2019年1月11日金曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(10)

私の最初のバンドはピアノとキーボードの私のほかに、ベースとドラムというトリオ編成だった。
ふたりとも同年代だったが、私よりすこし若かった。

ふたりとも地元の京都の人間で、バンドマンの世界でも私より顔が広く、すぐにドラムのNくんが仕事を取ってきた。
週に一度、奈良のライブハウスで演奏するという仕事だった。
歌伴とかBGMのような仕事ではなく、ちゃんと客に演奏を聴かせる仕事で、ありがたかったが、その分、レパートリーを確保しなければならなかった。

練習スタジオを借りて、何度かリハーサルをおこなった。
ジャズのスタンダードナンバー、ボサノヴァやサンバの曲、その他お互いに気にいった曲を持ちよったりもした。

数か月はつづいたと思うが、あまり客入りがいい店ではなくて、そのうちにつぶれてしまった。
しかし、その間に客の前でたくさん演奏したり、そのためのリハーサルによって、非常に鍛えられたし、京都と奈良の行き帰りがなにより楽しかった。
音楽の話やらバカ話で、いつも腹がよじれるほど笑いころげていたものだ。

奈良のライブハウスがスタートして間もなく、祇園でのハコの仕事がはいってきた。
これはトリオではなく、ソロピアノの仕事だった。
いわゆるフィリピンパブで、「タレント」として入国したフィリピン女性がホステスとして不法に働いている店で、7、8人はいただろうか。

彼女らは時々歌をうたうときに、私はその歌伴をした。
聞き取りにくいフィリピン英語をしゃべっていて、みんな嘘つきばかりだったが、表向きは陽気で正直な人たちで、すぐに仲良くなった。

バンドマンはなぜか「先生」と呼ばれていて、彼女たちからも私は「センセ」と呼ばれた。
まだ二十歳そこそこの、駆け出しの若造だというのに。

その仕事は3か月くらいつづいたが、ある日店に行ってみると、シャッターが降りていて、張り紙がしてあった。
突然の閉店だった。
店長にもまったく連絡がつかなかった。
結局、その仕事のギャラは一度も払ってもらえなかった。

◆ピアノ七十二候
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