかこさんの夫のブログもまた素敵なんだな。
ちなみに、私が日本語ネイティブで書いた、より読みやすい本があって、それはこちら。



アマゾンKindleで電子書籍としても出てます。

2017年6月8日木曜日

健康のためと思って作ってあげた野菜ジュースを飲んでくれない

家族の健康を願わない人はいません。
共感サロンで聞いた話です。
ある女性の方が家族の健康のために野菜ジュースをせっせと作っていて、小学生の息子にも飲んでもらいたいと思っています。
ところが、息子は飲んでくれる日もあるけれど、飲んでくれない日もあったりします。

先日も「いらない」といわれたけれど、飲んでもらいたくて「ここに置いておくね」とテーブルの上に置いておきました。
結局、息子さんは飲んでくれたんですが、なんとなくもやもやが残ってしまった、という話でした。

彼女は息子の健康を大切にしていて、彼がすこやかに育つこと、健康であることで、自分の安心のニーズが満たされます。
また彼のすこやかな成長に貢献したい、母として役に立ちたい、というニーズもあります。
なので「野菜ジュースを飲んでほしい」と思うわけです。

ここで大切なのは、息子が野菜ジュースを飲んでくれる、というのは彼の健康に貢献する「手段」のひとつにすぎない、ということです。
彼が健康であるためには、すこやかに成長するためには、野菜ジュースを飲むことが必須条件ではありません。
しかし、いまその手段に執着して、彼に「野菜ジュースを飲んでほしい」と迫っている態度をしてしまっているとき、それは彼にとって「強要」と感じてしまうでしょう。

彼もまた、自分の健康は大切だし、できればお母さんのリクエストにこたえたい(だからテーブルに置かれたジュースをしぶしぶながらでも飲んだのでしょう)のですが、強要されてはすなおにそれを受け入れにくくなります。

もう一度お母さんのニーズにつながりなおしてみると、
「自分は息子の健康に貢献したい、だから健康に貢献できると思っている野菜ジュースを喜んで作っている」
ということに気づきます。
つまり、自分のニーズを満たす喜びをもって野菜ジュースを作っているわけです。

野菜ジュースが息子に拒否されたとしたらそれは残念なことではあるけれど、きっと息子にもなんらかのニーズがあったのでしょう。
また、もし受け入れられたとしては、それはさらにうれしいこととなります。

ということは、とても簡単な解決策として、野菜ジュースを作る前に息子に、いまそれを飲む気があるかどうか確認してみればいいのです。
つまり、息子のニーズも尊重できるかどうか、です。
息子が、自分のニーズが尊重されていると感じたら、きっとお母さんのニーズも尊重したり、目を向けたりできるでしょう。
飲みたくなければそういってくれるし、飲みたいときには「お母さんは自分の健康を気遣ってくれてるんだな」ということに気づくかもしれません。

「お母さん、いま野菜ジュースを作ろうと思ってるんだけど、いま飲む気ある?」
「いいよ」
この確認のあとに野菜ジュースを作るのは、なんと心楽しいことでしょうね。

6月開催:水城ゆう共感サロン(6.10)
共感的コミュニケーションの勉強会をあらたに〈共感サロン〉としてリニューアルオープンします。6月の開催は10(土)18時/6月16(金)19時/17(土)16時/23(金)19時/24(土)16時、いずれも約2時間。

2017年6月7日水曜日

美を追求したい、その美とはなにか

人の普遍的なニーズになかに「美のニーズ」というものがある。
だれしも「美」をもとめる気持ちがある、ときにはそれは強い必要性となってその人の行動や、人生すら決定することもある。

これまであまり深く美のニーズについてかんがえたことはなかったかもしれない。
かんがえたとしても、せいぜい、
「最近太ってしまった。すこし痩せなきゃ。これは美のニーズがあるからだな」
とか、
「バッハが好きなのは、整然と構築された音の世界に美を見るからだな、きっと」
という程度のものだった。

しかし最近気づいたのは、自分の生き方というか人生そのものにも、美のニーズがあるということだ。

すっきりした部屋に住みたい、とか、贅肉を落としたい、とか、持ち物を少なくしたい、とか、姿勢をよくしたい、とか、規則正しい生活をしたい、とか、ミスタッチなくピアノを弾きたい、とか、嘘いつわりなく毎日をすごしたい、とか、人間関係を大切にしたい、とか、きりがないけれど、かなり多くの願望が美のニーズに接続しているような気がする。
というより、美のニーズからは多くの枝分かれがあって、その先にもそれぞれ細かな美のニーズがたくさん葉を広げているような感じ。

とくにこの歳になり、残り時間を気にするようになってくると、それらのニーズがいちいち立ちあがってくる。
しかし、自分がこれまですごしてきた人生の時間は後戻りできないし、すでにやらかしてしまったことは消去することはできない。

いや、本当に消せないのだろうか。
記憶を消すことはできないというけれど、そもそもそれは記憶にすぎず、脳内イメージといっていい。
つまりそれは、いまこの瞬間には存在していないもので、私の脳内にイメージとしてこびりついているものにすぎない。
捏造されてすらいるかもしれない。

自分が過去にしでかしたことをくよくよして前に進めないでいるより、いまこの瞬間の美のニーズにつながって、いまどうありたいのか、どうしたいのかをクリアにして進んでいきたい。
たしかに過去はそんな私の背中にずるずるとしがみついて私を引きもどそうとするだろう。
それはそれで向かいあう必要がある。
それらと縁を切るためには、いまなにができるのか、ということだ。
それだって美のニーズから生まれている。

そうかんがえたとき、さて私はこれから、なにをするのだろう。
どんなものを作るのだろう。
なにをいったり、演奏したり、表現したりするのだろう。
あるいはなにを「しない」のだろう。

自分とつながるテキストライティングWS(6.10)
いまの時代こそ表現の根本である「ことば」が重要であり、私たちは自分自身を語ることばを獲得する必要があります。それを模索するワークショップを6月10日(土)に国立で6時間にわたって、じっくりとおこないます。

2017年6月6日火曜日

7月11日:国立・韓氏意拳初級講習会

国立での駒井雅和中級教練による韓氏意拳の会員向け初級講習会、2017年7月のお知らせです。

◎日時 2017年7月11日(火) 14:00〜16:30
◎参加費 3,500円(講習会費、会場費、講師交通費を含む)
◎場所 国立駅から徒歩5分の会場
◎持物 動きやすい服装・筆記用具・メモ

参加予約はこちらから。

もしくは直接私・水城まで、あるいは現代朗読協会コンタクトフォームからお知らせください。 

2017年6月4日日曜日

朗読のなにがすごいのか

私自身は朗読しないくせに、ずっと前から「朗読はいいよ」「朗読にはまだだれも知らない可能性があるんだよ」といいつづけてきたのは、ちゃんとわけがある。

私が朗読というものに真正面から出会ったのはまだ20代なかばのころで、ピアノの教師をしたり、地元のラジオ番組の制作にかかわったりしていた。
そのとき、ラジオ番組で知り合ったナレーターと意気投合して、朗読とピアノでライブセッションをやることになった。
榊原忠美というその人はプロのナレーターではあったけれど、自分の本職は役者だと思っていて、朗読も本の内容を伝える伝達的なことよりも、くっきりとステージ表現の延長線上にとらえていた。

というようなことはいまから思えばわかることだが、朗読を自分を表現するための行為ととらえている人はあまり多くない。
その証拠に、私とセッションしても、まるでこちらの音を聴いていなかったり、ひどいときには「声が負けるので音を小さくしてもらえませんか」と、伴奏者に徹するように要求されることがある。
つまり、本の内容を「伝達」することに主眼が置かれているし、あえていえば本の内容を正しく美しく伝達している自分自身を見てもらいたいという一種の「イメージ」があるのだ。
まあそれだって、聴く人には伝わってしまうわけだが。

私たちは生まれたときからずっと「ことば」を使う練習をしつづけてきた。
事情がある人は別として、たいていは本があればそれを声に出して読みあげ、人に伝えることができる。
つまり、ほとんどの人が朗読者としてすでに十分に訓練を積んでいるといっていい。
しかし、表現行為として自覚的にそれを行なっている人はどのくらいいるだろうか。

いざ朗読を表現行為ととらえてそこに向かってみたとき、多くの人は愕然とするだろう。
実際にそういう姿を私はたくさん見てきた。

自分はいったいこれをどう読めばいいのか。
どう読みたがっているのか。
これを読むことでなにが伝わるのか。
自分自身を朗読で表現するときどういうことなのか。
朗読する自分になにが起こっているのか。
どうすれば魅力的な朗読ができるのか。
どうすれば朗読で自分自身を伝えることができるのか。

これらの問いをあくことなく立てつづけてきたのが、現代朗読である。
ごく普通のサラリーマンや主婦や、現役を引退された高齢の方や、若い学生や、役者や音楽家や絵描きや詩人が、朗読という表現行為試みてみたとき、表現者としてのむきだしの自分自身に向き合うことになる。
なにしろ普段なにげなくだれもがおこなっていることを、あらためて表現行為ととらえて立ち向かってみたとき、自分自身の多くの問題や可能性がめらめらと洗いだされてくるのだ。

だれもがいますぐ始められて、しかし困難にぶつかり、自分自身の問題解決を迫られ、表現と自分の世界の深遠さを垣間見て震えあがる、それが朗読という表現行為の持つ仕掛けなのだ。
ここを一度通過してみることで、表現者はもとより、表現を日常的におこなっていない人も、まだ見たこともない自分自身を知ることになるだろう。

だから私は、だれにでも、朗読をやってみることをしつこくすすめているのだ。

6月開催:現代朗読ゼミ(6.8)
約1年間のお休みをいただいていた現代朗読ゼミが、内容と方向性をあらたにリニューアルオープンしました。6月の開催は8(木)/17(土)/22(木)/25(日)/29(木)、いずれも10時半から約2時間。

2017年6月1日木曜日

ハイテク生活はどこまでイケるのか

PC-8801ノーマークからのデジタルハイテク生活36年のロートル水城です。
この間のテクノロジーとデジタル機器の進展には驚くばかりでしたが、ここに来てさらに目をみはるようなことが立てつづけに起こっています。
しかもこの手元で。

今年2017年のIT業界のトピックは、なんといっても、人工知能(AI)の目覚ましい進化ではないでしょうか。
将棋のプロ棋士を軽々と凌駕したかと思えば、あと何年もかかるといわれていた囲碁までをも席巻しています。

また「おばか知能」の代名詞でもあった「機械翻訳」も、ディープラーニングによる人工知能みずからが驚異的なスピードで学習・成長していくことで、みるみる実用レベルになってきています。
たぶん来年くらいには、
「昔は膨大な時間を使ってわざわざ外国語を習ってたらしいよ」
みたいなことになると思われます。

私は小説を書く人間なので、自分の書いた日本語の小説が世界の人に読んでもらえないことがけっこう大きな痛みでしたが、ここにいたって希望が出てきました。
私の書いたものがちゃんと読める英語やドイツ語やフランス語やスペイン語に翻訳されるなど、それこそクリックひとつであっという間に実現することでしょう。

音声認識も相当なものです。
iPhoneに向かって普通にしゃべれば、たちまちそれはテキストデータに変換されます。
つまり口述筆記です。
私はキーボードを打って文章を書くことに慣れていますが、そのうちキーボードなどとという面倒なインターフェースはなくなってしまうかもしれません。
いまのうちから口述でテキストを書く練習をしておこうと思っています。

テキストデータに変換された「口述」つまり「私のことば」は、たちどころに諸外国語に変換されて、世界中から検索できるようになります。
おもしろいお話を書くので、アニメとか映画の原作に使ってね。

車も自動運転にもうすぐなります。
これもやがて、
「昔はニンゲンが自分で運転してたらしいよ。あぶねー。アクセルとブレーキを踏みまちがえたらどうするんだ」
みたいな話になるかもしれません。

もちろんいいことばかりではありません。
そのような世界がやってきたとき、私たち生身の人間はいったいなにを問われるのか、ということです。
向き合うべきことがたくさん出てくるでしょう。
だから私は、ハイテク機器の使いこなしはもちろん、自分自身のからだのことももっともっと知りたいと、日々稽古を重ねているのです。

6月開催:身体文章塾(6.4)
このたび水城ゼミの一環として「朗読ゼミ」や「共感サロン」とも連携することになりました。6月の開催は4(日)/17(土)/25(日)、いずれも19時より約1時間半程度です。