2011年4月30日土曜日

豚肉と小松菜のバルサミコ風味スパゲティ

時間がなかったので、大変簡単に、短時間で作ってみました。
材料はありあわせ。
豚肉の代わりに牛肉や鶏肉でも大丈夫。小松菜の代わりにほうれん草やキャベツなど、なんでも大丈夫です。きっと。

■材料 2人分

・スパゲティ 160グラム
・豚肉(バラ肉でももも肉でもなんでもよし) 100グラム
・小松菜 一束
・にんにく ひとかけ
・鷹の爪 1本
・オリーブ油、バルサミコ酢、醤油、塩、コショウ

スパゲティを塩を加えたたっぷりのお湯で、指定時間よりやや短めに設定してゆではじめます。
その間に、フライパンに種を抜いた鷹の爪とみじん切りにしたにんにくを入れ、オリーブ油大さじ1杯を加えて、弱火にかけます。
にんにくが香り立ってきたら、豚肉を入れます。
色が変わって火がほぼ通ったら、5センチくらいの長さに切った小松菜を加え、炒め合わせます。
塩、コショウ、バルサミコ酢大さじ1杯、醤油少しを加えます。
そこにゆで汁を加え、フライパンを揺すって、軽く乳化させます。これをやることでソースが麺にからみやすくなるのです。
ゆであがったスパゲティを加え、ざっくりと混ぜあわせます。
完成。

所用時間は水を火にかけてお湯になるまでと、スパゲティがゆであがるまでの時間です。ほぼ15分くらいでしょう。
バルサミコ酢の酸味がさわやかです。

MacBook Air と MacBook Pro ではテキスト入力時に文体が変わる

という仮説を立ててみた。
実証されたわけではないが、なんとなくそんなふうに感じるのだ。そしてそのように感じる人は私以外にもけっこういるようなのだ。

かつてヒューレットパッカードの名機HP100LXを使っていたときも、そのようにいう者がたくさんいた。私もそう感じた。
そのときには、たぶん、小さい画面で文字入力をするため、視野が狭窄するとともに思考も集中するのではないか、という説に落ち着いた。
MacBook Air のときも画面が小さいため、同様の理由で集中できて、なんとなく文体もいい具合に変わるような気がしていた。
が、実際には違う原理が働いているのではないか、と最近思うようになった。

私は時々、アレクサンダーテクニークという身体の使い方のメソッドのレッスンを受けているのだが、そこで「周辺視野」について意識するようにいわれることがある。そのことを思いだしたのだ。
ProとAirとでは画面の大きさが違うのだが、必然的に周辺視野の広さも変わる。画面が大きければ周辺視野が狭くなり、画面が小さければ周辺視野は広くなる。
周辺視野の情報は顕在意識では直接とらえていることは少ないが、潜在意識には絶えず流れこんできている。その情報はなにか書き手の意識や身体性に影響を与え、ひょっとしたら表出するテキスト文体にも影響をおよぼしているかもしれない。
そういう仮説である。
これはまだ証明されたわけではないが、しばらく意識して観察をつづけてみようと思っている。

2011年4月28日木曜日

東四つ木デイサービスセンターで音読ワーク

葛飾区の東四つ木デイサービスセンターに、出張音読ワークに行ってきた。
ゼミ生の朱鷺さんが『音読・群読エチュード』を買ってくれて、それをデイサービスセンターの所長さんに見せたところ、「これはおもしろい」といっていただき、所長さんも一冊買ってくれた。それがきっかけで、実際に私が行って、皆さんと音読ワークをやることになったのだ。

行ってみると、とても活気のあるにぎやかなセンターであることにまず驚いた。
朱鷺さんもおられた。お会いするのはひさしぶりである。といっても、いつもSkypeではお声を聞いているのだが。

さっそくワークをやる。
お年寄りの方が4、50人くらいだろうか、それぞれテーブルを囲んでくつろいでおられた。
近刊の『音読・群読エチュード』からいくつかのエチュードを選んで、職員の方もいっしょにやる。私のほかに、現代朗読協会の野々宮がアシスタントで来ている。
まずは宮沢賢治の「星めぐりの歌」。最初はいっしょに声を出して詩を読み、そのあと「質問と返答」のエチュード。
こちらでは音読ワークはあまりされたことがないということで、その時点ではまず少しとまどわれていた方もいたようだが、リズム読みのエチュードになると皆さん手拍子でノリノリになってきた。リズム読みのエチュードで使ったテキストは、ロバート・ブラウニングの「春の朝」という詩を上田敏が訳したもの。
最初は手拍子で、そのあと私がピアノを弾いて、全員でひとつの音楽を奏でるように音読をしてもらった。

やっている途中から、皆さんの表情がどんどんイキイキしてきて、眼も輝いて、あちこちから声があがってくるのが、私も楽しかった。
最後は皆さんもよく知っている唱歌「早春賦」や「花」「さくらさくら」を一緒に歌った。
所長の森さんや職員の方もとても喜んでくれて、行ったかいがあった。私もとても楽しく、勉強になった。森さんからは「お年寄り向けの本も書いてほしい」といわれた。その際にはサポートしてくれるそうだ。ありがたい。ちゃんと考えてみることにしよう。

この音読ワークに興味のある方は、気軽に声をかけていただけたらと思う。
子どもだけでなく、お年寄りにもとても有効であることがわかったし、現代朗読協会でやっているように大人にも大変役に立つエチュードなのだ。

2011年4月25日月曜日

声と身体はつながっている

新刊『音読・群読エチュード』から抜粋して紹介します。

(前略)
 音読をするというと、人は多くが、「文章」や「声」や「言葉」にしか意識が向きません。目で文字を読んで、頭で処理して、口と喉を使って声と言葉にしている、そのような身体の「部分」にしか意識が向いていないことが多いのです。すると、とても薄っぺらな、クォリティの低い表現になってしまいます。
 声を発するという行為は全身を使っています。頭部の筋肉や骨格はもちろん、喉と声帯、呼吸をつかさどる筋肉群、そして姿勢をコントロールする筋肉と骨格。部分ではなく全体を意識できたとき、音読の質は大きく変化します。たとえれば、ロボットの音読と人の朗読の違い。情報処理としての音読と、全身運動としての音読の違いといってもいいでしょう。
 ところが、いま述べたように、分業化が進んだ現代生活では、一見それに必要な「部分」にしかスポットがあてられないことが多いのです。音読の場合、その技術的な側面が重視されます。発音の明瞭さ、アクセントの正しさ、漢字の読み方といった「部分」です。そのせいで、身体全体に注意が向くことは少なく、口まわりのことばかり重視されがちになります。
 まずは言葉を発する行為が全身運動であるということに立ちかえってみたいと思います。

 言葉が身体と接続していることは少しかんがえればわかることだし、また身体と接続していない言葉は空虚です。
「バナナ」という言葉をかんがえたとき、私たちはバナナという果物が持っている手触りやにおい、味、食感などを瞬時にイメージすることができます。それはバナナについての身体経験を私たちが持っており、その身体経験とバナナという言葉がとどこおりなく接続しているからです。
 もしバナナを見たことも食べたこともない人が「バナナ」という言葉を音読したとき、その音声は「バナナ」という物体を指ししめす言語記号ではあるけれど、その人固有の身体経験としての実感をともなった言葉として発せられてはいません。
 声や言葉の質感は、身体の状態と密接につながっており、身体の状態が変化すれば声も変化します。「悲しい」という感情があるから悲しい声が出るのではなく、悲しい感情でもたらされた「悲しみをおぼえているときの身体の状態」が悲しげな声を作るのです。声は身体から出てくるものである以上、身体状況に左右されます。
 言葉を「意味を伝える情報」ではなく「自分を表現する身体表出」としてとらえたとき、言語コミュニケーションが豊かになります。
(第三章より)

『音読・群読エチュード』の詳細と購入はこちら

MacBook Air 11" と MacBook Pro 15" の速度比較

はじめにことわっておくが、ベンチマークのような厳密なテストではない。
私はメインにMacBook Pro の15インチを、出先やサブマシンとしてMacBook Air の11インチを使っているのだが、スイッチオンしてから立ち上がって使用できるようになるまでの時間差が気になってきた。
Proのほうがだいぶ遅いように感じるのだ。
もちろんマシンスペックとしてはProのほうが断然上。

MacBook Pro 15インチ
 Intel Core i7 プロセッサ 2.2GHz
 メモリ 8GB
 内蔵HDD 750GB
MacBook Air 11インチ
 Intel Core 2 Duo プロセッサ 1.4GHz
 メモリ 2GB
 内蔵フラッシュストレージ 120GB

で、計ってみた。
スイッチオンから、画面が立ちあがり、ツールバーにすべてのアイコンが勢揃いして、使用できるようになるまでの時間。

MacBook Pro 15インチ
 52.3秒
MacBook Air 11インチ
 19.9秒

Airが恐ろしく速い。
なんとなくかなり速いと感じていたが、これほどとは思わなかった。
もちろん使用環境によってはこの数字はかなり変わるだろうが、Proがこれほど遅いとは思わなかった。というよりAirが速い。
フラッシュストレージはCPUの遅さを充分以上にカバーしているようだ。
画像や音声処理など、もっと重い処理になるとまた別の話になるのかもしれないが。

2011年4月24日日曜日

木を植えた人、義援金を寄付する

友人の俳優・榊原忠美が継続している朗読イベント「木を植えた人」というのがある。

たしか10年以上前のことだったと思うが、このイベントがスタートするきっかけに私も少し関わったこともあって、ずっと応援している。何回かは演奏で参加したこともある。
断続的に公演をつづけてきて、現在までに300回近い公演を全国各地でおこなっている。規模こそ小さいが、回数や継続性や非営利性を考えれば、マンモスイベントといってもいいのではないだろうか。

非営利なので、収益を「どんぐり基金」としてプールし、ときどき非営利団体に寄付している。
今回、東日本大震災の義援金をどんぐり基金から拠出することになったそうだ。
その記事がこちらに出ていた。

ご一読いただくと同時に、朗読イベント「木を植えた人」のことをまだ知らない人にはこの機会にぜひ知ってもらいたいと思う。

2011年4月23日土曜日

みんなで作る朗読作品の楽しさ

「朗読」というと、ひとりで椅子に座って、静かに本を読みあげる、という形のイメージが強いのではないだろうか。
実際、私も多くのそういった朗読会を見てきた。
現代朗読ではそういう形を取ることもあるが、複数人でひとつの朗読作品を仕上げることが多い。
また、おとなしく椅子に座ってはいない。動きまわることも多い。
音楽とも共演することが多い。
ここで重要なのは、「音楽と共演」するのであって、けっして音楽はBGMではないのである。あくまで共演者であって、対等の立場でふるまう。

朗読は身体表現であり、またコミュニケーションである、というのが現代朗読の基礎をなす考え方だ。
テキストを読む、という行為は、実は全身体を使うものだ。そしてその言葉、声にあらわれるメタテキスト情報、身体性は、そのまま聴き手に膨大な情報量として伝わっていく。リッチ情報を受け取った聴き手のなかでは、なんらかの反応が起こっている。それが微細な情報となって朗読者に帰っていく。
このようにしてコミュニケーションのなかで表現行為が進んでいく。
また、朗読者が複数いて、群読でひとつの作品を表現しているとき、共演者同士のあいだでもコミュニケーションがおこなわれている。
音楽共演者がいる場合は、そちらでもコミュニケーションがおこなわれている。

私たちは自分でも知らなかった潜在能力を使って、同時に複数のコミュニケーションをおこない、膨大な情報量を処理し、自分の感覚を開き、リラックスした状態にありながら完全に表現に集中しているという状態をめざす。
これは言葉で説明するほど難しいことではない。私たちが日常のなかでごく普通にやっていることなのだ。それをたんに朗読表現の場にも持ちこんでみるだけの話だ。

こうやって生まれるパフォーマンスは、私たちの日常生活が次の瞬間どんなことが起こるか予想できないように、予測不能のスリリングなものになる。それを朗読者は楽しみ、聴き手もまたスリリングに楽しむことができる。予定調和とは対極にあるパフォーマンスだ。

もうひとつ大切なこと。
このように準備されていく朗読表現だが、その目的はけっして朗読者の「優越性」を誇示することではない、ということだ。
人のおこなう多くのパフォーマンスが、
「どうだ、すごいでしょう。あなたにはこんなことはできないでしょう」
といった類いの、パフォーマーの優越性を示すものであるのに対して、現代朗読はけっしてそれをおこなわない。
現代朗読では、ただ朗読者の正直なありようを誠実に示し、共感の場を作ることをめざす。朗読者と聴き手はおなじ空間と時間を共有し、ともになにかを感じあう。人と人とのつながりの質を高め、確認する。
そのために私たちは朗読をおこなうのだ。それ以上でもそれ以下でもない。

おすすめ、平日の朗読体験講座

現代朗読協会も気がつけば、NPO法人の認可がおりてからちょうど5年がすぎた。
どこのヒモ付きでもない、まったくのインディペンデントな団体なので、逆に外からは怪しい団体のように思われることが多い。実際に、正会員になってくれた人たちに話を聞くと、入会する前は大丈夫な団体なのだろうかととても迷った、という方が多い。家族からは「怪しいからやめろ」といわれたり。

もちろん、決してそんなことはありません。

私たちはまじめに朗読表現を勉強している団体であり、さらには学校や施設へお邪魔して、朗読パフォーマンスを披露したり、読み聞かせの指導をしたりと、社会貢献にも意欲がある団体である。
先日出たばかりの『音読・群読エチュード』も、現代朗読協会のワークショップで培ってきた多くのエチュードが子どもたちの心身の成長にとても役立つと考えて書いた本だ。
とはいえ、朗読については他の朗読団体とは一線を画する独特のアプローチをしているので、一見わかりにくいことは確かだ。
私たちは朗読を「朗読」という特定ジャンルのものではなく、音楽や美術や文学や舞踊など、他の芸術ジャンルと同等に扱い、そのなかで朗読表現をとらえようとしている。一見独特ではあるけれど、コンテンポラリーアートとしてはまったく特殊な考え方ではないはずだ。

現代朗読はとっつきにくい。

という面があることは確かだろう。
私はそうは思っていないが、多くの人からそういっているのだから間違いない。
なので、

まずは体験講座を受けてみてほしい。

受けてみれば一目瞭然。あ、こういうことか、とすぐに納得してもらえる。
体験講座を受けてもらった人にアンケートを書いてもらうことがあるのだが、そこに書かれる言葉でもっとも多いのが、
「眼からウロコでした」
というものだ。
実際にやってみると、そういう言葉が自然に出てくるらしい。
なので、朗読に興味がある方、現代朗読に関心がある方は、まずは体験講座に来てみてほしい。

次の体験講座は、平日の日中しか来れない方のために、来週火曜日の午後1時からおこないます。
詳細はこちら

2011年4月22日金曜日

MacBook Air 11" のバッテリーをハイパージュースで増強してみる

MacBookやiPhone、iPad、iPodの強力なエクスターナルバッテリー(外部電源)、ハイパージュース(HyperJuice)の一番ちっちゃいタイプを入手した。
重さ360グラム。まあ、持ち歩けないほどではない。
これで電池の保ちが飛躍的に延びるならありがたい。ACアダプターを持ち歩くより楽だ。

仕様によれば、このバッテリーで MacBook Air 11インチなら13時間以上、駆動できるとある。
もともと5、6時間くらいしか保たないから、13時間はありがたい。2、3日の小旅行でもいける。
まあ、いままで5、6時間の保ちでもあまり「足りない」ということはなかったが、震災があったり、なにかと不安な状況のなか、バッテリーのバックアップはしっかりしておきたい。
それに、ハイパージュースは MacBook だけでなく、iOSデバイスにも使える。私の場合、iPhone 4 だが。
最小ハイパージュースでも、iPhone 4 なら11回、フル充分できるとある。
iPadなら(持ってないけど)2回以上。

ハイパージュースには4種類の大きさ・容量があって、それぞれ60Wh、100Wh、150Wh、222Whとなっている。
当然、大きくなればなるほど重い。それぞれ360g、730g、1090g、2130gとなる。150Wh以上になると、MacBook Air そのものより重い。
スペックをよく見ると、MacBookPro 15インチ以上で使えるのは、150Wh以上のようだ。私は MacBookPro 15インチをメインマシンとして使っているが、さすがにこれほど重いバッテリーを持ち歩く気にはなれない。そもそも持ち歩くマシンは MacBook Air 11" と決めている。

まだしっかりと使いこんでみていないが、これからいろいろな場面を想定して使いこんでみるつもりだ。
こういうものは非常時に使うものなので、ちゃんと試しておかないといざというときに困る。

マスコミ報道の話、つづき

今日の昼、このブログで、
「よく、政界・財界からマスコミ報道に「圧力」がかかることなどがいわれているが、そんなことは(めったに)ない。たいていはマスコミみずからが勝手に「これはまずいんじゃないか」と首をすくめているにすぎない」
と書いたら、知り合いからメールで突っ込みがはいったので、紹介したい。
無断抜粋転載(笑)。

------------
そんなことはありません。少なくともスポンサーがライフラインのテレビは、あります。
電力会社が、なぜ膨大な広告宣伝費を使っているかわかりまよね?電力など、本来は宣伝しなくても売れるものです。競合はほとんど無いに等しいのですから。電力会社のテレビCMが多くなったのは、ゲンパツが始まってからです。つまり、危機管理の一環としてです。その証拠に、ほとんどが『夕方のニュース枠』のスポンサーになっています。
いろんなとこでしょっちゅう事故はありますが、報道は絶対にされない。そういうことの口止め料であることは周知の事実です。新聞はともかく、テレビはオンエアがタイムリーだけに顕著です。

(やばすぎて中略)

日本の新聞がアホなのは、単に本腰を入れて勉強して取材が出来る記者が少なくなったということに尽きると思います。つまり、記者の資質の問題です。スクープが少なくなった、と年配記者は嘆いています。報道哲学を失った、ということでしょうか。いずれにしてもだらしないことには変わらないが。

私は、新聞とテレビを一緒にしてほしくないです。(わかった上で、ちょっと、新聞を擁護してみました=テレビとは違う!)新聞は、まだ、買って読むという行為の中で、読者とつながっているが、テレビは不特定多数を相手にして、視聴率という物差しでしかその波及効果をはかれないという媒体特性に寄ることも起因していると思う。

でも、考えてみたら、これは、マスコミが、という以前に、はじめから正直なデータを公開してこなかった、危機管理体制が十分になされていなかった東電のフォルトによりところが大きいと思う。

マスコミのせいだけにしてはいけないと思う!マスコミに金を払っているのは私たちなんだから、チェック機能を市民がちゃんと持たないとね!
------------

うむむ。持つべきは友だね。
ただし、私もマスコミのせいだけにしているわけではない。私たち自身もしっかりしなきゃいかん、といっているのだ。
また、「マスコミ」と十把一絡げにしてものをいっているが、真摯で立派な人が業界のなかにたくさんいることは私も百も承知なのである。私もそのはしくれに関わっていた人間なのだから。

これを機に、新聞もテレビも、行政も企業も、そして私たち自身も、大きな変化のきっかけをつかむことができればどんなにいいだろうかと思う。犠牲になった方のためにも。
2001年の911後は暗黒の21世紀が来るかと思ったが、2011年の311後は悲劇を契機に賢明な変化の21世紀が来ることを望む。

毎日新聞を筆頭に原発についての新聞の論調が変わりはじめた

衆知のとおり、テレビや新聞などマスコミの原発報道は、偏向し、ゆがめられ、無知で正確さを欠いており、まったく信用するに足りない。
その理由もあちこちで指摘されているが、電力業界から巨額のスポンサードを受け、また財界・政界にたいしてみずから「萎縮」しきった体質を長年培ってきたゆえの「自粛」矯正報道がある。
よく、政界・財界からマスコミ報道に「圧力」がかかることなどがいわれているが、そんなことは(めったに)ない。たいていはマスコミみずからが勝手に「これはまずいんじゃないか」と首をすくめているにすぎない。
NHKは少しはましだろうと思うが、過去の原発の闇を鋭くえぐった社会派のドキュメンタリーなどに比べて、最近はまったくぬるい体質になっているように感じるのは私だけではないだろう。

しかし、マスコミもなんらかの収益をあげて食っている。
大スポンサーであるはずの電力業界がありえない事故を起こし、あたふたと不適切な対応で傷口を広げ、情報を隠蔽しようとしているのを見て、さすがにマスコミも「沈みかけた船」と見なしたのかもしれない。
まず、毎日新聞がいちはやく論調を変えた。社説ではっきりと現行の原発行政批判、脱原発の推進をうたったのだ。
それにつづいたのは、朝日新聞、東京新聞(中日新聞)の各社。
おそらく(読売とサンケイを除く)多くの新聞各社が、この動きに追従するだろう。テレビ局もおなじく。
彼らは信念があって脱原発に舵取りするのではない。そちらの流れのほうが有利そうだからだし、いま原発推進をやっていると食えなくなりそうだからにすぎない。

なにをいいたいかというと、新聞もテレビも、その情報や論調を私たちはすべて疑ってかかったほうがいい、ということだ。
「めんどくせーよ、いちいち」
と思う人もあるかもしれない。
が、私たちはもう一度、生存するための懸命さを、ひとりひとりが獲得しなおしたほうがいいと思う。
まだ狩猟生活を送っていた時代の人間には、だれひとり愚か者はいなかった。なにが食べられて、なにが食べられないか、どうやれば獲物を得ることができるか。ひとりひとりが生存の方法を身につけていたのだ。

2011年4月21日木曜日

ブログ読者からのメール

このブログを読んでくれている方からメールをいただいたので、一部を紹介します。

------------
突然のメール、大変失礼いたします。
今回の震災を機に…こちらみずきさんのブログに立ち寄るようになりました。
みずきさんの落ち着いた見解について…共感できることがたくさんあります。
そして、正直何が起きているのか分からなかった原発のこと、すごく分かりやすく書いていらっしゃっていてとても勉強になりますし、
原発について、原子力について自分でもいろいろと調べたり読んだりするようにもなりました。
(東海村の臨界事故は・・内容を改めて知って、心の底からショックを受けました。)
…そして浜岡原発のこと…考え始めると不安だらけになって眠れなくなります。
先日ネットで浜岡原発停止要望の署名もしました。
今回の大地震で、地殻変動が日本全体で起きているという話も目にしました。
どうか静岡のほうに・・誘発大地震が起きないことを祈るばかりです。

・・そうは言っても、何年後かには確実に起きるのでしょうけど。
と、思うと、今できることを精一杯やって楽しんで生きていたほうがいいな、とも思います。

(中略)

4/19のブログを読んで、メールをせずにはいられなくなってしまいました。
突然のメール、長々と失礼いたしました。

ps.
仙台のご友人・・元気な文章とは裏腹に大変な状況に直面しているのではないかと、とても気にかかっています。
けれど、あのように明るい文章は読んでるこちらの気持ちをほぐして・・次報を楽しみにしてしまっています。
------------

メールをありがとうございます。
仙台の友人にも伝えたので、またなにか情報があればお知らせしたいと思います。

2011年4月20日水曜日

「初夏うふ2011」の打ち合わせ、アレンジのアイディア絞り

今日は午後、伊藤さやかが来て、「初夏うふ2011」の打ち合わせ。5月21日(土)の昼、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉でおこなうライブ。
演奏する曲目を選ぶ。キーワードはもちろん「初夏」。

日本の童謡・唱歌には、春から夏にかけての曲が多い。
「雨降りお月さん」「鯉のぼり」「かたつむり」「カモメの水兵さん」「しゃぼん玉」「富士の山」「黄金虫」などをやることにした。
これが前半で、後半はオリジナル曲を、これもけっこうな曲数になった。
いずれも、ありきたりの演奏ではなく、Oeufs(うふ)ならではのアレンジにアイディアを凝らしたものになるだろう。そのためのアイディア出しにふたりで頭を絞る。
ボサノバ「鯉のぼり」やら、バロック音楽風「かたつむり」など、抱腹絶倒のアイディアがいろいろと出た。
本番が楽しみだ。オリジナル曲を収録したミニアルバムCDをもれなくプレゼントします。
ライブ「初夏うふ2011」の詳細は下記のとおり。皆さんのお越しをお待ちしております。

◎日時 2011年5月21日(土)13:30から/開場12:30
◎場所 下北沢〈Com.Cafe 音倉〉
◎料金 2,500円
ご予約の方にはもれなく新譜CDをプレゼント

※お申し込みはこちらから。

2011年4月19日火曜日

花韮

羽根木の家の庭にいまたくさん咲いている花韮(はなにら)を摘んできて、葉書にスケッチした。
透明水彩。
花韮は摘んだあともかなり強いにおいを放ちつづける。

◆絵を額装して販売しています◆
ご購入はこちらから。

東京電力福島第一原発問題でいまもっとも怖いこと

東京電力から、福島第一原発の事故処理の工程表が出された。
放射線量が確実に減少傾向となっていることが確認できるようになるまでのステップ1に3ヶ月程度。
放射性物質の放出が管理され、放射線量が大幅に減少していることがわかるようになるまでのステップ2に3ヶ月から6ヶ月程度。

工程表に対しては専門家を含むさまざまな人から疑念が呈され、このとおりに行くかどうかは危ぶまれると私も思っているが、ともかく、東電がどのような方向に動こうとしているのかはわかった。

工程には素人目にも不確定要素が多く、うまくいくのかどうかわからない部分が多いし、うまくいかなかった場合、さらに重大な事態を引き起こす可能性もあると思われる。そうならないことを祈るばかりだ。
が、私が考えるもっとも重大な事態がある。それは、ある程度予測され、警告されている大規模な余震と津波、あるいは新たな誘発大地震である。

とくに津波がもっとも怖い。
もう一度津波に襲われたら、現状の福島第一原発はひとたまりもないだろう。
第一原発のみならず、第二原発や女川なども危険だ。
断層の真上に立っている静岡県の浜岡原発を直下型地震が襲ったり、あるいは東海沖地震による大津波が襲ったりすることを考えると、ぞっとする。
現状ではただちに打てる対策はほとんどない。せいぜい、浜岡原発を即時停止し、各燃料を抜き、使用済み核燃料プールの冷却システムが津波でも損なわれないような対策を急いでやることくらいしかない。

私たちはゆっくりと流れる熱いマグマの上にふわふわと乗っかっているプレートの上に住んでいる。そして日本は、そのプレートがぶつかりあい、揺さぶられる場所である。

ハイチの子どもたちの絵の展覧会「ハイチから日本へ」

友人のエクトル・シエラさん(国境なきアーティストたち主宰)から案内が届いたので、紹介します。

------------
「国境なきアーティストたち」「ハイチの会・セスラ」主催
 
「ハイチから日本へ」
ハイチの子どもたちの絵の展覧会
災害から一年経ったハイチの子どもたちは
日本へ大事なメッセージを送りました
 
期間      4月16日(土)〜 4月29日(金)
場所      ベンズ・カフェ(http://benscafe.com)
入料  無料
東京都新宿区高田馬場1-29-21 Tel: 03-3202-2445
カフェ営業時間 (7 days ) 11:30〜21:00
アクセス: 高田馬場駅
地図      http://benscafe.com/access
 
オープニング(4月23日(土)18:00 から)
エクトル・シエラによるポエトリーリーディング
参加したいアーティストもどうぞ!
 
*展示会中に集まった寄付金は全額を「国境なきアーティストたち」による東北での活動のために寄付いたします。
 
「国境なきアーティストたち」www.artwit.org
「ハイチの会・セスラ」http://www.haitinokai-cesla.com/
 
 
 FROM HAITI TO JAPAN
An exhibition of drawings by Haitian children
A year after the disaster,
Haitian little artists have sent us a message
 
From April Saturday 16th to Friday 29th  
At Ben`s Café in Takadanobaba (http://benscafe.com)
Tokyo, Shinjuku-ku Takadanobaba 1-29-21 Tel: 03-3202-2445
Entrance: FREE
Open hours: everyday from 11:30 to 21:00
Acces: Takadanobaba Station
Map: http://benscafe.com/access
 
Official opening: Saturday 23rd at 18:00.
A poetry reading by Hector SIERRA
And other artists willing to join
 
*Proceeds (if any) of this exhibition will be donated to the next mission of ARTISTS WITHOUT BORDERS in the Tohoku region.
 
ARTISTS WITHOUT BORDERS www.artwit.org
Haichi no Kai Cesla: http://www.haitinokai-cesla.com/

2011年4月14日木曜日

小学生のために書いた『音読・群読エチュード』がいろいろ使える

げろきょゼミ生の朱鷺さんが『音読・群読エチュード』を何冊か買ってくれて、そのうちの一冊をデイサービスの所長さんに見せたら、
「これは良いですね これ皆でやってみましょう」
ということになったらしい。
なるほど、デイサービスのような施設でも音読ワークは有効かもしれない。

私も特別養護老人ホームなどを慰問したことがある。音楽や朗読を聴いてもらったり、一緒に歌ってもらったりした。
最近では、やはりゼミ生の日榮さんが、お年寄りや小さな子どもがいるお母さんたちのための活動をずっとやっていて、私も協力している。
子どもも大人もお年寄りも、声を出すことは身体にも心にもとてもいいことがはっきりしている。

『音読・群読エチュード』は小学児童にやってもらうために、教師を対象に書いたエチュード指導の本だが、現代朗読協会の基礎講座やゼミでも教材として使っている。
大人がやっても充分に使える。どころか、おもしろいし、けっこう難しい部分もあって、やりがいがある。
とにかく声と身体を使うので、やっているうちにみんなの顔がイキイキとしてくる。やっている間はずっと笑いがたえない。とにかく楽しいのだ。

学校だけでなく、家庭、地域コミュニティ、職場など、いろいろな場所で使えると思う。
使い方については、私の身体があいているかぎり、ご指導にうかがうつもりだ。どうぞ気軽に声をかけていただきたい。

『音読・群読エチュード』の詳細と購入はこちら

2011年4月13日水曜日

東京電力福島第一原発の現在の問題と今後どうなるのかについて

事故の評価レベルが7にあがったことで、今後どうなるんだろう、とか、なにか破局的なことが起きないのか、などと不安を覚えている人が多いようなので、簡潔にまとめておきたい。
あくまでも「簡潔に」なので、ざっくりしたまとめである。詳細についてはそれぞれ自分でしっかりと調べることが大切だ。

原発の現況。
放射性物質の観測値が落ち着いているので、その意味では状況は落ち着いているといえる。
それでも、放射性物質は出続けている。
周辺地域で観測されている線量は、炉心冷却のために注水されている格納容器の圧力をときおり逃がさなければならないので、そのときに放出される水蒸気やその他気体に混じって一緒に出てくる放射性物質のものだ。
これは現在の状態がつづくなら、いきなり爆発的に増えるようなことはないだろう。しかし、継続的に出つづけているので、蓄積が増大してくると健康被害に結びつきかねない。そのために政府は計画避難区域を設定したりしている。
現在の線量で50キロ圏外(東京は250キロ圏)に避難が必要な深刻な問題が出てくるとは思えない。

現況でもっとも問題なのは建屋地下や施設にたまった高濃度汚染水だろう。
今日、700リットルの水の移動をやっているといっているが、全体で2万リットルともいわれている。これをどこに移すのか。
しかし、これも海へあふれ出さないかぎり、いきなり事態が深刻に急変するということは考えにくい。そしてこの汚染は大気には出にくい。海洋と近隣の土壌汚染が問題だ。

いますぐに事態が劇的に急変するようなことはあるのか。
たとえば大きな余震や再度の津波によって、現在動いている冷却ポンプが動かなくなり、炉心を冷やせなくなる、といった事態が起こった場合、どうなるか。
すでにかなり破損していると思われる燃料棒がさらに破損し、ドロドロになったウラン燃料の塊が圧力容器から漏れてくる、ということはありうる。
また、水素爆発を起こして圧力容器もしくは格納容器が大きく破損する、という事態もありうる。
その場合は相当な量の放射性物質が環境に出てくることになるだろう。この事態はなんとしても避けたい。そのために必死に作業が続けられている。
そういう事態になった場合、30キロ圏内はもちろん、さらに広範囲な避難が必要になってくるだろう。これは事態の推移を注意深く見ているしかない。

この事態はいつ収束するのか。
原発事故を収束させるにはいくつか段階がある。
まずは炉心を安定的に冷却し、放射性物質を閉じこめること。
が、大量の汚染水が作業を阻んでいて、安定冷却が可能になるための本来の冷却系の復旧には、相当の困難と時間がかかると思われる。おそらく数ヶ月単位、ひょっとしたら年単位が必要だろう。つまり、現在のような状況がしばらく続くということだ。

安定的な冷却が成功し、放射性物質の閉じこめが完了したら、次は「廃炉」作業がある。
炉心から核燃料を抜きとり、汚染物質を完全に除去し、原発の施設そのものを解体してさら地にもどす。
これには10年以上かかるといわれている。数十年かかるという試算もある。

私たちはこういう事態の蓋をあけてしまった。ほかの原発のことも考えれば、今後ずっと、このパンドラの箱を抱えたまま生きていくことになる。
簡単に「原発を止める」といっても、廃炉のための難しい工程をこなしていくための多くのお金と技術者が必要だ。おそらく、廃炉技術者の育成も必要になるだろう。そういうこともすべて含めて、脱原発を考える必要がある。

現代朗読協会ではサポート会員を募集しています

2011年も新年度が始まりました。
2010年度中、現代朗読協会では、小中学校での公演・講演をはじめ、
児童養護施設の子どもたちとの交流や、音読療法の研究など、
社会貢献につながる活動にさらに力を入れてきました。
この震災に関しても、帰宅困難者の受け入れを発端に、
ゼミ生の臨床心理士の協力を得てメンタルケアのワークや、
アレクサンダー・テクニーク講師の協力を得て体の緊張をとるワーク、
朗読を用いて心を落ち着けるためのカウンセリングなどを、
無料でおこなっています(継続中)。
※みなさまもぜひご利用ください。開催日時はメールマガジン(現代朗読協会報)、急な場合はTwitterやブログでお知らせしています。

さて、新年度にあたり、例年、年会費のお支払いをお願いするところですが、
今年度からは、正会員からは年会費をいただかないことにしました。
今年度以降、正会員は協会で実際に学び、活動している方(基本的にはゼミ生)といたします。
ゼミ生ではない皆さまには、新たに「サポート会員」となっていただきたく、お願いする次第です。
協会の(特に)社会貢献活動は皆さまのサポートを必要としています。
さまざまな事情で一緒の活動はできないけれど共感してくださる方、
サポート会員になっていただけませんか。
サポート会費は、月1000円/年一括10000円です(今年度)。
会員割引のあるワークショップ等では、これまでどおり会員料金で参加いただけます。
また、ライブ・公演やイベントのお手伝いをお願いしたりするかもしれません。
(その際は無料でライブ・公演をご覧いただけます)
協会の身近な友として、おつきあいいただけたらと願っています。
サポート会員は、そのつながりを目に見えるものにするシステムという位置づけです。
ご返信を心からお待ちしています。
------------

というようなメールが、2010年度以前に正会員だった皆さんに流されました。
そうでなくても、なんらかの形で現代朗読協会と関わりたいとか、サポートしていただけるという方は、どなたも歓迎です。
詳しくはお問いあわせください。

いまここに意識を向けてつかみどころのない不安から離れる

心身の不調はストレスや不安から起こることが多い。

人は「いまここ」の自分の身体や事象から離れて、さまざまに思いめぐらしたり、不必要に思い悩むことをする。
過去に起こったできごとや下向きの感情をいつまでも頭のなかで反芻したり、まだ起こってもいないことを先回りして想像しては心配したり、といったことだ。
そのために不安のスパイラルに陥り、放っておくと不安はどんどん黒い雲となって私たちを覆い、ものごとを不透明にする。

ここから抜けだすには、「いまここ」に意識を向けることがもっとも効果的だ。
マインドフルネス、気づき、プレゼンスなど、いろいろなキーワードがある。またその方法も瞑想、グラウンディング、心理カウンセリング、音楽を使った方法(ソニックメディテーションや音楽療法)など、さまざまにある。
そのなかでも「音読療法」はとくに効果的であり、また一度習得すればひとりでもやれるようになることが特徴だ。心身の不調を感じたときには、いつでも、どこでも、ひとりでセルフケアとしての音読療法をおこなえる。

音読療法では、自分の声を使うが、言葉は自分のものは使わない。そこが特徴だ。
書かれている文字を声を出して読みあげる。いわば、自分の外側にあるものを、いったん自分の中に取りいれ、ふたたび外に向かって出す、という動きだ。
この動きのなかで、自分の声と身体のつながりを意識していく。
また、自分の身体と外側の世界の対比(コントラスト)にも眼を向けていく。
そうすることで、意識が「いまここ」の自分や事象に確実に向かい、不安が減少し、また副交感神経が優位に働くことで、心の落ち着きと身体の調子を取りもどしていける。

震災情報のなかで心身に不安を覚えている方のために「音読カウンセリング」を無料でおこなっています。現代朗読協会「羽根木の家」にお越しください。事前連絡を「info@roudoku.org」まで。
(羽根木の家は写真の杜の向こうにあります)

2011年4月12日火曜日

朗読でコミュニケーション

新刊『音読・群読エチュード』から抜粋して紹介します。

「朗読はコミュニケーションです」
 というと、「え?」という顔をされることがよくあります。
 朗読という行為は、朗読者から聴き手に向かうベクトルで表現されるものだというふうにかんがえられているようです。
 たしかにそのベクトルはあります。が、同時に、聴き手から朗読者に向かうベクトルもたしかにあるのです。
 それは聞こえたり、目に見えたりするものではないかもしれません。しかし、朗読者がなにかを読み、聴き手に伝えるとき、聴き手のなかでもなにかが確実に起こり、そのリアクションは確実に朗読者に向かって返っています。
 朗読者から見れば、それは微細な反応であり、サインです。が、まったく感じとることのできないものではありません。
 すぐれた朗読者は、聴き手とのコミュニケーションのなかで表現を進めていきます。そのとき、聴き手も表現行為の当事者であり、退屈をおぼえたり眠っている暇はありません。
 この朗読/音読という表現行為が、人のコミュニケーション能力をいちじるしく向上させることに気づいたのは、そう古くはありません。
(中略)
 朗読/音読の場合、使われるのは自分の言葉ではなく、人が書いた文章です。人が書いた文章を声に出して読むとき、その文章の内容と同時に、読み手の気持ちも伝わります。
 読み手が聴き手に「好き」という純粋な気持ちをもってなにかを読むとき、聴き手にはそれが飾りなく、いつわりなく伝わります。
「この人はわたしに好意をもって読んでくれているんだ」
 ということが伝わるのです。そこには作為はほとんど介入しません。もちろん読み手にわざとらしさがなく、ただ純粋に相手に聴いてもらおうという気持ちを持っていれば、ですが。
 また聴き手も相手の読むのをただひたすら先入観なく聴くとき、気持ちが自分に伝わってくるのを感じるでしょう。
「聴く」という行為は朗読/音読にかぎらず、忍耐を必要とします。日常会話ではついつい相手の話を途中でさえぎったり、反論したり、忠告したり、命令したりしてしまいます。それでは良質のコミュニケーションは生まれません。まず「聴く」能力をやしなうこと。これがコミュニケーション能力の向上の第一歩です。
 きちんと最後まで聴くことの練習に、朗読/音読は最適です。このときの「聴く」のなかには、言葉や文章の「意味」を聴くことのほかに、相手がそれをどのように読んでいるのか(メタテキスト情報)を聴くこともふくまれています。
 聴くことができるようになると、今度は読み手の側から聴き手のこともイメージできるようになります。つまり、聴き手のリアクションを感じながら読みすすめる/表現していくこともできるようになります。
 このようなコミュニケーションの練習に朗読/音読は最適なのです。
(第二章より)

『音読・群読エチュード』の詳細と購入はこちら

不安なときはいっしょに歌いましょう

音楽ユニットOeufs(うふ)は日本のなつかしい歌をあたらしい音でお送りしています。
みんなで歌える歌、子どもといっしょに歌える歌が、日本にはたくさんあります。歌曲の宝庫です。
不安なとき、悲しいとき、調子が悪いとき、そういうときは声を合わせて歌を歌うといいですよ。もちろんひとりでもかまいません。

Oeufs(うふ)ではそんな歌をYouTube映像でたくさん公開しています。
「あ、こんな歌もあったね」
参考にして、日本の歌を思いだしてみてください。
Oeufs(うふ)の特徴でもあるゆるいトークも混じってますので、トーク部分は飛ばしてもらってかまいません。もちろん聞いていただいてもかまいませんが。
歌、伊藤さやか。アレンジ・演奏、水城ゆう。

どこかで春が
桜の歌のメドレー
おぼろ月夜
春の小川
春よ来い
蛍の光
うさぎ
青い眼の人形
兎のダンス
あんたがたどこさ
雨降りお月
七つの子
アルプス一万尺
かごめかごめ
しゃぼん玉
鯉のぼり
見渡せば(むすんでひらいて)
仰げば尊し
早春賦
黄金虫

次回のOeufs(うふ)のライブは「初夏うふ2011」となります。
ライブの詳細は下記のとおり。皆さんのお越しをお待ちしております。

◎日時 2011年5月21日(土)13:30から/開場12:30
◎場所 下北沢〈Com.Cafe 音倉〉
◎料金 2,500円
    ご予約の方にはもれなく新譜CDをプレゼント

※お申し込みはこちらから。

2011年4月11日月曜日

Oeufs(うふ)のライブ「初夏うふ2011」のお知らせ【改】

Oeufs(うふ)ブログに掲載しました。

声を出して読むことの楽しさを知る

新刊『音読・群読エチュード』から抜粋して紹介します。

 本を読むにしてもなんにしても、「なにかを読む」というと、現代人(現代っこ)はとかく「文字情報を視覚的に処理して理解する」という行動にかたよる癖があります。また教育の現場でもそれが子どもたちに求められている面もあります。「効率」や、高い理解度による「適切な解」を出すことが優先される社会構造が背景にあるためです。
 明治中期以前、文字は「声を出して読むもの」でした。寺子屋では論語を朗唱しましたし、家庭ではお父さんが声をあげて新聞を読んでいました。もちろん寝物語などで祖父母やお母さんから昔話や童話を語ったり読んだりもしていました。これはいまでもありますが。
 声を出して文字を読むことが一種の「身体運動」であることは、序章に書きました。この運動と本の内容を理解するという情報処理が結びついたとき、子どもは体験としての読書を深めます。
 明治中期以降、西洋化と近代化を急いだ日本は、大量の情報を取りいれる必要性から、読書はもっぱら黙読が普通になりました。当然、黙読のほうが速く本を読めるからです。しかも読むのは通りいっぺんのみ。これは「情報処理」が主目的であって、「読書体験」としては薄っぺらいものだといわざるをえません。
 私たちはいま一度、「読む」という行為は「発語」が第一であり、声と言葉は身体から発せられるものであることを見つけなおしたいのです。「読む」という行為も、黙読のほかに、「身体を使って声を発する」という、私たちの存在そのものである身体と密接に結びついた行為であることを、あらためて声を出すことによって確認します。
(中略)
 そもそも、ある文章の「意味がわかる」とはどういうことでしょう。個々のことばの意味情報がわかれば「わかる」とかんがえがちですが、文学作品の「意味」とはそのような一義的なものではありません。平易なことばが使われていても、その本当の意味をつかまえることが難しい作品はいくらでもありますし、その逆のこともいえます。表面的な「意味」ではなく、その作品のことばや文章の感触そのものを味わうには、音読ほど適した方法はありません。だから、ここでは、文章の難度を年齢にあてはめようとはしていません。むずかしい作品や古典作品も子どもたちは平気で読み、楽しんでくれるでしょう。
 エチュードをくりかえすことによって、声を出すことの喜びや、言葉そのものの味わいと感触があらわれてきます。またそのことを「頭」もまた喜んで迎えいれはじめるはずです。
(第一章より)

『音読・群読エチュード』の詳細と購入はこちら

2011年4月9日土曜日

東京電力福島第一原発の現況と今後(4月9日現在)

私にもちょっとわからないのだが、原発内部の放射線モニターが突然とんでもない値を示したかと思うと、数値が出てこなくなり、故障とか、ねつ造しているのではないかとかいう情報が流れたりしている。
周辺のモニターレベルには大きな変化はないので、故障で止まっているのではないかと思うが、原因が地震だとすると脆弱すぎる。
ともあれ、注視が必要。

さて、原発の現況については、内部関係者情報と一次情報、それとそれを元にした原子力工学と原子物理学者による分析などを、注意深く拾っている。
現況。
福島第一原発の1号機と2号機(とくに2号機)の圧力容器になんらかの損傷があって、溶融した燃料が漏れ出していることはほぼまちがいない。
ときおり再臨界が起こっている可能性は否定できない。専門家のなかには再臨界を否定している人もいるが、出ている放射性物質の種類から再臨界が起こっているとしか説明できない、と主張している人もいる。
いずれにしても、高濃度の放射性物質が一次冷却水とともに格納容器外にまで漏れだしていることは確かで、再臨界がある/なしは重要ではない。再臨界=核爆発という幼稚な知識が出回っているが、それはありえない。現況での再臨界というのは、いってみれば熾き火がブスブスとくすぶっている状態だ。

原発から出てくる放射性物質は、現在、3系統ある。
ひとつは、冷却水を注水する際に、圧力容器および格納容器の内部圧力を逃がすためにベントによって大気中に放出されている水蒸気に含まれているもの。
これは(語弊をおそれずにいえば)大きな線量ではないが、いま問題になっている野菜や土地や大気の線量はこれが由来だ。
ふたつめは、高濃度に汚染された一次冷却水の漏れによるもの。
これは海に流れこんだことが重大視されているが、まったくそのとおりで、話にならないほど高濃度の汚染水だ。流出は止まったとされているが、いまも大量に建屋地下にたまっている以上、どこかに移したとしてもすぐになくなるわけではなく、将来にわたっての土壌汚染などが問題になるだろう。
みっつめは意図的に放出した低濃度の汚染水。かなり問題になっているが、高濃度汚染水に比べれば微々たる汚染度だ。全部放出したとしても、高濃度汚染水の17リットル分くらいにしかならないといわれている。

現在、東芝本社内に「廃炉」工程の作業チームができていて、アメリカの専門家チームと共同作業が進められているようだ。これは日本のマスコミでは報道されていない。
石棺方式ではなく、水棺方式が検討されているという話もある。格納容器内をすべて水で満たして、何年かにわたって崩壊熱を除去していく、その後で核燃料を取りだす、というものだ。
いずれにしても、完全な収束までには10年単位の時間が必要だろう。
その間、放射性物質がいくらか出てくる可能性は消えないと思う。もっとも、汚染水以外の経路で今後大量に、爆発的に「大気中」に出てくる可能性は少ない。とはいえ、少しずつでも出ているので、半減期の長い放射性物質が蓄積されていけば、作物、漁獲物、土壌、水、そして人などに与える影響はけっして楽観視できないものだといえる。

2011年4月6日水曜日

新たなる祈りのトポス

ピアニストのウォン・ウィンツァンさんの事務所SATOWAが主催するチャリティーコンサート「新たなる祈りのトポス」に、鈴木重子さんがゲストで歌うというので、三鷹市芸術文化センターまで行ってきた。
ここの「風のホール」はとてもいい感じの中くらいのコンサートホールで、音楽や、少し規模は大きいが朗読にも合う感じ。

ウォン・ウィンツァンさんは震災後のこの3週間、ずっと毎日、Ustreamで自分のスタジオからライブ演奏を配信しつづけてこられた。これも一種の祈りの形なのだろうと思う。
私はこの一か月近く、羽根木の家でボランティアイベントを開催したり、いつものようにゼミやワークショップを開いたり、原発事故の情報を解説しながらブログで流したりしていたが、あらためて考えてみると「祈り」のための時間は多くなかった。
もっとも、「春うふ2011」でご来場の皆さんと一緒に祈ったのは、私のとってとても大切な時間であった。
祈りのための時間を、個人的にも少しずつ作っていきたいと、今日のコンサートを聴いて思った。

コンサートはウォンさんのソロピアノから始まった。10曲近くあったろうか。いずれもリリカルで、深い響きの演奏だった。
トークも震災のことに触れながら、重くならず、楽しかった。
振り返って、私の演奏とトークはどうだろう。ずっと地に足がついてない演奏やトークが多かったように思う。
音楽を演奏することも一種の祈りの形だ。これからは私なりに彼方の風景に向かって演奏(祈り)を心がけていこうと思う。貴重な時間を大切に使っていこう。

後半は鈴木重子さんの歌がメイン。
重子さんの最初の歌は「春よ来い」。最初のワンフレーズで鳥肌が立つ。重子さんの存在が歌声に物質化していると感じるほどの存在感。ビリビリと響く。この歌を聴けただけでも、今日行ったかいがあったと思えるほどだ。
このあと、「マイ・フェバレット・シングス」「イマジン」「フラジャイル」など、おなじみの曲を聴かせてもらった。
いいとかよくないとかいう評価を超えた、とても深くて心に残るコンサートだった。
ひょっとして、こうやって3.11以後の日本は変わっていくのかもしれないと、いまふと喜びを持って思ったところだ。

コンサートは思ったより長くなり、終わったのは9時半。
9時前くらいには終わるだろうと思っていたので、この後中野の〈スイートレイン〉まで板倉克行さんのライブを聴きに行くつもりだったが、明日一日げろきょデーなので夜更かしを断念して、帰宅。

明日は10時半、14時、19時のそれぞれ、現代朗読ゼミ。21時からはUstreamでのネット生ライブ中継をおこなう予定。
いずれも見学歓迎。おいでになる方は現代朗読協会にご一報ください。
⇒ http://www.roudoku.org

オーディオブックのススメ/読み手を募集・育成

欧米ではかなり普及していて、それなりのマーケットも形成しているオーディオブック(朗読本)だが、日本ではほとんど普及していない。
欧米では識字率が低いため、ある程度の部数が出る本は最初から活字本といっしょにオーディオブックも作ってしまう。そのためにオーディオブックはたくさんある。
日本ではオーディオブックは活字本とは別の予算でわざわざあらためて作らなければならないため、制作費がかさみ、普及が進まないという事情がある。
すぐにオーディオコンテンツとして出せるのは、語学関係、ラジオ番組の一部として作られた芸能コンテンツ、講演録、そして読みのクオリティはあまり問題にされないために安直に作ることができるビジネス書などのたぐい。
高いクオリティが要求される文学作品や文芸書のオーディオブックは、なかなか増えてこない。

そういう状況にあって、文芸作品のオーディオブック制作に特化しているのが、アイ文庫だ。
当然、ずっと苦労しつづけている。経済的にも、読み手の育成にも。
が、あきらめているわけではない。とくに文芸作品を読める表現力のある、クオリティの高い読み手を育てることをずっと続けている。

震災以後、活字やテレビニュースがつらいという人が増えている。
そういう人は気分を変えて音楽を聴くといいだろう。
そして音楽とおなじくらい、場合によっては音楽以上に心が落ちつくのが、オーディォブックだ。
すぐれた文学作品に接すること、そして飾らない読み手の声に包まれること。これはとても癒しになる。新美南吉や宮沢賢治の作品などは、子どもばかりでなく大人にもおすすめしたい。
また、私はアイ文庫作品にオリジナル曲をつけている。朗読と音楽が融合した音声作品を、自信をもっておすすめしたい。

この震災にあたって、急いで用意したオーディオブックもある。

「災害時のメンタルケア」を音声化したもの
私のサウンドスケッチ作品「気分がよくなる方法」

これらを聴いて「とても落ち着いた」という感想が寄せられている。無料なので一度聴いてみてほしい。

こういった活動をいっしょにおこなってくれる人を、アイ文庫では引きつづき求めている。
公共性の高い無料コンテンツ、クオリティの高い有料文芸作品、音楽と朗読とのコラボ作品。こういったものを読めるオーディォブックリーダーを育成している。
たんなる音訳やアナウンスではなく、自分の声で「作品」を残したいと思っている人は、参加してほしい。

アイ文庫の次世代オーディオブックリーダー養成講座第9期の詳細はこちら

春うふ2011より「桜メドレー」

2011年3月21日に大塚〈音楽堂anoano〉にておこなわれた音楽ユニットOeufs(うふ)のライブ「春うふ2011」より、何曲か抜粋してお送りします。
桜を歌ったおなじみの歌を何曲か、メドレーで演奏しました。曲目は「霞か雲か」「見渡せば(むすんでひらいて)」「さくら」「花」の4曲です。

うた:伊藤さやか
朗読:野々宮卯妙
編曲/ピアノ:水城ゆう

次回のOeufs(うふ)のライブは「初夏うふ2011」となります。
ライブの詳細は下記のとおり。皆さんのお越しをお待ちしております。

◎日時 2011年5月21日(土)13:30から/開場12:30
◎場所 下北沢〈Com.Cafe 音倉〉
◎料金 2,500円
    ご予約の方にはもれなく新譜CDをプレゼント

※お申し込みはこちらから。

2011年4月5日火曜日

東京電力福島第一原発の現況とこれから

しばらく原発について書いていなかったが、ひさしぶりに書く。
というのも、一週間くらい前に「収束方向が見えてきたか?」という覚え書きを掲載したのだが、収束するどころか、事態は迷走をつづけているからだ。重大な事態のニュースも、毎日見ていると、いつしか麻痺してしまい、スルーするようになってくる。
事態はなにも好転していないという事実を踏まえて、注視をつづけていく必要がある。

ここ一両日は高濃度汚染水が海に流れこんでいること、低レベルの汚染水を海に放水すること、などが目立ったニュースとなっている。また、海洋汚染、漁獲類の汚染が注目されている。
が、まずはやはり原発施設がどうなっているのか、という基本的なことを把握しておきたい。

東京電力福島第一原発には全6機の原子炉がある。
このうち、4号機、5号機、6号機は地震・津波発生時には定期点検中で、炉心に核燃料は入っていなかった。が、冷却系統がすべて津波で失われたため、冷やしつづけなければならない使用済み燃料プールも冷却水が送れなくなり、加熱が起こった。
このうち、5号機と6号機は外部電源が接続され、プールの冷却もおこなわれ、「冷温停止」つまり安全な状態となっている。
4号機は、一時、使用済み燃料プールの温度があがり、水位がさがったために燃料棒が露出し、そのために発生した水素によって建屋が大きく破損した。しかし、そのおかげで破損した建屋の隙間からコンクリートポンプ車によってプールへの注水がおこなわれ、これも現状では安定している。

1号機から3号機は地震・津波発生時に運転していたが、自動停止。しかし、津波によって冷却系統がすべて失われるという重大な危機におちいった。
炉心の温度があがり、水位が減少して燃料棒が露出。これら3機の燃料棒はすべて破損したと考えられる。そして1号機と3号機は水素爆発によって建屋が大きく損壊した。
2号機は建屋は大きくは破損していないが、高濃度の放射性物質が流出していることから、燃料棒の破損程度がもっとも重大だと考えられる。

原子炉の中心部にある圧力容器は、これが破損すれば溶融したウラン燃料がそのまま流出するが、圧力がある程度安定に保たれていることを見れば、重大な破損は起こっていないと考えられる。が、高濃度の放射性物質が出ていることから、とくに2号機は圧力容器の下部の構造物が破損し、漏れだしているものと思われる。
いずれも燃料棒は約半分が露出した状態でいちおう安定を保っている。
その外側にあって放射性物質の大気中への拡散を守っている格納容器だが、1号機から2号機まで破損の疑いが持たれている。これはかなり重大な事実だ。

いずれにしても、炉心の冷却は継続しなければならず、そのためには注水を続ける必要がある。
が、圧力容器および格納容器の破損部分から水が漏れだしており、それが原子炉建屋とタービン建屋、および外部施設にまで流れている。これをなんとかしなければ冷却系の復旧作業に手をつけられない状況がつづいている。

現在は汚染水をどうやって排水するかという問題が前面にある。
地下の汚染水を復水器に汲み上げようとしているが、そのためにはまず復水器の水をどこかにやらなければならない。復水器の水を外部タンクに移そうとしているが、そのタンクの水を先にどこかに移さなければならない。
タンカーなど大容量の設備を利用することも考えられている。が、その設備にしても、高濃度に汚染された水をいずれは処分しなければならないわけだ。処分方法も問題になるだろう。

第一原発からは大気中に比較的低濃度の放射性物質が、海水中へ高濃度の放射性物質が、いまも出続けている。
これらをどうやって止め、閉じ込めるのか。各国から専門家の支援が入っているようだが、まだ出口は見えていない。
被曝放射線量は「累積」で考えなければならない。一刻も早い効果的な対策をしてほしい。

朗読という読書体験/現代朗読を体験する

現代朗読では、朗読という表現行為は身体表現である、ということをいつもいっている。
たいていの人はそれで「ああそうね。言葉とか声を使うしね」と同意してくれるのだが、実際に私たちが提唱している「身体表現」にはもっと深い意味がある。
自分の身体の「presense」に意識を向けること、身体の「構え」に意識を持つこと、身体の状態が変わることで伝わるものが変わることを知ること、身体の状態でコミュニケーションの質そのものが変化すること。こういったことをエチュードを通して学んでいく。
だから「現代朗読体験講座」というものを用意して、まずは体験してみてほしい、と呼びかけているのだ。

新刊書『音読・群読エチュード』にこのようなことを書いた。これは子どものことを考えながら書いたものだが、大人でも変わりはない。

------------
 声を出す。ことばを発して本を読む。これはふたつのことを同時に体験します。
 ひとつめは「読書」という体験。文字を読み、理解し、そのことを想像して思いをはせることは、一種の体験です。そのとき身体が動いていなくても、本のなかの登場人物の動きにあわせて読み手も運動神経が刺激されています。疑似体験ともいいますが、本に書かれていることをリアルに想像することは、読書体験ともいうべき一種の「運動」です。
 もうひとつは、実際に声を出して読みあげる、という、まさに「運動」そのものです。
 言葉を発するとき、人はじつにさまざまな運動能力を使います。筋肉と骨格をコントロールして「発語」します。筋肉に命令をあたえるのは運動神経です。筋肉と骨格が正しく運動しているかどうかを確認するのは感覚神経です。視覚も聴覚も使います。
 発声には呼吸がともないます。呼気によって声帯を震動させ、声を出します。呼吸のコントロールも筋肉と骨格に関係があります。また、姿勢の保持、変化も必要です。つまり、声を出して本を読むという行為は、運動そのものなのです。
 これが読書体験とむすびついたとき、子どもにはとても大切な「リアルな体験」となって身体とこころをはぐくむ大きな力となります。
------------
『音読・群読エチュード』の詳細と購入はこちら

大人相手の場合、この後さらに、身体の構えや無意識に作ってしまっている「準備」などについて分析・自覚してもらうことになる。

次回の現代朗読体験講座は今週末4月9日(土)の午後に開催されます。詳細はこちら

2011年4月4日月曜日

春うふ2011より「おぼろ月夜」

2011年3月21日に大塚〈音楽堂anoano〉にておこなわれた音楽ユニットOeufs(うふ)のライブ「春うふ2011」より、何曲か抜粋してお送りします。
おなじみの唱歌「おぼろ月夜」を、すこし変わったコード進行にアレンジして演奏しています。

うた:伊藤さやか
朗読:野々宮卯妙
編曲/ピアノ:水城ゆう

次回のOeufs(うふ)のライブは「初夏うふ2011」となります。
ライブの詳細は下記のとおり。皆さんのお越しをお待ちしております。

◎日時 2011年5月21日(土)13:30から/開場12:30
◎場所 下北沢〈Com.Cafe 音倉〉
◎料金 2,500円
    ご予約の方にはもれなく新譜CDをプレゼント

※お申し込みはこちらから。

小中学校の先生がたへ、いま大切な児童のメンタルケア

学校ではそろそろ新学期が始まる。もう始まっているところもあるかもしれない。
春休みのあいだ、子どもたちは家にいることが多かったと思う。
少し前に「お子さんの様子が変だと感じたときにチェックすること」で書いたように、子どもは親の心理状態に大きく影響を受ける。

新学期が始まって友だちとまた遊べることを喜ぶだろうが、一方で不安な気持ちをひそかに抱えている子も多いのではないかと思う。学校では明るくふるまっていても、家ではふさぎこむ時間が多かったりする。
そういう子に気づいてあげるのはなかなか難しいことだ。

現代朗読協会では震災直後から音読カウンセリングなど大人向けのメンタルケアをおこなっているが、この方法はもともと子ども向けに考えられたものだ。
私の新刊『音読・群読エチュード』には子どもたちのメンタルケアに役立つ多くのエチュードが掲載されている。
現代朗読協会はこの本を携えて積極的に学校に出向こうと思っている。
直接子どもたち相手にエチュードを実践してもいいし、エチュードの具体的な実践方法をより詳細に先生がたにお伝えするのでもいい。保護者の方たちにも伝えたい。
ゆくゆくは被災地にも入りたいと思っている。

学校の先生がた、保護者の方、そして現代朗読協会の活動を手伝ってみたいという方、どうぞ遠慮なく私か現代朗読協会にご連絡ください。

新刊『音読・群読エチュード』の詳細と購入はこちら

2011年4月2日土曜日

春うふ2011より「鳥の歌」

2011年3月21日に大塚〈音楽堂anoano〉にておこなわれた音楽ユニットOeufs(うふ)のライブ「春うふ2011」より、何曲か抜粋してお送りします。
これはオリジナル曲「鳥の歌」。

うた:伊藤さやか
朗読:野々宮卯妙
作/編曲/ピアノ:水城ゆう

次回のOeufs(うふ)のライブは「初夏うふ2011」となります。
ライブの詳細は下記のとおり。皆さんのお越しをお待ちしております。

◎日時 2011年5月21日(土)13:30から/開場12:30
◎場所 下北沢〈Com.Cafe 音倉〉
◎料金 2,500円
    ご予約の方にはもれなく新譜CDをプレゼント

※お申し込みはこちらから。

2011年4月1日金曜日

ブログもメールも含めて文章を書くことで自分を伝えることについて

たまには震災とか原発事故とは関係のない話を。

学校の宿題とかレポートとかいうものではなく、私が意識して自発的にまとまった文章を書きはじめたのは、たぶん高校生くらいのことだったと思う。
いまの高校生とは違って、ノートや原稿用紙に手で書きつけるしかなく、またいまの高校生とは違ってそれを世間に広く発表する手段もなかった。
自分が書いたものを公的な場に発表するには、作文コンクールで入選するとか、文集に掲載されるとか、新聞や雑誌に投稿して採用されるとか、あるいは文学賞のようなものに入選するといった、敷居の高い方法しかなかった。
なので、高校、大学と進むうち、私のなかで「職業作家」になりたいという欲求が強まっていった。職業作家になれば好きなだけ文章を発表できると想像していたからだ。

いまの人たちは違う。いろいろな手段で自分の文章を公的に発表することができる。
たまに「文章を書くことで食えるようになるといい」という人がいるが、そういう人にはきちんと問いなおしたい。
「文章を書くことで自分を表現したいのか、文章を書くことで生活費を稼ぎたいのか」
これらは似てまったく非なるものである。それは私が痛いほど、多大なる犠牲を払って学び、実感している。

私は20代終わりに念願の職業作家になり、それで生活するようになったが、その生活は悲惨なものだった。なぜなら、私は「文章を書くことでお金を稼ぎたい」のではなく、「文章を書くことで自分を表現したい」あるいは「文章を書くことで自分のことを人に伝えたい」のだったからだ。

そうこうするうち、パソコン通信、つづいてインターネットが普及し、だれもが自分の書いたものを世間に向かって広く発表できるようになった。もはや出版社に認められる必要もなければ、本に印刷して出版してもらう必要もない。自由に発表したいときに好きなように発表すればいいのだ。読んでくれる人がいるかどうかは別の話だ。それは職業作家であっても別の話だ。
当然ながら、私は苦痛の多い「職業作家」を脱ぎすて、ネットで自由に文章を発表するようになった。食うことはできなくなったが、そのかわりストレスもゼロである。
毎日、思ったことを、思ったように発表している。

私のこのブログ記事は、毎日1000人以上の人が読んでくれている。
これはよく考えたらものすごいことで、1000人入る大ホールを毎日満席にして、そこで私の話を聞いてもらっているようなものだ。こんなにうれしいことはない。

ところで、明後日から「テキスト表現ゼミ」というものをスタートさせる。
経緯と内容詳細はこちら

私はかつて、あさはかにも、文章を書く行為は頭脳労働だと思いこんでいた。
音楽や朗読と関わるようになって、その考えは間違っていたことに気づいた。
ついでにいえば、文章書きを「肉体労働だ」といって身体を鍛える作家がいる。
そうではない。本当は文章を書くことも「身体表現」なのだ、ということについて、最近はずっと考えつづけている。
文章(テキスト)には書き手の身体性が乗る。あるいは身体性が乗っていない文章は、作り物であっても表現ではない。いま「読める」文章が少ないのは、みずからの身体性についての意識が希薄な書き手が多いからだ。
明後日からスタートするテキスト表現ゼミでは、そんなことをいっしょに深く考察しながら、実験・実践していきたい。特別な技術を持たなくても、すべての人がユニークでオリジナリティのある表現者になれる、というのが私の強固な持論である。

お子さんの様子が変だと感じたときにチェックすること

この余震つづきのなかで、自分のお子さんの様子が変だと感じているお母さんが多いようだ。
夜中に急に泣きだしたり、地震が来るとおびえたり、少しの揺れで身体がかたまってしまったり、やたらとお母さんに甘えてベタベタしたり。
その原因が地震にあると思っている人が多いようだが、実は多くが揺れそのものが子どもの不安をかきたてているのではない。
子どもの不安はどこから来るかといえば、お母さんやお父さん、家族から伝染することがほとんどだ。

お母さんが不必要におびえていたり、震災関係のテレビにかじりついていたり、不安情報ばかりを家族や知り合いと交換していたり(メールも含む)、そういう場合、大人の「不安な気持ちや身体の様子」がそっくりそのまま子どもに伝染する。
子どもは自分の世界がまだ未分化なので、大人、とくにお母さんの様子を写しとることで自分の生きる道を確保する。たとえば、お母さんが見ているものを見る、お母さんがおいしいというものをおいしいと感じる、お母さんが行くところへついてくる、これらは本能的行動で、自然なものだ。
お母さんが不安を感じていれば、子どもも不安を感じる。

こういう状況のなかでお母さんが不安な気持ちは充分にわかるが、まずは子どもを守ることが親のつとめだろう。子どものためにも、不必要な不安はできるだけ払拭し、必要以上の情報に触れず、健康でほがらかに子どもと接してやることが重要だ。
そういう状態を保つための方法が書かれている文章があるので、読んでみてほしい。

「心のトラウマ予防ガイド:災害直後にできること」

たまには子どもといっしょに散歩に出たり、絵本を読んだり、歌をうたったりするのもいいだろう。
私と歌手の伊藤さやかによる音楽ユニットOeufs(うふ)が、子どもといっしょに歌える童謡や唱歌をYouTubeで発表しているので(うふTubeほか)、参考にしてほしい。

いま、大人は全員が明るく自分の生活を守り、健康で災害支援にあたりたい。
そして子どもたちに希望の持てる未来を作ってやりたい。

春うふ2011より「いつも」

2011年3月21日に大塚〈音楽堂anoano〉にておこなわれた音楽ユニットOeufs(うふ)のライブ「春うふ2011」より、何曲か抜粋してお送りします。
これはオリジナル最新曲「いつも」。

うた:伊藤さやか
朗読:野々宮卯妙
作/編曲/ピアノ:水城ゆう

次回のOeufs(うふ)のライブは「初夏うふ2011」となります。
ライブの詳細は下記のとおり。皆さんのお越しをお待ちしております。

◎日時 2011年5月21日(土)13:30から/開場12:30
◎場所 下北沢〈Com.Cafe 音倉〉
◎料金 2,500円
    ご予約の方にはもれなく新譜CDをプレゼント

※お申し込みはこちらから。

ティク・ナット・ハン師、来日中止

この4月末から5月にかけて来日が予定されていたベトナム出身の禅僧であり、平和活動家のティク・ナット・ハン師が、来られないことになった。
残念である。
以下、来日支援グループのメーリングリストに回ってきた情報を紹介しておく。

------------
ティクナットハン師ご自身は、放射能の問題、計画停電等のインフラの問題を全く意に反さず、苦境にある日本の我々に対し、来日計画を変えずに、あくまでもご自身が培ってこられた「気づきの練修」を伝えることで、私達を直接励まし、少しでもサポートしたい旨を強くお申し出下さっておりました。このお気持ちには、事務局員一同、心より感謝申し上げている次第です。
まず、皆様には昨日のお知らせ内容に、このことを申し添えたいと存じます。

中止に関しての決定は、あくまで我々事務局サイドの事情によるものです。
我々ツアー事務局は、複数名による担当パート分けをベースとしたグループで、来日ツアーを企画・運営してまいりました。
震災後、グループとして物理的・メンタル的なダメージを負い、参加者の皆様および、講演者ご一行に対するあらゆるケースを想定した安全性の確保、的確なツアー運営に支障をきたす状況が生じ、プラムビレッジ側と再三の協議の結果、当方からの申し出により、やむなく中止と相成った次第です。

今回の中止決定にあたり、ご迷惑をおかけした皆様には心よりお詫び致します。
それと共に、やむなく中止とせざるを得なかった、震災後の諸事情をお汲み取り下さり、この決定にご理解を賜りたく、お願い申し上げます。
------------

ティク・ナット・ハン師は著作も多く、私もその多くを愛読している。
現代朗読協会の朗読ゼミや朗読講座、ワークショップなどのはじめに必ずおこなっている「気づき報告」は、ティク・ナット・ハン師の著書からヒントを得て始めたものだ。
また、朗読表現における「マインドフルネス」の重要性などについても、師から学ぶところが多かった。
今回の来日中止は残念だが、だからといって師から学べなくなったわけではない。