2013年4月30日火曜日

役者と(現代)朗読者の違い

かねてから思っていたことだが、役者は舞台にあがったとき、(それが芝居でなくても)すぐにその人が役者だとわかる。
機会があってある語り公演(というより芝居にかなり近かったが)を観に行ってきたのだが、役者が語りはじめるとすぐにそれとわかる。
この「すぐにそれが役者だとわかる」感じというのは、どこから来るのだろう。
あるいは、なにを受け取った(あるいは受け取らなかった)結果、それが役者だと私たちは瞬時に判断しているのだろう。


今日気づいたのは、役者の表現には「雑味」がない、ということだ。
「雑味」というのは曖昧な表現だが、ほかにうまい表現がないのでこのまま書きつづけてみる。

雑味をわざと付け加える演技というものはあるかもしれないが、そうではなく、舞台に立ったときに生活感であるとか、役者本来の人間味であるとか、普段の仕草やしゃべり方の癖とか、そういうもの(それを「雑味」という言葉でまとめているわけだが)をほとんど瞬時にそぎおとしている。
そのように訓練されている。

ある役を舞台で演じるのに、普段の生活の臭いや癖をそのまま持ちこんでしまったら、それは役者としてアウトだろう。
演出家から厳しくダメ出しをされるか、クビになる。
よほどの大物役者で、その人の存在それ自体が「役者という商品」として成立している場合は別だが、そういう人は数えるほどしかいない。
一般的に役者は自分の癖をそぎおとし、身体をコントロールし、演出家から要求される表現を作る。

一方、朗読者は、すくなくとも現代朗読においては、生活感やありのままの存在そのもの、その瞬間瞬間の感情や無意識の変化も全部ふくめて、正直に誠実に全的に表現しようとする。
いわば「雑味」そのものが表現であり、朗読者のオリジナリティだといっていい。
そして表現行為は完全に朗読者のものであって、だれかからコントロールされるものではない。
表現の出発点も違えば、ベクトルもまったく違うのだ。

どちらがいいとか悪いという話ではない。
あなたはどちらをやりたいですか、という話である。

現代朗読を基礎からじっくりまなべる全6回シリーズのワークショップが来週土曜日から始まる。
興味がある方はこちらをどうぞ。

げろきょネットライブを再開予定

キッズ3公演があったりして、しばらく間があいてしまった「げろきょネットライブ」を、再開しようと思う。
これまでは不定期、行き当たりばったりに開催していたが、今後はある程度日程パターンを決めて、定期的にやっていこうと思う。
月に2回くらいの頻度でやりたい。

第4木曜日の夜と第4土曜日の昼はゼミがないので、そこで開催すれば、平日参加が難しい人も土日は都合が悪い人も両方がどちらかに出られるだろう。
当面はおいおい調整しながらやっていくつもりだ。

とりあえず、直近のスケジュールを以下のように設定してみた。
これらが実際に開催されるかどうかは、ゼミ生たちとの調整しだい。

 5月25日(土)15:00~
 5月30日(木)20:00~
 6月27日(木)20:00~
 6月29日(土)15:00~
 7月は公演があるのでお休み

ライブの演目決めや稽古(個別演出)はゼミのなかでやっていく。
ちなみに、これまで開催されたネットライブで記録が残っているものについては、こちらからご覧いただけます。

ゼミ生だけでなく、一般の方の観覧も歓迎です。
場所は現代朗読協会「羽根木の家」です。
参加費は無料ですが、飲食物の差し入れがあるとうれしい(笑)。
なくてもいいですよ、もちろん。強制ではありません。
また、このようなライブ(座敷にいながらにして全世界に向けて自分の表現を発信する)に興味がある方は、現代朗読のゼミ生の仲間になりましょう。
まずはゼミやライブの見学からどうぞ。
いつでも歓迎です。

2013年4月28日日曜日

現代朗読はあたらしいフェーズにはいっていく

「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 春の宴」や体験講座が終わり、その間も私はずっとキッズ公演の記録映像の編集をしながら、いろいろなことをかんがえていた。
またキッズ公演の参加者や来場者からさまざまなリアクションとフィードバックもあった。
昨日の体験講座でまったく初めて現代朗読に触れる人たちに説明したり、体験したりしてもらううち、私のなかでなにかがカチンと音をたてて動いたような気がした。
なかなかうまくはまらなかったパズルの最後のひとコマが、うまいぐあいにパチッとはまったような「腑に落ちた感」があった。
その瞬間、つぎの現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 夏の陣」の基本コンセプトが決まった。


現代朗読では一貫して、エチュードと呼んでいる基本的な練習方法を使って、各自のオリジナリティを大切にしながら身体性、感受性、表現力をみがく方式をとっている。
というより、身体性や感受性の精度をあげることでしかオリジナリティの表出のクオリティをあげることはできない、とかんがえているからだ。
さまざまなエチュードがたくさんある(私が作ったのだが)。

言葉と身体をむすびつけるためのエチュード。
聴覚の解像度をあげるためのエチュード。
コミュニケーションのエチュード。
音程やリズムのエチュード。

いろいろあるが、いずれも朗読という身体表現のクオリティをあげるためのもので、ひとりでやれるものもあるが、多くはグループで実践することでより効果をあげることができる。
このエチュードは、そのままの形で、あるいは少し形を変えてユニット化し、そのユニットをつないでいく形で朗読プログラムを作る、というのが、このところの現代朗読のライブや公演方式になっている。
「春の宴」もその方式だった。

エチュードをやりこんでいくことで、朗読者はさまざまなことに「みずから」気づき、表現力を身につけていく。
また、複数名でコミュニケーションをとりながらやることで、感受性と反応反射をみがいていくことになる。
このエチュードの「やりこみ」をもっともっと深めていくことで、現代朗読はどこにもないクオリティの高い表現集団になっていくだろうし、またゼミ生ひとりひとりもまたユニークでオリジナリティのある表現者になるだろうと確信している。


現時点で私がやれることは、

・さらに効果的なエチュード(朗読プログラム)を作ること。
・群読のパフォーマンスをあげる方策をかんがえること。
・個人表現のサポートをすること。

現代朗読協会の講座やゼミでは徹底して群読エチュードをやりこみ、そのなかで全体のクオリティをあげつつ、個々の表現力も高めていってもらう。
公演では斬新な群読プログラムを提示する。
個々の朗読者についてもネットライブや個々のライブをサポートしていく。

私以外に現代朗読の演出・指導ができる者も育てたいと思っているし、げんに育ってきている。
私とはまたちがった個性による現代朗読演出が生まれる日もそう遠くないだろう。
そしてもちろん、私自身もひとりの演出家として、手抜きをしない斬新な公演を成立させていきたい。
とりあえずは次公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 夏の陣」の基本コンセプトをかためたところだ。
次回もだれも観たことのない、だれもが驚くような公演になるだろうと自負している。

2013年4月27日土曜日

すごいの観た「田中泯×ジム・オルーク」

私たち現代朗読もお世話になっている下北沢〈レディ・ジェーン〉の大木さんがプロデュースする中野〈plan-B〉の30周年記念企画公演「樹(ARVOS)のように」を観てきた。
ダンスが田中泯、ギター他の音楽というかサウンドがジム・オルーク。
このふたりの組み合わせというだけで、告知を見て即刻予約していた。

〈plan_B〉では現代朗読公演をやったことがある。
「沈黙の朗読」シリーズの最初の公演「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき」がそれだ。
その後、一度田中泯さんのダンスを観に行ったことがあるが、今日はひさしぶりだった。
なんだか懐かしさを感じる空間だ。
広さはほぼ明大前の〈キッド・アイラック・アート・ホール〉と同じくらい。
天井は低いが。
その空間に、100人近い観客が詰めこまれた。

開演は15分押し。
すし詰め状態といい、時間を守って来た客をないがしろにする開演押しといい、私にとって悪条件が重なって始まったライブだが、始まった瞬間、「いまここ」しかなくなった。
それほどクオリティの高い表現だった。

まず、ジム・オルークの音楽/音響がすばらしい。
そしてもちろん、田中泯さんのダンス/身体。
パフォーマンスの途中、なんだか時間感覚を狂わされるような、このふたりに時間進行を自在に操られているような、そんな錯覚におちいった。

終わってから冷静にかんがえてみれば、泯さんのダンスは私が30年前、京都で初めて観たときからなにも変わっていないスタイル、すなわち暗黒舞踏というよりモダンダンス=コンテンポラリーダンスのテイストが多分に感じられる田中泯ダンスのスタイルだったし、ジム・オルークも電子音響を使ったとくに目新しい手法でもない。
しかし。
しかし、なのだ。

なんといったらいいのか、その表現の精度というか深度がちがうのだ。
コミュニケーションの緻密さ、こちらの深層にアクセスしてくる精確な表現。
これはもう、場数/経験と、日々の鍛錬のなせるわざとしかいいようがない。

終わってから私はものすごく元気になっている自分を感じた。
泯さんは私よりちょうど一回り歳上の方だ。
あと12年たって、私もあのように在ることができるだろうか。
いや、在りたいものだ。
ただし、その方向性はちがう。
泯さんはひとつのことをただひたむきに精度をあげつづけてここにいたった人だが、私はたえず変化しつつあたらしいことを求めつづける者だ。
変化しつつ、精度もあげていきたい。
より欲張りな人間かもしれない。

そんなことをつらつらとかんがえていると、現代朗読の今後の方向性がくっきりと見えてきた。
変化と精度、あたらしいことと普遍的なこと。
もうひとつ、七月につぎの現代朗読公演を予定しているのだが、その核となるアイディアが決まった。
たぶんこれもまた、だれも見たことのないものになるはずだ。

2013年4月26日金曜日

12時間分の記録映像編集

私のような映像編集を専門的な学校などで一度も習ったことがない、編集の現場で働いたこともない、まったくのスタンドアロン・独学で試行錯誤してきたような者でも、そこそこちゃんと観られる映像が作れてしまうのは、ハードウェアとソフトウェアの著しい進歩のおかげだろう。
そしていずれも素人でも手が届く価格だ。

今回、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉でおこなった現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」の映像記録を編集し、公開できる映像にしようとしている。
使った機材およびソフトウェアは以下のとおり。

 Panasonic ハンディカメラ(私物)
 Panasonic デジタル一眼(アイ文庫備品)
 GoPro Hero3(借り物)
 GoPro Hero2(借り物)
 MacBook Pro 15インチ
 Final Cut Pro

4台のカメラはすべてハイビジョン映像対応で、つまりデータサイズは膨大になる。
公演は約90分が2回。

 90分 × 2回 × 4台 = 12時間

これをすべて MacBook Pro に取りこんで編集作業をおこなったが、内蔵HDD容量が足りなくなって、シーンをいくつかに分割して編集したり、編集しおえたものはすぐにレンダリングして吐き出し、元ファイルを外付けのHDDに退避したりと、めんどくさい部分もあった。
編集し終えてレンダリングしたものは、プロジェクトファイルごと削除してしまったのだが、あとで不備があって編集のやりなおしが必要だとわかったとき、ゼロから作り直さなければならないことが2度、3度とあって、やたら時間がかかった。
それでも、4台のカメラの映像をタイムラインにならべてあれこれとカット編集できるのは便利で、それが持ち運びできるラップトップコンピューター上でやれてしまうのだから、夢のようだ。

それにしても、映像編集は15インチ以上の画面の広さがないとやりにくい。
それは音声編集も同様。
軽くなったとはいえ、15インチはまだまだ重い。
しっかりコンピューターを背負える機能的なバックパックが必須だ。

カフェOHANA、共感的コミュニケーション入門講座、ミニライブ

昨日は三軒茶屋のオーガニックカフェ〈オハナ〉で、ミニライブ付きの共感的コミュニケーションの入門講座をひらかせてもらった。
オハナはトランジション世田谷のメンバーで、いろんなイベントでよくお会いしたり、オハナで開催される催しに何度か行ったりしたこともあるのだが、自分がこちらでイベントをやらせてもらうのは昨日が初めてだった。

午後7時すぎに行ってみると、すでにトランジションの仲間のともちゃんや、ゼミ生のみこちゃんが来ていた。
その後、参加のみなさんが次々とやってきて、細長くセッティングされたテーブルは満席に。
ゼミ生のみぞれちゃんも来てくれて、おからを使ったお菓子の試作品をくれた。
店の奥のほうにもスペースはあったが、なんとか詰め合わせてもらってテーブルを囲む形ではじめる。
知り合いも何人かいたが、初めて会う方、初めて共感的コミュニケーションに接する方などたくさんいらして、やりがいがあった。

まず共感的コミュニケーションとはどういうものか説明してから、それを実践していくためのプロセスを具体例をあげて解説。
そして皆さんにも実際にご自分の具体例を使って、共感的に聴き合うことをやってもらった。

最後に野々宮卯妙の朗読で宮澤賢治の「祭の晩」という作品を(共感的に)聴いていただく。
私はアートリアのミニキーボードとMacBook、BOSSのモバイルスピーカーを持参したので、それを使って演奏。

みじかい時間だったが、みなさんにはとてもしっかりと受け入れていただいてうれしかった。
終わってからも話がつきず、持参した『共感的コミュニケーション〔入門編〕』の本5冊も全部買っていただいて、感謝。
終わってからだったが、NVC仲間の賢さんが駆けつけてくれて、大好きな音律の話を聞かせてもらったのも楽しかった。

オハナでのつぎの予定は決まっていないが、またやらせてもらいたいと思っている。

2013年4月25日木曜日

まとめ日記

先週の金・土に現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」が終わり、一息つくまもなく、翌日曜日は2級ボイスセラピスト講座だった。
参加者は少なめだったので、じっくりやれた。
昼も近所のラーメン屋〈バサノバ〉にみんなで行って、いっしょに食事。
ほんとは〈ピピカレー〉に行きたかったのだが、満席でふられたのだ。
日曜日はだめか。

月曜日はひさしぶりに予定のない日。
ここぞとばかりに、キッズ公演の記録映像編集に取りかかる。
できれば2回公演を1回分に編集して、90分程度のDVDにまとめたい。
始めてみてわかったのだが、今回、ビデオカメラを4台同時に回していて、それぞれ90分ずつの映像データがある。
これが2回分、つまり90分かけることの8本分、計12時間分の映像があるということだ。
これらを編集するというのは、まあ長編映画を一本編集するようなものだ。
しかもパフォーマンスの時系列にそって編集したいので、順序や音声と映像の一致にも気をつけなければならない。

た・い・へ・ん・な・こ・と・を・は・じ・め・て・し・ま・っ・た。

昼には手抜きの全卵スパゲティとか作って、一日作業。
始めたからには終わらせるしかない。

火曜日は午前中、ゼミ生でオーディオブックリーダーの矢澤ちゃんが来て、打ち合わせと個別演出。
ひきつづき新美南吉の小品をいくつかやることになった。
のんびりやっていて、11時半に下北沢であい子さんと待ち合わせしていたことを忘れてしまった。

臨・月・の・妊・婦・を・待・た・せ・て・し・ま・っ・た。

野々宮と野々宮父もいれて4人で木を植えるレストラン〈オーロラ〉という店に行ってランチ。
それからあい子さんの小説本の相談。

羽根木にもどり、午後はオーディオブックリーダーの個人セッション。
若い人だったが、とても熱心に話をきいてくれて、意欲も高いようだった。
お役に立てるとうれしいのだが。
これから約1か月はゼミ生扱いなので、せっせと来ていろいろ吸収してほしい。

夜は村田厚生さんと中村和枝さんのコンテンポラリー・デュオのコンサートに杉並公会堂まで行く。
こちらにも書いたようにとても刺激的で、また楽しませてもいただいた。

昨日はまた一日、キッズ公演の記録映像編集。
まだまだ半分くらいも終わらない。
途中、息抜きに下北沢まで買物に行ったついでに、一番街のパン屋〈ミクスチュア〉でやっている桃ちゃんの下北沢の写真展を観てきた。

今日は午前中、ママカフェの打ち合わせ。
藤沢さんが主導した第一期(?)は3月で終わったのだが、今後もつづけていきたいのでその体制などの打ち合わせ。
子どもをあずけて安心して参加できる体勢を作りたいのだが、ベビーシッター要員を確保するのがなかなか難しい。
協力してくれる人が増えるとありがたいのだが。

今夜はこれから三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉に行って、共感的コミュニケーションの入門講座とミニライブをやってくる予定。
オハナでイベントをするのは初めてなので、とても楽しみ。

公演やライブでの撮影について

現代朗読協会の組織運営も表現活動も「共感的コミュニケーション」をベースにおこなわれていて、そのかんがえにもとづいて、たとえば公演やライブ時にも来場者にたいしてなにかを「してはならない」「しなければならない」という要求を一切しないようにしている。

「ケータイなど音のなるものの電源は切ってください」
「飲食はできません」
「開演すると出入りできなくなります」
「撮影はお断り」
といった要求(=demand)を、現代朗読公演ではおこなわない。
それで来場者にたいしても自分たち自身も「自由」を確保したつもりでいたのだが、それがまったく浅いかんがえであったことがわかった。

今回の「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」公演でも、撮影についての禁止事項はもうけず、実際にご自分の楽しみのためにデジタルカメラなどで写真や動画を撮影していた方が何人かおられた。
が、来場者のなかにはカメラのシャッター音や測距補助光、撮影者の動きなどが気になったり、危険を感じたり、といった方もおられたようだ。
撮影している方をげろきょ側の人だと勘違いして、クレームをいってくる人もいた。
つまり、私たちは撮影についてなんのガイドラインも作らなかったために、来場者に不快な思いをさせてしまったと同時に、撮影を楽しんでいた方をクレームにさらしてしまったということになる。
なんでも自由にして放りなげてしまえばいい、ということではないのだ。

以後、現代朗読の公演やライブでは、撮影にかんするガイドラインを示して、そのことを撮影したい方にお願いしようと思う。
あくまで強制ではなくお願いではあるが。
いずれにしても、私は出演者、スタッフ、来場者、撮影したい人すべての価値を大切にしたいのだ。
もちろん私自身の価値感も。

2013年4月24日水曜日

ピアノコンサート「コンテンポラリー・デュオ 村田厚生&中村和枝」

2013年4月23日。
杉並公会堂小ホールまで「コンテンポラリー・デュオ 村田厚生&中村和枝」の現代音楽トロンボーンとピアノのデュオコンサートを聴きに行ってきた。
大変楽しかった。
こういう内容・プログラムだと、現代音楽を敬遠しがちの人もきっと楽しめるだろうし、そもそも現代音楽は人々が漠然と想像しているような難解なものばかりじゃない。

プログラムは全部で6曲。
そのうち4曲が委嘱作品の初演という贅沢なものだった。
最初は野沢美香作曲の「たったひとつの冴えたやりかた」。
話がちょっと脱線するが、ピアノは平均率という、和音の協和を無視した、いわば濁った音律で調律されている。
一方トロンボーンなどの金管楽器は純正率という、自然協和が生まれる美しい音律におのずとなっている。
このふたつの楽器が同時に演奏されると、どうしても違う音律なので音がぶつかり、不愉快な響きが生まれてしまう。
ただしトロンボーンはトランペットなどと違ってスライド式のバルブで音程を無段階に調節できるので、ある程度はピアノに合わせることができる。

「たったひとつの冴えたやりかた」はこのピアノとトロンボーンの音律の違いをうまく調和させているように思えた。
ジャズというか、70年代以降のフュージョン音楽を思わせるような音使いの無機質なパターンを次々と変化させていくピアノ演奏に、トロンボーンのうねるような音色が重なっていく。
「冴えたやりかた」というタイトルが秀逸な演目だった。

つぎの溝入敬三作曲の「天使とトロンボーン」は、遊び心に満ちた楽しい曲だった。
語りがたくさんはいっていて、それはもちろん演奏しながら合間に語りを入れるのだ。
トロンボーンは吹きながら、マウスピースを口から離して語って、また急いで吹く、といったユーモラスな感じ。
ピアノの中村さんは演奏しながら朗読していて、これはけっこう難しいんじゃないかと思った。
野々宮卯妙が中村さんに朗読の指導をすこししたといっていた。

前半の最後は一ノ瀬響作曲の「Inner Mirror」という委嘱作品。
あらかじめ録音された音源とライブ演奏をミックスしたものだが、非常に巧妙に作られていて、曲構造についてのアイディアがすばらしく、まさに宇宙的な作品と演奏だった。
村田さんによるソロ演奏だったが、トロンボーンと、塩ビ管を使ったディジュリドゥ・クローンを吹いておられた。

休憩をはさんで後半の最初は、私も大好きな作曲家・松平頼暁さんの委嘱作品「ALL ABOUT」。
これもまた楽しい作品で、トロンボーンが出せるあらゆる音を使い、なおかつ演奏者の身体運動や発音までも盛りこんだおもちゃ箱のような曲だった。
マウスピースを手でたたいたり、吸ったり、引っこ抜いたり、といったことを含め、さまざまな音が万華鏡のようにちりばめられていた。
そして、ひょっとしてベートーベンの交響曲第五番を分断したり変化させたりしてパロディにしていたのだろうか、最終的には軍隊とか戦争といったものにたいする強烈なアンチメッセージのように聞こえてしかたなかった。

全体で5曲めとなる山根明季子作曲による「マジカルメディカルトランキライザー」は、トイピアノとプラスチック・トロンボーンの演奏。
これまたおもちゃ箱のような作品で、終始トイピアノがキラキラと鳴るなか、わざと濁らせた音のトロンボーンがユーモラスな演奏をくりひろげる。
中村さんのシェーンハットのトイピアノは、これまで小さなライブハウスで2度聴かせてもらったが、今回の小ホールが一番響きがよくて、楽しめた。
非常によく鳴るトイピアノなので、あまり狭い場所だと耳当たりが強すぎるのかもしれない。

最後の曲が圧巻だった。
山本裕之作曲による「Contour--ism III」で、これも委嘱作品。
最初に音律のことを書いたが、これはその音律の違いをわざと意味なくするアイディアが使われていた。
トロンボーンの音程調節バルブを伸ばして、たぶん3分の1か4分の1音ピアノの基準音より下げていた。
つまり、普通におなじ「ド」の音を鳴らしても、最初から狂っていて、響きが濁っているのだ。
こうなるとそもそもの音律の違いなど意味がなくなる。
終始濁った音で複雑な曲を合奏していて、最初は耳がおかしくなりそうだったが、音の狂いや響きすらこの曲のメッセージなのだと思うと、そこにはノイズ音楽でも、調性音楽でもない、まったくあたらしい音楽の姿が現れてきた。
最初にも書いたように、トロンボーンはスライド式で音程を調節できるのだが、それにさからって音程を狂わせたまま演奏しきるというのは、逆に正確な音程を取れる技術がなければできない技だろう。
あらためて村田さんは凄腕だと思った。
そしてもちろん、中村さんの超絶技術でありながら軽快に、じつに楽しそうに演奏する姿に、こちらまで楽しくなったのはいうまでもない。

2013年4月23日火曜日

福井県立病院ピアノコンサート「茶摘み」

2013年4月15日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。

曲目
・茶摘み

水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
http://yuumizuki.bandcamp.com

2013年4月22日月曜日

福井県立病院ピアノコンサート「竹田の子守唄」

2013年4月15日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。

曲目
・竹田の子守唄

水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
http://yuumizuki.bandcamp.com

2013年4月21日日曜日

現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」が終わった

2013年4月19日、20日。
明大前キッド・アイラック・アート・ホールで現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 春の宴」の2回公演が終了した。

「キッズ・イン・ザ・ダーク」と冠する公演は、昨年夏の「夏の陣」、昨年末の「冬の陣」ときて、これが3回めとなる。
なんとなくシリーズ化した観がある。
シリーズタイトルは、会場である〈キッド・アイラック・アート・ホール〉と、その暗闇のホール空間と、現代朗読のメンバーが内包する子どものような純粋な表現欲求を開放する場としての意味を重ねあわせている。

これまでもそうだったが、今回も「朗読はライブだ!」ワークショップ参加者、つまり現代朗読協会メンバーではない一般参加者と、現代朗読協会メンバーであるゼミ生とのミックスで出演者が構成されていた。
まったく現代朗読の経験がない人がたった6回のワークショップで、いわば公式公演に出演できるのか、ゼミ生との表現クオリティの歴然とした差はどうするのか、またゼミ生のなかでもさまざまな表現スキルの者がいるのに、それをおなじステージにあげて成立するのか。
そういった心配が過去もふくめ常にあがってきた。
が、とくに今回、私はそのつまらない心配について自分のなかで完全に処理し、演出として徹底することができたと思っている。
つまり、表現にうまいもへたもない、すべての人は表現者であり、徹底的に誠実な自分自身としてステージに立つとき、どのようなスキルであっても観客はそれを受け取り、共感する、ということだ。
もちろんそれは、観客側にそれを受け入れるための姿勢がある程度できている、という条件も必要だが。
その点についても、実は私の仕事なのだろうと思うし、今後引き受けていく覚悟も今回できた。


19日、金曜日。19時半、開場。
この日は定員を超える満席で、席を増設した。
ライブワークショップ参加の百絵ちゃん、珪子さん、梓さんの3人に前説をやってもらう。
20時、開演。
そしてあとは怒濤のパフォーマンス。
一瞬たりとも眼を離せないスリリングな内容で、朗読公演という型からは完全に逸脱しているが、どこにもない、だれもやったことのない表現の形が生まれたのではないかと思う。
今回、カメラを贅沢にも4台回して記録をとったので、この模様はあらためて映像作品にまとめたいと思っている。

21時半、終演。
お客さんたちも興奮ぎみで、撤収に22時すぎまでかかってしまった。
多くの方々がアンケート用紙に感想を残してくれた。
その抜粋をこちらに紹介した。


20日、土曜日。12時半、開場。
13時、開演。
この日はやや予約に余裕があったので、席を減らし、私のキーボードの位置も変えた。
メンバーが全部ではないが入れ替わり、おなじ脚本を使っているがまったく違ったパフォーマンスとなる。
両日とも出演したメンバーも、「いまここ」の自分の気持ちや雰囲気、コミュニケーションのなかで、まったく違った表現になっていく。
私もそれとコミュニケーションを取りながら音楽演奏をつけていった。

終わってからはいろいろな意見が耳にはいってくる。
いつものとおり、賛否両論といった感じだが、もとよりそれは望むところだ。
既成の枠におさまるつもりはまったくないし、自分たちの外側にある評価基準にあわせるつもりもなく、ただ自分たちの表現衝動から発する内側の創造的な欲求を形にしていきたいだけで、それが既成のものにあてはまるはずもない。
それを受け入れてくれる人もいれば、受け入れられなくて怒る人もいる。
そのことはとてもありがたくうれしいことだ。
方向性がまちがっていないことを確認できる。


全部終わってから、撤収。
その途中に、みぞれちゃんがしかけた、演出助手を今回つとめてくれたてんトコロの誕生日にたいするちょっとしたサプライズイベントがおこなわれて、大変スリリングでありつつ楽しかった。
そして羽根木の家にもどり、打ち上げ。
笑いあり、涙ありの、とても豊かな時間で、自宅に帰るときにひとりでかみしめていたのは、げろきょという集まりがこうやって実体化しているのは奇跡のようなことであり、それは私が始めたことではあるがまったく予想もしていなかった幸福な展開であり、私はこの場を持続し死守していくことが自分の生涯の仕事なのかもしれないな、ということだった。

福井県立病院ピアノコンサート「春が来た」

2013年4月15日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。

曲目
・春が来た 作曲:岡野貞一

この曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
⇒ http://yuumizuki.bandcamp.com


キッズ3公演を終えて(賛否両論について)

あらためてレポートを出すが、簡単な感想を書いておく。

ライブや公演が終わると、こういうことをやっている人ならだれもが経験のあることだと思うけれど、さまざまなリアクションがある。
観終わったあとのアンケートに回答してくれた人たちもいれば、直接感想を聞かせてくれた人もいる。
メールをくれる人や、SNSやブログへのコメントをくれる人もいる。
直接ではなく、間接的に出演者へ伝えてきて、それが私の耳にはいることもある。

現代朗読の公演では、毎回、賛否両論がある。
それは私にとってうれしいことだ。
なぜなら、観に来てくれる人たちにはさまざまな価値観や大切にしていることがあり、それが私たちの価値観とかならずしも一致するとはかぎらないし、むしろ一致しないことがあたりまえだ。
その上で「楽しませてもらった」といってくれる人はありがたいし、「こんなのお金払って観にくるようなものじゃない」と怒りをあらわにする人もいて、それはそれでひとつのメッセージだと受けとることにしている。
反応も沈着冷静なものから、激情型のものまで、いろいろある。

私たちがやっているのは、既成の(外側からあたえられた)価値観を慎重に解体し、自分たちの内側から出てくる創造的な表現欲求を丁寧に扱って、なにかの枠組みにとらわれない表現の場を作ることだ。
当然のことながら、既成の枠組みのなかにある表現を期待してくる人には期待はずれだろう。
このようなあたらしいものを受けいれるには観る側にも開かれた感受性が必要なことは、容易に想像できる。
そしてそんな人ばかりが観に来てくれるわけではないことも。

ともあれ、賛否両論が噴出したというのは、私にとってお祝いしたいことなのだ。
ああ、この方向性でいいのだな、と確認できる。
賛否両論が出てこなくなったとき、たぶんそこには創造性は失われてしまったんだろうし、そういう場所には私は行きたくない。

2013年4月20日土曜日

キッズ3公演初日

昨日・今日と、明大前キッド・アイラック・アート・ホールで現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」を開催している。

昨日は午前中から羽根木の家に行き、公演の準備やらリハーサルやら。
私も機材準備など。
午前中のうちに終わってしまって、あとはなにもすることなし。
いったん帰る人、食事に出る人、昼寝する人、うだうだする人、いろいろ。

午後3時すぎ、移動準備。
機材を運ぶタクシー組と徒歩組にわかれて移動。
私は歩いて明大前まで移動。

午後4時すこし前、ホール入り。
会場準備、機材セッティング。
今回、舞台監督(ブタカン)を買って出てくれた福豆豆子がきっちり仕切ってくれたので、役割分担がしっかりしていて、とても安心・スムーズ。
私も、いつも音響や映像機材でドタバタするのだが、今回はブタカンが菜穂子さんを「秘書」としてつけてくれたので楽させてもらった。

今回もホールの早川くんが音響と照明をやってくれたのだが、その仕込みと場当たり、リハーサルが同時進行。
こちらもスムーズに進み、ほぼ定刻どおりに開場できた。

19時半、開場。
定員30名のところ、35名まで受け付けてなんとか席を作り、あとはお断りしたので、満席。
ライブワークショップ参加の百絵ちゃん、珪子さん、梓さんの3人に前説をやってもらう。
20時、開演。
そしてあとは怒濤のパフォーマンス。
一瞬たりとも眼を離せないスリリングな内容で、朗読公演という型からは完全に逸脱しているが、どこにもない、だれもやったことのない表現の形が生まれたのではないかと思う。
今回、カメラを贅沢にも4台回して記録をとったので、この模様はあらためて映像作品にまとめたいと思っている。

21時半、終演。
お客さんたちも興奮ぎみで、撤収に22時すぎまでかかってしまった。
歩いて家に帰ったが、私もちょっとエキサイトしていて、ウイスキーを一杯ひっかけてから眠った。

そして今日。
これから2回めのキッズ3公演。

福井県立病院ピアノコンサート「春の小川」

2013年4月15日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。

曲目
・春の小川 作曲:岡野貞一

この曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
http://yuumizuki.bandcamp.com

2013年4月19日金曜日

福井県立病院ピアノコンサート「花」

2013年4月15日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。

曲目
・花 作曲:滝廉太郎

この曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
http://yuumizuki.bandcamp.com

2013年4月18日木曜日

ひさしぶりミズキランチ、明日はキッズ公演

数年前はちょくちょくやっていたワンコイン・ミズキランチを、今日はひさしぶりにサービス。
これはゼミ参加者限定、数量限定で私がランチを作って、500円で提供するというサービスで、もちろん営利が目的なのではなく、私の料理の楽しみとみんなとのつながりを満たすためにおこなうものだ。
震災以後、なぜかやらなくなってしまったのだが、気が向いたので再開してみることにした。

今日の献立は豚丼、モヤシとシメジのナムル、パスタサラダ、ジャガイモとワカメの味噌汁。
KAT、野々宮、唐ちゃんと楽しくいただく。

午後は昼ゼミ、夜ゼミだったが、どちらも明日と明後日の現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」の準備と稽古。
いわゆる「キッズ3」公演だが、明日の分はすでに満席・予約完了となっていて、あらたな申しこみをお断りしている状況だ。
明後日の分はあと何席かは残っている。
公演詳細はこちら

ところで、今日は予期しないことが起こった。
出演者のひとりの平田くんが都合で出られなくなってしまったのだ。
「予期しない」と書いたが、こういう事態も起こりうるということを予期しておこう、ということはすでに何度かいってあったことなので、少なくとも私自身は冷静に対処できた。
代役をかんがえて連絡すると、ほかの人たちもすぐに動いて対処してくれた。
だれも平田くんに文句をいうものはいない。
なにより出られなくて一番残念なのは平田くんであることはみんなもよくわかっている。
直接平田くんに共感してあげたいが、それは公演が終わってからのことになるだろう。

私も明日の準備。
音響と撮影機材を確認する。
照明をやってくれるホールの早川くんに渡すための照明プラン(といっても簡単なメモのようなものだが)を作る。
今回は当日スタッフのことをみんなが手分けしてかんがえてくれ、とくにブタカン役のずずこさんがきっちりとやってくれているので、私はとても安心していられるし、私が集中したいことに集中していられるので助かっている。
げろきょもここまでしっかりとしたつながりのある集まりになってきたということを実感して、仲間たちに感謝するばかりだ。

福井県立病院ピアノコンサート「ふるさと ~ 青い空、白い雲」

2013年4月15日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。

曲目
・故郷(ふるさと) 作曲:岡野貞一
・青い空、白い雲 作曲:水城ゆう

この2曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
http://yuumizuki.bandcamp.com

徳島でのワークショップ(6/16)について

6月に徳島まで現代朗読のワークショップとライブのために行くことになった。
そのことについて、徳島支部(?)のたるとさんが書いてくれていたので、紹介しておく。

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人は いったい何をもって いいなぁと思ったり ひきつけられたりするんだろうか?

いろんな友達の演奏や朗読 歌 踊り・・・
プロと呼ぶような人たちではないけれど そういうものに出会う機会には わたしは恵まれている

たいていは 無料だし 食事したり何か飲みながらだったりで
がやがやとうるさい場所でのパフォーマンス

ひどい場合には いつ その人が登場して 何をやって終わったかだれも気にも留めない
なんて言う場合すらある

が・・・時には みんなが食い入るように見たり 注目したりすることがある

この人は じょうずだから とか 初めての人だからとか 久しぶりで珍しいとか
そういう場合もあるが はっと心惹かれて 注目するという状態
しかも みんなが ずっと見てくれるというのが最高にすばらしいことで
なんとか そうなりたいと 日々思っている

ただ
残念ながら 朗読は もう始まった途端 みんなの興味は他へといってしまうことが多い
そういう騒がしい場所にそぐわない 似合わないというのもあるかもしれないが
わたしは それはやはり言い訳けに過ぎないと思ったりする

たしかに 音楽とか踊りと違って 言葉の意味をきちんと聞くのは 騒がしい場所ではむずかしい
そのジレンマに 苦しんできた

そして出会ったもの。。。

朗読を 本の内容を伝えるだけじゃない 
自分を表現するものとして確立しようとしているのが 現代朗読協会だと思う

そして 今や 音楽や踊りや 絵や そのほかの芸術に負けない 
いやそれらよりも もっと自由で どこまでも限りない表現の世界を
目指しているのが 現代朗読だと思う

実際 その公演は もう 朗読なんて とは言わせない
朗読という言葉を超越した ものすごいものになっている

わたしが 現代朗読の門をたたいた時には 想像もしなかったような世界が
この数年で 実現しているのには びっくりで

そのスピードに振り落とされそうになりながら かろうじてくっついている

あ~~ その 現代朗読のパフォーマンスが
徳島の地に また降り立つ

6月16日(日曜日) 午後2時~5時
ワークショップ  ぶつだんのもり(大松店)いきいき館5F
参加費 3500円

6月16日(日曜日) 午後7時~9時
朗読パフォーマンス  花杏豆(八万店)
チケット料金 無料(太っ腹!) 飲食だけお願いします
楽器や踊りなどのコラボ 飛び入りでの朗読参加なども大歓迎!

演奏でも 踊りでも 歌でも
表現にかかわることに興味のある人は ぜったい参加するべし! 朗読はただの手段です
自分の表現の広がりのために ワークショップの参加をお勧めします

東京に行かなければ受けられないので 徳島の近くの方はチャンスです

また その日の夜おこなわれる朗読ライブは・・・これは 絶対見なくちゃ損です!
こんな朗読が かつてあったでしょうか?いや ない・・・!

泣く子も黙る そんな朗読です
騒がしい店内も きっとしーんとするはず

興味本位で構わない ぜひ足を運んで下さい
驚きの世界をお見せします

そろそろ 近づいてきました
ワークショップのお申し込みは わたしまで
お早目に

ライブに行きたい という声も 耳をダンボにしてお待ちしています
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2013年4月17日水曜日

福井、小松、羽田、東京もどり

今朝は早朝から実家の仕事をしていたので、歩数計は10,000歩を超えている。
そして朝から手打ちそば。
昨日の夕方、たらふく食ったのだが、その残りを今朝も食べた。
ひと晩おいてもうまい。

そして東京へ移動。
いつもツイッターで流している移動中の景色やスナップを、今日はなんとなくフェイスブックのほうに流してみた。
するとコメントやら「イイネ」がたくさんついて、反応が全然違う(だからといってフェイスブック礼賛というわけではない)。
私が流した写真で、地元の弁天桜という桜の名所の宣伝看板や恐竜のゆるキャラもどき、車止めの設備があまりにひどいという声が起こり(私もそう思う)、そのことについてあらためてかんがえさせられ機会が生まれた。

小松空港から羽田へ。
予定どおり飛んだのだが、いつもは曇っていても上空にあがれば視界は開けるのに、春のせいか今日はずっと視界は真っ白。
なにも見えない。

写真は飛びたってしばらくしてから見えた私の実家の上空。
この画面のなかにブッチャーの額のようなスキージャム、オオタカの舞う里山を切り開いて作ったピカピカ卵のような恐竜博物館、そして私の家が写っている。

東京にもどったら、明後日から2日間開催する現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」の予約がたくさんはいっていて、明後日・金曜日19日の分はすでに予約定員を突破。
予約を締め切る。
なのに、まだ申しこんでくる人がいるので、残念ながらお断りせざるをえない。
ずっと「ご予約はお早めに」とお願いしていたんだけどな。
今後、きっと、現代朗読の公演は予約が取りにくくなるよ、と希望的に予言しておこう。

夜は安納献先生による共感的コミュニケーション講座。
講座の前に(献ちゃんとは別の)賢さんといっしょに「虎の穴」ならぬ「キリンの穴」をやっていて、それが大変おもしろかった。
もちろん講座本編も学びの多い時間であることはいうまでもないけれど。

のぞみさんがあるイベントで私の「quiet pictures 2」の曲を使いたいといって、CDを購入してくれた。
購入しなくても使ってもらうのはかまわないのに、わざわざ購入していただいたことにのぞみさんの私に対するある種の尊重とつながりの気持ちを受け取ることができて、とてもうれしい。
ありがとう、のぞみさん。
「quiet pictures」のシリーズについては、私が思いがけずギフトされることが多くて、感慨深い。

ギフトすることはギフトされること

日本にやってくる各国のNVCトレーナーたちは、羽根木の家に宿泊したり、ミニワークショップを開催したりするので、私はひそかに羽根木の家は日本におけるNVCのメッカのようなものだと思っている。
5月に来日するブリジッド・ベルグレーブ(イギリス)も羽根木の家に滞在する予定になっている。
私もおよばずながらお世話することが多いのだが、その際に私自身の紹介として音楽CD「quiet pictures」をプレゼントしていた。
うれしいことに、トレーナーのなかにはそれをワークショップのときに流している、という人もいたりする。
静かなCDで、NVC的といえばいえる。
私としては瞑想音楽(music meditation)として作ったものなので、NVCの静かなワークにしっくりくるのかもしれない。

今回、「quiet picture」の2と3がつづけて完成したので、安納献くんを通して各国トレーナーたちにまた送らせてもらった。
ネットがあるので便利。
そしたら、聴いてくれたトレーナーたちから次々とメールをいただいた。
とてもうれしい。
献ちゃんは「Gift from Mizuki」と題して送ってくれたのだが、逆に私のほうがみんなからギフトをもらったような気分になっている。
聴いてくれてありがとう、と。

リブ・ラーソンからはピアニストの友人とシェアしたいという連絡をもらった。
カイ・ラングからは、北スウェーデンの春の光のなかで聴いて美しい春が心にあふれた、と伝えられた。
バーバラ・コーチャンは、明日の朝ワシントンでママと会うことになっているんだけど、いっしょに聴きたい、といってくれた。
キャサリン・カデンからは、たくさんのニーズに会えて喜んでいる、といってもらえた。
これらは全部、私への贈り物だ。

この音楽はこちらから全曲聴けます。
お金を払わなくても聴けますが、もちろんお金を払ってもらってもかまいません。

2013年4月16日火曜日

今週末の「キッズ・イン・ザ・ダーク」公演の当日パンフ

(写真は稽古風景)

今週末の金曜日と土曜日に開催される現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」は、残席僅少となってきた。
ご予約はお早めに。
詳細はこちら

さて、都合で来れないとか、予約が間に合わなかった、という方のために、せめて今日私が書いた当日パンフレットの内容をリークしておきたい。
以下の内容を、当日は美しくレイアウトしたパンフレットにしてご来場の方々にお渡しする予定だ。


登場作品
「原体剣舞連」宮澤賢治
「ラムネ氏のこと」坂口安吾
「毒もみのすきな署長さん」宮澤賢治
「温室」水城ゆう
「子どものころの七つの話」水城ゆう

作・構成・演出
 水城ゆう

出演
 内野明香
 唐ひづる
 KAT
 佐田百絵
 佐藤孟陽
 高崎梓
 てんトコロ
 徳永珪子
 野々宮卯妙
 玻瑠あつこ
 晩衛
 平田修一
 福豆豆子
 水城ゆう
 宮本菜穂子
 山田みぞれ
 美子

音響・照明
 早川誠司(キッド・アイラック・アート・ホール)

挨拶文:
現代朗読2013年春公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」へようこそお越しくださいました。
「キッズ・イン・ザ・ダーク」シリーズ(いつのまにシリーズに?)も今回で3回めとなりました。2012年夏、2012年末ときて、そして今回2013年春。
通してご覧いただいた方はいらっしゃいますか? もしいらっしゃるなら、私たちが毎回バージョンアップを重ねてきていることに気づいたと思います。それはそうですね。メンバーこそ多少入れ替わるとはいえ、現代朗読という方法で作られた公演が、回を重ねるごとにエキサイト……いや、バージョンアップしていくのは当然といえましょう。パソコンのOSがバージョンアップのたびに機能が増えて重くなるように。
いえいえ、私たちはウインドウズのように回を重ねるたびに重くはなりませんよ。内容はどんどん濃くなりますが、むしろ軽快になり、ユーザーフレンドリーになってます。そのへんはアップルの……これ以上はいいませんが。

今回の公演のテーマは「いのちの祝福」です。いろいろな意味で困難な時代を迎え、この先に不安をおぼえている人も多いかと思いますが、そんななかでも喜びと笑い、まじめさも滑稽さも合わせもったいのちの輝きを失わずに生きていければ、という願いをこめて今回のプログラムを作りました。
みなさんもいっしょに声を出したり、身体を動かしたりして参加してください。ほら、そこにただすわって観ているだけじゃなく、私たちの輪のなかにはいってきていただいていいんですよ。

この公演は現代朗読のひとつのステップであり、さらに広々とした表現の世界に出ていくためのスタート地点ともなっています。そのことをご来場のみなさんと共有できれば幸いです。
本日はお越しいただいてありがとうございました。
(現代朗読協会主宰・水城ゆう)

春の早朝の里山の風景

自分のボケのおかげで、春の里山を早朝からドライブしてきた。
MacBookのACアダプタを東京から持ってかえるのを忘れて、昨日ヤマダ電機で購入したにもかかわらず、それをまた県立病院のピアノコンサートで置きわすれて帰ってきてしまったのだ。
今朝は日の出の時刻から県立病院に向かった。

2番めの写真は永平寺町の山裾の風景。
古い家と田畑とこんもりした木立と山並みが大変美しい。
が、よく見ると左の背後に中部縦貫道路という高速道路の橋脚がならんでいて、もうすぐこのすぐ背後に高速道路が通って、この風景も終了。
残念なことである。

九頭竜川の堤防にはまだまだ桜が咲いていた。
私が子どものころからある桜のトンネルを写そうと思ったのだが、広告の看板や提灯がたくさんさがっていたので、やむなく堤防から川のほうを透かして撮る。
鯉のぼりが川を渡してたくさん泳いでいたが、それは夏の風景でしょ。

桜並木を離れると、河原には新緑が芽吹きはじめていて、気持ちのいい風景がひろがっている。
木立と川面の向こうにはまだ雪をいただいた山並みが見える。
もう道路も橋もダムもいいから、せめて残っている美しい風景を残そうよ、おねがい。

2013年4月15日月曜日

福井県立病院でのピアノコンサート記

福井県立病院での約1時間ほどのピアノコンサートを先ほど終えて帰ってきたばかり。
昨日、実家に帰省して、MacBookのACアダプターを忘れてあせってしまっていたのだが、今日午前中に福井のヤマダ電機まで駆けつけてさっそく購入(余計な出費だが、いざというときのためにこれは実家に常備しておこう)。
そのあと、父方の叔母の法事のために寺に行く。

12時前に終わって、どこかでMacBookを充電しようと思ったのだが、なかなかいい場所を思いつかない。
早めに病院に行ってしまうことにして、一番すいていた産婦人科の診察室の待合所のベンチで盗電。
その後、病院の担当の方から連絡がはいり、控え室に案内される。
こちらでようやく堂々と充電。
コンサート開始までに半分くらいまで充電できた。

13時半になって、ピアノのところへ行ってみると、けっこうな数の人が聴きにきてくれている。
ありがたい。
知り合いも何人かわざわざ来てくれていて、話をさせてもらった。

13時半になったので、演奏スタート。
今日は日本の春の曲を中心にやらせてもらった。
「花」「春の小川」など、ほかにも「茶摘」とか、オリジナル曲も。
二度めだったせいか、ピアノが指にだいぶなじんで弾きやすく感じたし、なにより聴いてくれている人たちの反応がうれしくて、しっかりとつながりを感じながら演奏できたような気がする。
ちょっと調子に乗って自分の音からやや逸脱してしまった部分もあったけれど、終わってから涙を流しながら近づいてきて、話しかけてくれた人もいた。
自分の子どものころの、カタクリが咲きみだれる里山の風景を思いだした、といっていただいた。

終わってから同級生の辰巳くんとコーヒー。
彼のおかげでこのコンサートが実現している。感謝。

家に帰ってきたら、病院から留守電がはいっていた。
忘れ物をあずかっているので電話ください、とのこと。
なんだろうと思ってかけてみると、なんと、今日買ったばかりのACアダプターをコンセントのところにつなぎっぱなしで忘れてきてしまったのだった。
こういう「ぼけ」はなぜかつづくことが多い。
守衛さんに預けてもらって、明日の朝一番に取りにいくことになった。
このレポートは残りのバッテリーでかろうじて書いている。

2013年4月14日日曜日

コンピューターが使えなくなったらどうするか

私的な検証をかねて。
今日、東京から福井の田舎に帰省したのだが、いつも愛用しているMacBookの電源アダプターを持ってくるのを忘れたことに気づいた。
実家に予備は置いてない。
田舎なので近くにアップルストアはない。
実家でも仕事はするし、メールやSNSの連絡、ブログの更新など、MacBookが使えないとなるといろいろと支障が出る。

さいわい、フル充電の状態で持ってきたので、5時間くらいは使えるはずだ。
今日一日と明日の朝くらいまではなんとかなるだろう。
まず液晶の輝度を落として省エネ。
つぎに、近所にMacBookのACアダプタを売っている店がないか、何軒か電話してみる。
全滅(orz)。
福井の市街地まで行けばMacを扱っているショップがあるはずだと思って、調べてみたらヤマダ電機(とあとで地元の友人に教えてもらったケーズデンキ)が扱っているとのこと。
明日、買いに行こう。
そしてそれはそのまま実家に常備しておこう。

それはともかく、これを機に、もしコンピューターが使えなくなったらどうするか、かんがえておくことにした。
さまざまな場面が想定できる。
まずは地震などの自然災害。
首都直下型地震に見舞われ、数日電気が来ない、などということは充分にありうる。
また、移動中に電源が使えなかったり、MacBook自体が壊れたり、といった事態もありうる。

私の使用目的は、コンテンツ製作とネットだ。
コンテンツは音声や動画などもあるが、メインはテキストだ(このブログを書いていることもそうだ)。
ネットはメール、TwitterやFacebookなどSNSでのコミュニケーションと仕事の大事な連絡もある。
ワークショップや講座を持っているので、その対応も必要だ。
販売コンテンツもあるので、それらに関する対応もある。
これらをすべて持ち歩いているMacBookでやっている。
それが使えなくなったら……

テキスト執筆については、紙の手帳にもどることができる。
これは意外に新鮮かもしれない。
時々積極的にやってみてもいいくらいだ。
ネット関連については、iPhoneに頼るしかないだろう。
ネットそのものがダウンしていないかぎり、iPhoneは軽快に使える。
問題は文字入力がもどかしいことだが、まあやれないことはない。
仕事で必要なデータや定型文は、すべてcloudに置いてある。
メール、Evernote、iCloud、その他、MacBookと常に同期してあって、iPhoneからも取りだせるようになっている。
いや、まだ取り出せないデータがいくつかある。
それは早急にEvernoteなどに転送して、取り出せるようにしておこう。

いざというときのために、iPhoneにBluetoothで接続するモバイルキーポードもカバンに入れておくべきだろうか。
そうすればiPhoneの文字入力問題もクリアできる。
危機管理の問題として、もうすこし試行錯誤してみよう。

羽田、小松、MacBookの電源忘れた

今日は移動日。
羽田、小松経由で福井の実家へ。
季節柄なのか、やたらと眠い。
飛行機のなかでもバスのなかでも、なにもできずに爆睡。
春は自律神経のリズムが狂いやすく、そのせいでちょっと頭のおかしな人や情緒不安定な人も増えるのだろう。
こういうときは音読療法の呼吸法。

実家に帰って、なんと、MacBookのACアダプターを持ってくるのを忘れたことに気づいた。
やばい。
MacBookが使えないと仕事ができない。
フル充電にしてあったので5時間くらいはもつはずだが(いまもそれで書いている)、さすがに明日以降はもたない。
あわてて近所の電気屋に電話してみたが、Macは扱っていないという。
福井でMacを扱っているところを検索したら、福井のヤマダ電機が扱っているらしい。
さっそく明日、行って購入しなければ。
それはそのまま実家に置いておくことにしよう。

なんとかなることがわかったが、もしMacBookが完全に使えなくなって丸腰状態になったとき、私はどうするだろうか。
そのことについてちょっとかんがえておこう。

明日は朝から近しい親戚の法事のためにお寺に行って、おっとその前にヤマダ電機に寄って、午後は福井県立病院に行ってピアノコンサート。
1時半から1時間くらい、日本の季節の唱歌を中心に演奏する予定。
無料なので、お近くの方はぜひおいでください。
エントランスホールのグランドピアノを弾きます。

2013年4月13日土曜日

奇跡の13日

明日は早朝から移動日だし、今日も朝からみっちりつまっていた一日だったので、早々に寝ようと思っていたのだが、これだけは書いておこうと思ってキーボードをたたいている。

午前10時から「朗読はライブだ!」ワークショップ全6回の、今日は最終日だった。
このワークショップはこれまで何度もやってきていて、今回がなんと13期となる。
つまり、これまで13回のライブをやってきたのだ。
思いかえすとどれも印象的で、感慨深い。

キッド・アイラック・アート・ホールを借りて現代朗読協会の本公演と合流するスタイルにしたのは、第11期からで、去年の夏のことだった。
その後、12期は年末に、そしてこの13期は来週19日と20日に開催する。
毎回内容が充実してきて、去年の年末公演では「これが現代朗読のひとつの完成形だろう」と思ったほどだが、まだまだ先はあった。
今回はさらに進化して、とても濃い内容となっている。
ワークショップメンバーもよくついてきてくれていて、ひとりひとりがとても個性的で、魅力的でもある。
午後1時に終了したのだが、最後の締めの話をみんなでしたときには、とても感慨深かった。

引き続き、午後2時から公演参加メンバーのゼミ生たちがやってきて、公演の稽古。
出演者の全員がそろう「奇跡の13日」と呼ばれる日となった。
通常はありえないことだろうが、公演前に出演者全員がそろうというのはめずらしくて、それはげろきょがみなさんそれぞれの生活や仕事などのニーズを大切にしているからで、そういう状況でもなんとか公演を成立させる工夫をしている。
今日も最初で最後の全員参加の稽古日だったが、やはり全員そろうというのはうれしいものだ。

しかし、いざ稽古が始まってみると、やばかった。
全員、自由すぎ!
作・演出の私ですら予想もしない読みや動きを次々とくりだしてきて、笑いと驚きをこらえることができない。
私もピアノ演奏で一応出演者のひとりなのだが、完全に観客側にまわって楽しんでしまいそうだ。
盛りだくさんの濃い内容で、お客さんがちゃんとついてこれるかどうか心配になるほどだった。
もうこうなったら、とことんやりぬくしかない。
私も覚悟を決めよう。
(写真は記録映像をヘッドマウントのカメラで撮る役割になったみぞれちゃんの勇姿。ちょっと目つきがやばいけど、これはシャッターチャンスのせいです。本当はみぞれちゃんはとてもかわいい人です)

現代朗読協会公式公演「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」は来週19日(金)夜と20日(土)昼の開催です。
席に限りがあるので、予約はお早めに。
詳細はこちら

居残ったみんなが自主的な公演の準備をやってくれているかたわらで、午後6時からテキスト表現ゼミ。
初参加のみこちゃんと梓さんを入れて、いつもの奥田くんと植森さん、KATが参加。
小説における読者の視点、主観と客観、ストーリーが自動的に動きだすことの力、そういった話をした(ような気がする)。

カルメン・マキ&野々宮卯妙ライブ@中野SweetRainに行ってきた

2013年4月12日。
午後5時に中野駅北口でマキさん、野々宮と待ち合わせ。
私が出演するライブではないのだが、SweetRainの音響が(ある程度)わかる者がいたほうがいいだろうということで(ここはマスターがいないときはいつも出演者が自主的に調整している&今回はマスターは遅れてくるとの情報あり)、私もリハーサルに顔を出すことにした。
とはいっても、私もPA設備の専門家ではないのだが。

マキさんがなかなか来ないので、時間に正確なマキさんにしてはおかしいなと思っていたら、早く着きすぎてブロードウェイをさまよっていらしたらしい。
ちなみに、マキさんは約束の時間に遅刻したことは(私の知るかぎり)一度もない。

SweetRainへ。
すでにピアノの吉田桂一さんとベースの永田利樹さんが来ていて、音出しをすませている。
ボーカルマイクを2本セッティングして、ミキサーでリバーブやボリューム、パン、イコライザーなどを調整しながら、リハーサルを進めてもらう。
セッティングが終わったら、私はさっさと店を出て、そのへんのカフェで仕事しようと思っていたのだが、なかなかマキさんの思うような音が作れなくて1時間以上あれこれやっていた。

なんとかセッティングが終わり、私は近くのファーストフードでコーヒーを飲みながら、Macで作業。
7時を回ったので、店にもどってみると、出演者はだれもいない。
食事(飲み)に出たらしい。
お客さんが次々とやってきた。
今夜は予約だけでも満席らしいのだが、予約なしで来る人もいて、ちょっと混乱。

マキさんと朗読で一緒にされている条田さんがいらしたり、私の個人セッションを受けている人が来てくれたり、音楽塾に来てくれていた大木さんが来てくれたり、伊藤さやかが突然来たりと、盛況。
ゼミ生の植森さんも友人を連れて来てくれた。
神田神保町の〈書泉グランデ〉でやったイベントに来てくれた菜穂子さんの知り合いの杉村さん(?)も来てくれた。
川橋さんもグランデのイベントに来てくれたばかりか、「玉響のとき」にもおいでいただいた。
コンテンポラリー・ミュージック・ピアニストの中村和枝さんも駆けつけてくれた。

店はギュウギュウで、これが私の出演するライブでないのが残念なくらい。
朗読と音楽が絶妙なバランスで配置されたライブで、前半は1時間強、後半もおよそ1時間、アンコールを入れればたっぷり2時間半くらいの濃密なライブだった。
マキさんの歌と朗読、ピアノとベースの演奏、野々宮の朗読、マキさんと野々宮のセッション朗読。
私の作品も2、3作読まれてうれしかった。
「祈る人」「A Red Flower」「初霜」など。

始まってしばらくは、正直いって、朗読にからむ音楽に違和感をおぼえていたのだが、それは自分がいつも朗読にからむときの感覚や基準を演奏者側の立ち位置からあてはめて聴いていたせいだと気づき、途中からは吉田さんと永田さんの音楽を受け入れられるようになって、そのすばらしさを楽しめるようになった。
とくに「祈る人」ではピアノの吉田さんとベースの永田さんがフリーで朗読とからみ、私がやるときとはまったくイメージの異なった迫力のある表現になった。
マキさんの朗読の即興性のある瞬発力もさすがだと思った。

野々宮の朗読についてはもちろんいうまでもない。
これほどの自在な朗読者は、現時点で私はほかに知らない。
これは私の課題だが、第二、第三の野々宮が今後育ってくるのかどうか、育てることができるのかどうか、ということだ。

今回、完全に客側の視点でライブを聴かせてもらって、一番うれしかったのは、やはり自分の作品が読まれることだった。
作品や曲を提供したり、演出したり、といったことが、現場でいっしょにやることより私の性分に合っているのかもしれない、ともかんがえたりしていたが、しかし来週の「キッズ・イン・ザ・ダーク」公演ではみんなといっしょにやれることの喜びもまたたしかにある。

2013年4月12日金曜日

「どうせ」というマインド

photo credit: lisby1 via photopincc

私も身におぼえのあることだが、人はときにとても卑屈になり「どうせ私なんて……」といじいじすることがある。
たとえば、私が主宰している現代朗読協会では、しばしば公演やライブを企画して開催することがある。
そんなとき、なにかいいアイディアを思いついて提案したときに、それが却下されると「どうせ私なんて……」といじけたり、あるいは提案する前から「どうせ採用されないし」と引っこみ思案になったり、といったことだ。
あるいは、公演に出たいのに、自分にはまだまだ力がなくみんなの足を引っ張ってしまうのではないかと臆して「出たい」といいだせなかったり。
いまの現代朗読協会にはそういう人はいないけどね。

こういう自分は悲しいし、自分自身をないがしろにしているし、またみんなとのつながりを持てないし、主宰側からしてもこういう人の扱いはとてもやっかいだ。
なにもいいことはない。
「どうせ」という気分に襲われたとき、どうすればいいだろうか。

「どうせ」と思いはじめたとき、自分のなかにどんな感情が浮かんでいるだろうか。
悲しい?
苦しい?
つらい?
寂しい?
すこし怒りをおぼえている?
その感情をきちんと見ることで、感情が自分のどんな価値を指ししめしているのか探してみる。

自分の能力が発揮できなくて悲しいのか。
自分を表現できなくて苦しいのか。
積極的になれなくてつらいのか。
みんなとのつながりが持てなくて寂しいのか。
ふがいない自分に怒りをおぼえているのか、それとも自分のそんな気持ちを理解してくれないみんなに対して怒りをおぼえているのか。

自分がなにを大切にしているのか、なにを必要としているのか、どういうことに価値を見いだしているのか、そういったことにきちんとつながってみる。
漠然とかんがえているだけでなく、感情と価値を手帳に書きだして自分のなかを整理してみるのはとても有効だ。

自分の価値につながれたら、ではその価値を大切にするためになにができるかかんがえてみる。
「どうせ」から「じゃあ」に気持ちが変わったとき、動きが生まれる。
引っこんでいた自分から、自分の価値を大切にするために動きはじめる自分に変わる。
「じゃあ、こういうふうにしてみよう」
こういうふうに動きはじめると、まわりの人との関係性も変わるだろうし、主宰側の私としてもそういう人を受け入れやすいし、なによりつながりが生まれることがうれしいのだ。

ネバネバ和風スパゲティ

これから夏にむけて活躍できそうなレシピができたので、紹介したい。
とはいえ、じつはこれ、ありあわせの材料を適当に使って作ったものなのだが。

【材料】2人分
・スパゲティ……フェデリーニくらいの太さのもの、160~180グラム
・ツナ缶……小さいもの、1缶
・納豆……1パック
・山芋……10センチくらい
・オクラ……2、3本
・鷹の爪……1本
・ニンニク……1片
・板海苔……2、3枚
・オリーブ油、塩、胡椒、醤油、(あれば細ネギまたはバジル)

スパゲティを2リットル以上のお湯に大さじ2の塩を加えてゆでる。
そのあいだにフライパンに種を抜いた鷹の爪、みじん切りにしたニンニクを入れ、オリーブ油大さじ1を加えて、弱火にかける。
ニンニクが香り立ってきたら、山芋、オクラ、引き割りにした納豆、ツナ缶を順番に入れ、塩・胡椒して火を通す。
山芋がこげつきやすいので、へらでこそげながら、こげつかないように炒める。
麺を投入する前に、醤油を全体にひと回しかけ入れて、香りを出す。

麺は芯がやや残る程度(アルデンテ)にゆであげ、お湯を切ってフライパンに入れる。
その際、ゆで汁は完全に切ってしまわずに、お玉ひとつ分くらい麺といっしょにフライパンにいれるようにする。
麺とゆで汁をフライパンに入れたら、火にかけたままフライパンをしっかりとゆする。
できればフライパンを返して、ゆで汁と具が麺にからまるようにする。

このとき、しっかりフライパンをゆすることで、ゆで汁と油と炒めた具が乳化して、しっかりと麺にからまる。
全体が混ぜ合わさったら、皿に盛り、上から板海苔をもんでまぶし、完成。
見栄えが地味なので、細ネギを小口切りにしたものをさらにトッピングしたり、あるいはバジルの葉をそえるのもいいだろう。

具の候補として、ほかに、メカブやなめこもいけると思う。
それを友人から教えてもらったので、私はメカブをさっそく試してみようと思う。

2013年4月11日木曜日

撮影下見、和風スパゲティ、キッズ3公演の稽古

午前中から羽根木の家を映画の撮影に使いたいという人たちが来られて、下見。
公表していいのかどうかわからないので、お名前は伏せておくが、大正時代の話らしい。
なかなか撮影にうってつけの古民家が見つからず、羽根木の家で予定よりたくさん撮影することになったとのこと。
映画はなにしろ全部映りこんでしまうのだから、ロケーションとその準備は大変だ。

昼に納豆、オクラ、山芋、ツナ缶を使ったネバネバ和風スパゲティを作る。
見た目は悪いがかなりおいしくできた。

午後は昼ゼミで「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」の稽古。
もう来週なのだった。
進行についてシナリオを読み合わせながら細かく確認し、また演出も細かい変更をいれていく。
これまでひとり読みの部分は稽古しなかったが、今日はやってみた。
気になる所要時間を計ってみた。
思ったより短くてほっとする。
公演全体を70分から80分以内におさめたいと思っている。

夜も夜ゼミでキッズ公演の稽古。
夜は参加者が多く(11人)、各パートにすべて充当してやれたので、進行の確認や実際のライブでの感触のイメージがかなりつかめた。
私もピアノ演奏をいれながら参加してみた。
まだ課題もあるが、緩急のある、動きと静寂のある、迫力と沈黙をともに大事にするおもしろい公演になると思う。

みなさん、来てね。
「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」の詳細はこちら

「好きなことで食べていく」についてふたたび

photo credit: .craig via photopincc

「好きなことで食べていく」ということの矛盾についてはすでにこちらに書いたことだが、今日は別の角度からふたたびかんがえてみたい。

「好きなことで食べていく」というセンテンスには前向きで自己肯定的なひびきがあり、多くの人を自動的にひきつける呪文のようになっている。
そのためこの文言がうたわれた本やブログ記事はたくさん読まれているようだ。
注意したいのは、呪文やことわざ、気のきいたひとことというのは、魅力的ではあるが、そこで思考停止してしまうことがあるということだ。
「好きなことで食べていければいいよね」
と漠然とかんがえたり、あこがれを持ってこの言葉を受け入れたりすることで、さらに踏みこんでかんがえてみることがなくなってしまう。
しかし、ここで一歩踏みこんでかんがえてみなければ、「好きなこと」をつづけていくためになにが大切なのか、見失ってしまうことになる。

このセンテンスの重要な部分はどこだろうか。
「好きなこと」なのか、「食べていく」なのか。
「食べていく」ことが重要部分なのだとしたら、なにもそれは「好きなこと」でなくてもいい。
人は食べるためだけならいろいろな手段を持っている。
仕事を選ばなければ(幸いなことに)どんなことをしてでも食べていける世の中だし、そういう時代と国に生きている。
いよいよ困れば生活保護だって受けることができる。

このセンテンスの重要部分はもちろん「好きなこと」だろう。
「好きなこと」をつづけていくためにどうすればいいか、ということが大切だし、かんがえるに値することだろう。
好きなことをつづけていくためには、生活がある程度安定している必要がある。
まちがってはいけないのは、生活を安定させるために「好きなこと」を使ってはいけない、ということだ。

「好きなこと」をつづけることとと、「食べていく」こと、つまり経済の問題とは、本来なんの関係もない。
「好きなこと」を経済問題に結びつけてかんがえてしまうことが、不幸のはじまりといえる。
経済問題は経済問題として別個に解決しておいたほうがいい。
その上で「好きなこと」をつづけていくにはどうすればいいのか、どのような環境が必要なのか、それをかんがえ、ととのえていく必要がある。
好きなことをつづけていくための環境をととのえることができれば、存分に好きなことに打ちこんでそれを持続させていくことができるだろう。

存分に好きなことに打ちこむために生活時間すべてを好きなことに使おう、つまりそれで生活費を稼ごうと安易にかんがえてしまう人が多いが、それは自分が大切にしている「好きなこと」をまったくないがしろにする行動であるというしかない。
私も若いころにはそのように自分をないがしろにしつづけてきて、えらそうに人のことをいえる立場ではないけれど、私が支払った多大なる代償をもっていま現在、このようなことを書いているわけであるから、ひとつご容赦いただきたい。

2013年4月10日水曜日

私は生ピアノを弾きたいのだ

ピアノを弾いていると、いろんな人からいろんなことをいわれる。
それは当然のことで、ひと前でなにかをする(表現する)というのは、情報発信するということであって、そのリアクションはかならずある。
それが自分の望むようなものであるか、そうでないかは別問題で、ひどく傷つけられるようなことをいわれることもある。
表現する者はもとよりそれを覚悟の上で、そういったことに対処できるメンタリティを持っているほうがいいと思うが、これはまたあらためて別の機会にくわしく書いてみたいと思う。

ピアノはいわばスイッチがたくさん並んでいるような楽器で、だれが弾いてもひとしくきれいな音が鳴る。
バイオリンやトランペットのように、きちんと音が出るようになるまで苦労するというようなことはない。
指を置いて鍵盤を押せば、一様にきれいな音が鳴る。
とはいえ、なぜか人によってピアノの音が違って聞こえる、という事実もたしかにある。

私がピアノを弾いたとき、
「とても繊細な音で好き」
といってくれる人もいれば、
「本職のピアニストじゃないから響きが弱いね」
という人もいる。
両方の意見ともうなずける。

私がピアノを弾きはじめたのは小学3年生のころで、ピアニストとしてはかなり遅いほうだろう。
しかも個人レッスンについて習っていたのは小学6年生までで、そのあとはずっと独学だった。
音大に行くようなピアノ弾きとはまるで基礎が違っている。
しかし一方で、20代前半の頃は職業バンドマンとして一日のうち8時間とか連続的にピアノをひと前で弾いていたことがあって、それはほとんどプロピアニストの多くがあまり経験することのないほどのハードワークだった。
その経験が何年かあって、それらの日々ではアコースティックピアノもエレクトリックピアノもシンセサイザーや電子オルガンのようなキーボードも、あるゆる鍵盤楽器を毎日弾きまくっていた。

ライブやYouTube映像で外国のピアニストの映像を見ていると、その恐ろしいほどに力強いタッチに驚く。
実際に彼らは屈強な体躯を持ち、腕も指もごつい。
十数年前にブルーノート東京にハービー・ハンコックの演奏を聴きに行ったとき、偶然ハンコックと握手する機会にめぐまれたのだが、そのときの分厚い手のひらと指のごつさにびっくりした記憶がある。
とてもかなうものではない。

日本のピアニストにもそういう人はいる。
板倉克行、板橋文夫、本田竹曠、などなど。
彼らが弾くと、そのピアノはまるで別の楽器のように「鳴り」だす。
私にはたぶんそういう芸当はできない。
しかし、と思うのだ。

非力だからアコースティックで勝負するのはあきらめて、電子楽器で自分を生かせばいいではないかというかんがえかたもある。
電子楽器は力がなくてもいくらでも音を増幅できるし、音色も変えることができる。
それもひとつのかんがえかたで、悪くないし、それに抵抗することなく取り入れようとも思っているが、一方で私なりのアコースティックの味わいもあるのではないかと思っている。

残念ながら、いま私はアコースティックのピアノを日常的に弾ける環境にないけれど、いずれそういう状況にめぐまれたら、自分なりのアイディアと資質を生かすための試みをやってみたいと思っている。

マインドフル散歩

桜上水まで散歩してきた。
歩数にして10,297歩。桜上水まで行ったら、帰りは電車にするつもりだったのに、結局帰りも歩いた。

下北沢、羽根木、東松原、松原、赤堤、桜上水というルートで、たぶん4キロ弱くらい。
目的は今月の20日で閉店してしまう〈オーガニック七菜〉でのランチ。
ここにはげろきょでのマリコランチでおなじみのマリコが勤めていて、今日もキッチンにいた。

このくらいの長距離を歩くと、右膝に故障を抱えている私はだんだん膝が痛みはじめるのだが、今日はマインドフルをこころがけ、膝が痛みはじめたとき自分の身体がそれにどのように対応しているのかじっくりと観察することにした。
ちょっと「歩く瞑想」に近い感覚。
気づいたのは、膝が痛みはじめると(たぶん痛くなくてもそうやってる)右膝をかばおうとして左足に負担をかけて歩いている。
そのことで右膝まわりの筋肉がきちんと働かなくて、さらに痛みを促進してしまっている。
ほとんど無意識にそのような歩きかたをしてしまっていて、それが習性になっているようだ。

思いきって右膝への負担を減らそうとはせずに膝まわりの筋肉をしっかりと使って歩くようにしてみた。
大腿直筋、内側広筋、外側広筋、前脛骨筋といった、膝を取りかこんでいる筋肉群をしっかり動かすようにして歩いてみると、逆に痛みはなくなっていく。
これらを意識的に強化することで、膝の故障の経年悪化はある程度避けられるかもしれない。

そうやって自分の身体に意識を向けながら、しかし内側ばかり向かずに身体の外からの情報も全部受け取ってマインドフルに歩いていると、なんと気持ちのいいことか。
いつもはこんなに歩かない長距離の歩行も苦ではなく、とても楽しめた。

七菜でのランチもおいしかったし、ちょうど切らしかけていた濃口醤油のおいしいのがあるというので買うことができた。
お客がとぎれてマリコともゆっくり話ができた。
ちょうどオーナーの七菜さんもいらして少し話をした。


帰りは下高井戸の駅前商店街をぶらぶら。
なぜかこの商店街が私は前から好きなのだ。
住宅街をずっと歩いていったのだが、変わった家があったり、古い家が残っていたり、畑があったり、思いがけない店が出現したりと、楽しい散歩だった。