2016年2月29日月曜日

早春散歩

木曜日。
夜中に雪が降ったらしく、朝めざめてみると、羽根木の家の庭はうっすらと雪化粧になっていた。
冷えこんでいる。

午前中は現代朗読の朝ゼミ。
見学者はなく、ゼミ生だけで開催。
最初は話したいこと、聞いてもらいたいことがある人が自由に話す時間。
この日はいまの仕事をやめようかどうしようか迷っているひとりの話を、みんなで共感的に聞く。

朗読なのにこんな時間を持つなんて、と思う人もいるかもしれないが、朗読をふくむ表現行為は生活や人生に深く関わり、直結したものだと私はかんがえている。
生活を通して朗読(表現)をかんがえ、表現をとおして生活のクオリティ(Quolity of Life)を変えていくのは、ごく自然なことであろう、という立場をとっている。
近く「朗読生活のススメ」という、ちょうど10年間やってきた現代朗読の集大成のような講座をスタートさせる予定がある。

朝ゼミ後は、いつものようにみんなで東松原の〈小春食堂〉に行って、ランチ。
私はカラスカレイの西京焼き定食をいただく。
いつもながら、これも大変おいしうございました(みーちゃん、ありがとう)。

みんなと別れ、梅丘内科に花粉症の薬をもらうために、歩いて向かう。
途中の羽根木公園では梅祭りが真っ最中で、いろいろな梅の花といい香りを満喫した。
梅丘側の公園の入り口のところで蜂蜜を売っている男性がいたので、聞いてみたら、湯河原で養蜂をしているとのこと。
百花蜜ではあるけれど、おもにカラスザンショウという大きな木の花の蜜が多いとのこと。
ひと瓶買ってみた。
まだ味見していない。

梅丘内科でアレグラを一か月分処方してもらい、駅前のカルディに寄る。
バターと黒胡椒を買っていると、ひさしぶりに〈さかな〉のポコペンさんに会った。
元気そうだった。

そのまま世田谷代田まで歩き、これもひさしぶりのカフェ〈Ki〉に寄る。
みじかい映像作品を作っている外国の人に取材されたということで、お店の様子が美しい音楽がついて映像作品になっていた。
こちら

ぐるりとまわって、羽根木の家にもどってくる。
10,000歩まではいかないが、だいたいそれに近い散歩コースで、けっこう歩いたな。
梅だけでなく、早春の花が咲きはじめていて、それを見ながら散歩するのは楽しい。
が、みつばちはおろか、まったく虫の姿を見かけなかったのがかなり気になる。

夜はオーディオブック・ゼミ。
これも朗読したり、お互いに深い話をしたり聞いたりして、私は豊かな時間をすごすことができたことを感謝する。

水城ゆうのオンライン共感カフェ、初回が終了

2月23日(火)の夜8時から、初めての「水城ゆうのオンライン共感カフェ」を開催した。
開催した、といっても、参加者はおふたりのみで、しかしそのおかげでこのオンラインでのやりかたについての問題点をふくむ多くの気づきと学びをいただくことができて、とてもありがたかった。
おふたりには大感謝。

いやーそれにしても、オンラインは気楽だなあ。
もちろんリアルに対面でおこなう勉強会は情報がリッチで、対面でしかわからないことも多いのだが、オンラインミーティングはそれを補ってあまりある利点がある。
まず、自宅にいながらにして、気楽に会える。

先日は名古屋・星ヶ丘のワークショップに参加してくれたMさんが、オンラインカフェにも来てくれた。
一度お会いしている人とはリアルな対面感覚があるので、オンラインでもリアルな感触に近い。
リアル勉強会の場合はその開催場所まで来なければならないが、オンラインだとどこにいてもネット環境さえあれば参加できる利点が大きい。
全国どこからでも、あるいは全世界どこからでもつながることができる。
しかも最近はスマホやタブレットでも気楽につながれるので、コンピューターをお持ちでなくてもほとんどの方が参加可能になっている。

時間枠も60分と、負担のすくないボリュームにしてある。
参加費も気楽さを重視して、1,080円に設定した(それでも苦しいという方は遠慮なくご相談ください)。

参加者が多ければ、多いなりの進行を用意しているが、先日はおふたりだったので、ひとりずつじっくりとお話をうかがうことができた。

Mさんはもう1年くらい共感的コミュニケーションの学習をつづけているが、そもそも「だれかと共感する/つながることそのものに腰が引けてしまう」という。
共感しなければ、共感的に話を聞かなければ、と思うのだが、そもそも自分のなかに共感して相手とつながったときになんとなく「怖い/やっかいだ」というイメージがあり、腰が引けてしまっている自分に気づいたそうだ。

まずはそのことに気づいた自分にお祝いしつつ、どうすればそれが解決するか、Mさんにはどのようなニーズがあって、それに深くつながることができるのか、いくつかの段階に分けていっしょにじっくりと見ていった。
最後には希望を感じてもらえたようで、私もうれしくなった。

もうひとりの参加者のSさんは、自分のなかにこうしたい、このようにありたい、というニーズがしっかりとあるのに、いざものごとをはじめてしまうと、そのやりかたや手順、枠組みのようなものを自分ががちがちに決めてしまって、結果的にどんどん自分のやりたいイメージから遠ざかっていってしまうというもどかしさを、人生においてずっと感じつづけていて、なにをするにもためらいがあったり、そもそもなにかに手をつけるモチベーションを持てずにいる、という。

この問題はたぶん60分のセッションでは完全に共感するのはむずかしく、何度かにわけてじっくりと話を聞かせてもらいたいと思っている。
が、問題の所在と、ニーズのある方向性がわかったことは、これからの明確さのために大切なことだろうと思う。

おふたりとじっくりと対面して話を聞かせてもらえたという実感があって、初めてのオンライン共感カフェを私はとても充実した気持ちで終えさせてもらった。
おふたりさん、ありがとう。

このオンライン共感カフェは、参加者の気楽さと私自身の気楽さが確保できるので、月に3回くらいのペースで開催していこうと思っている。
興味がある方、なにか気がかりをかかえている方、まずは気楽に参加してみてほしい。

水城ゆうのオンライン共感カフェ(3.1)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会です。3月1日(火)16時から1時間。

2016年2月28日日曜日

四谷三丁目・茶会記での表現イベント「5years」に出ます

役者で身体表現の金野泰史さんから誘われて、四谷三丁目の綜合藝術茶房〈喫茶茶会記〉でおこなわれるイベント「5years」に、朗読の野々宮卯妙とともに出演します。
3月11日に明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースで私がおこなう「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演の翌日となります。
以下、案内文です。

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What was 311? For you now.
It's in 3.12 / 2016 from 3.11 / 2011

あれから5年…
「311は何だったのか?
今のあなたにとって…」

このイベントは、多様な芸術を体感することで、改めて311を今に思い起こし、共に考え語ることで、各人の「311と今」を共有・共感する場を創ることを目的としている。

theme song : David Bowie「Five Years」

2016/03/12(土)
@綜合藝術茶房 喫茶茶会記
open:16:00 start:16:30〜
料金¥2500(with1drink)+Donation (保養団体海旅Campへ寄附)
●再入場可
※要予約※

上田晃之 (theater)
奥野美和(dance)
Kae Sugiha(singsong)
日下部泰生(painting)
恒星 (performance art)
齋藤真依(candle)
Bo-z EXP(sound)
水城ゆう(piano/text)+ 野々宮卯妙(reading)
柚楽弥衣(song)
定方まこと(voice)+ 金野泰史(move)
etc…
(五十音順)

●タイムテーブルなどの詳細は決定し次第更新します。
http://newskonno.blog83.fc2.com/での情報提供もあり)
図師:恒星
企画・制作 KIUNJI
予約•問合せ:kiunji81@gmail.com

2月24日・中野で韓氏意拳の稽古

天候が下り坂で、どんどん冷えこんできて、雨からやがて雪になりそうな中、いまいち調子の悪い膝で杖をつきながら、中野まで韓氏意拳の稽古に行ってきた。

体験参加もできるクラスだったが、たまたま会員のみの参加で、基礎試力からスタート。
站椿とちがって、動きがともなうととたんに「状態」が散る。

動きに気をとられると状態が散る。
状態を見すぎると、覚えのある軌道をなぞって動こうとしてしまう。
自分の内を見すぎることなく、感覚を広く外側に置き、なおかつ状態を深めながら自然軌道で動くこと。
そして状態を手放さないように動くためには、さらに深く状態にはいっていく必要がある。
これがむずかしく、大変な集中力を必要とする。

試力は腕をふくむ上体の練習だが、摩擦歩は脚・下半身の試力といっていい。
さらに状態をつかみつづけることがむずかしくなる。
もっともっと深くはいっていく必要がある。

そして最後に技撃椿。
これは動かない練習だが、身体の構造が平歩站椿より複雑になり、やってみるとすぐにわかるが、状態を散らさないでそこにはいるのはとても大変だ。
しかも「技撃」ということばからわかるように、これは相手と接触するときの基本となる練習なのだ。

自分のいたらなさ、できなさに嫌になることも多いが、そのことがまた自分の向かいたい方向を示してくれるので、ありがたいといえばありがたい。
いちいちむずかしくて大変な稽古だが、そこにはおもしろさももちろんある。
でなければ3年もつづけられるものか。

終わったらへろへろになって、びっこをひきひき杖をついてなんとか家まで帰ってきたけれど、充実感はある。
武術だけでなく、自分の身体のことに興味がある人は、一度体験してみるとおもしろいと思う。
いや、まじで。

身体表現者のための韓氏意拳講習会(3.21)
羽根木の家で「身体表現者のための」という切口で、内田秀樹準教練による韓氏意拳講習会を3月21日(月/振替休日)に開催します。身体表現をおこなっている方、関心のある方など、どなたも参加できます。

2016年2月27日土曜日

暴力的に共感したい(非暴力なのに?)

日本に二か月以上滞在して、旋風を巻き起こして去っていったホルヘ・ルビオが冗談まじりでいっていたことだ。
人間のことを「ホモ・サピエンス」というが、「ホモ・ゴシップ」といったほうがいい。
つまり、人間は他人にたいする好奇心のかたまりで、ゴシップ好きなことといったらそれだけで巨大マーケットが成立していることからもわかる。

私もそれには同感で、しかし私たちは幼いころからその好奇心をむやみに人に向けないように教育されてきた。
それは社会性であり、静かで安全で大人しいコミュニティを成立させるためにはある程度必要なことだ。
逆にいえば、そのように教育されなければ私たちの好奇心は野放図に肥大し、やたらと他人のことを知りたがるうざったい存在になってしまうという面はたしかにある。

共感においてはこの好奇心こそ原動力となる。
子どものころから人間が自然に、本能的に持っている他者にたいする好奇心を純粋に発動できるかどうかで、その共感が純粋で、つながりを作ることに有効性があるかどうかが決まる。

このところ参加者が多めの勉強会やワークショップがつづいた。
そういう場では、ファシリテートする私がだれかに共感を向け、共感的につながる過程を、参加者がじっと観察することになる。
私は自分がだれかに共感している姿を見たことがないので(あたり前だ)、あとでその感想を聞くのはうれしい。

先日、参加者のひとりから、初めて実際にファシリテーターがだれかに深く共感する過程を見せてもらってとても参考になったし、希望を感じた、といってもらえた。
なるほど、ワークショップでは共感の「練習」はするけれど、実際に本気で共感的にだれかとつながる過程を見ることは少ないかもしれない。
また先日のオンライン共感カフェでも、ひとりひとりと向きあうことができたので、そこでも実践的な共感の過程を見ていただくことができた。

私の勉強会では、ワークもするけれど、参加者がなんらかの気がかりを持っているとき、できるかぎりその人に実際の共感を向け、その過程をほかの参加者とも共有することを心がけている。
そのために、NVCのワークショップでよく使われるエンパシーカードや人形などのツールを、私はほとんど使わない。

私が留意しているのは、自分が純粋なエネルギーをもって相手に向かえるかどうか、ということだ。
このときに武術の稽古や体験が役に立つ。
相手を倒すための「武」と、相手を生かすための「共感」の世界が、ある部分でつながっていることに、興味深さをおぼえている。

人は純粋な好奇心を持っている。
その好奇心はいわば飢えた猛獣のようなものだ。
猛獣はつねに獲物をねらっている。
獲物というのは、相手のニーズのことだ。
相手のニーズをねらいすまし、すきあらば一瞬にしてつかまえて味わおうとしている。
これが最近の私の共感のイメージだ。

いったん共感の体勢にはいったら、私は獲物をねらう猛獣モードになる。
暴力的なまでに相手をねらいすまし、一瞬にしてニーズをつかまえてつながる。
まどろっこしいプロセスも長い時間も必要ない。

すべてにおいてこの方法がうまくいくとは思っていない。
しかし、うまくいくことが多いと感じている。
この方法は自分のなかではすでに熟成の段階にはいっていて、私に話を聞かせてくれる多くの人が、安心して獲物になってくれるようになってきた。
つまり、ニーズハンターとしての私に信頼を感じてくれているようなのだ。
私はこれからもますますニーズハンターとしての暴力性をみがきあげていきたい。
たぶん一度も人から共感されたことのないような人にも襲いかかって、あっという間に味わってしまおうと舌なめずりをしている。

2016年2月26日金曜日

三鷹「おんがくのじかん」のオープンマイクに出ます

来週月曜日、三鷹の「おんがくのじかん」というお店のオープンマイクに、現代朗読協会の仲間たちといっしょに出演することになりました。
オープンマイクといっても、ひと枠が30分もあるので、私はピアノ演奏のほか、ゼミ生の川崎満里菜と朗読即興セッションをやることにしました。
テキストも私のオリジナルを満里菜に読んでもらいます。

ほかにてんトコラと山田みぞれが、それぞれ別枠で出演するので、そちらも楽しみですね。
私が出るのはしょっぱなの19:00ジャストからなので、お見逃しなきようお早めにご来場ください。

◎日時: 2016年2月29日(月) 18:30開場/19:00開演
◎場所: おんがくのじかん
 住所: 〒181-0013 東京都 三鷹市 下連雀 3-32-4 グリーンパルコB1
 三鷹駅南口のメインストリートを まっすぐ。駅から徒歩3~4分です。
 生活用品店:NATORIYAさんの 隣ビル地下1階です。
 TEL&FAX :0422-43-5172

◎イベント名: 『おんがくのじかんSHOWCASE』 げつようびvol.3
◎料金:ドリンクオーダー+お志

2016年2月25日木曜日

名古屋〜豊橋共感ワークショップ(後)

翌22日は早朝に起床、地下鉄で名古屋駅に行き、それから名鉄で豊橋へ。
朝の通勤ラッシュと重なったこともあって、ちょっと遠かった。
豊橋駅からは路面電車に乗って井原まで。
駅までいるかビレッジのたくみんが迎えに来てくれた。

いるかビレッジはパーマカルチャーの農園を中心に、カフェやイベントスペース、託児スペース、整体治療院、陶芸教室、障害者の方々の作業所などがはいった木造家屋3棟からなるエコビレッジだ。
とても気持ちのいい建物で、カフェも子ども連れで安心してこれるゆったりした空間になっている。
食事や飲み物も安心安全な食材を厳選してあると思われ、昼食時にはいつも満席になるそうだ。

まんなかにあるイベント用の建物の、吹き抜けになった2階で共感的コミュニケーションのワークショップを毎月おこなっているとのことで、今回もそちらに案内された。
10時になって、ブラジルの方3名(通訳の女性ひとり)や作業所の方が何人か、一般参加の方、常連の方などが集まって、全部で15人くらいおられただろうか。

共感的コミュニケーション(NVC)に初めて接するという方も4人いらしたのだが、基本原理から説明しているとそれだけで時間が終わってしまいそうだったので、わからないところは適宜質問をしていただくことにして、参加のみなさんの具体的な事例を取りあげながら進めることにした。

すでに何回か参加されている方から、嫁姑問題について聞きたいというリクエストがあり、まず話を聞かせてもらった。
とても元気な姑みたいで、のびのびと表現したり行動したりする結果、こちらにも攻撃的になったり、傷ついたりすることが多く、しかし共感的コミュニケーションを知ってからがんばって共感を試みたり、えんえんと話をがまんして聞きつづけたりする努力をされてきたようだが、なかなか関係が改善できないという悩み。

聞こえていたのは、「がんばって共感しなければ」「聞かなければ」という自分自身への強制。
これがあるかぎり、共感はまずうまくいかないだろう。
こちら側にも相手に共感することへの喜びと自主性と好奇心がないかぎり、つながることはむずかしい。
だからどうすればいいんだろう、というようなことをいっしょにかんがえてみた。

ほかには、とても優しくて協力的なご主人ではあるのに、いつも自分ばかりが本音でしゃべっていて、まるで片思いのような寂しい気持ちになってしまう、という女性の話。
ブラジルの方からは、職場で危険な場所や仕事があって、それを管理者も見ているはずだけどなにも対策がおこなわれていないことに対して、声をあげるべきだろうか、もし声をあげるとしたらどんな方法があるだろうか、という質問。
職場の話に関連して、そこから何人かの質問がつづいたりした。

12時すぎまでやって、午前の部はお開きに。
私は午後の部に残った人たちとカフェで出しているオーガニックでおいしいランチをいただいた。
ごちそうさま。

午後の部は少人数で、個別にじっくりと話ができた。
とくにそのなかのひとりでヒップホップのダンスをやっているという若い男性は、帰りの電車も名古屋まで一緒になったので、ダンスチームについての話や悩みなどをじっくり聞くことができた。

かんがえてみれば、豊橋から新幹線に乗ればよかったのに、なぜか名古屋までの往復切符を買ってしまっていたので、いったん名古屋までもどり、そして東京まで帰った。

こういう一回きりのワークショップをして帰るときは、もう二度と会わない人もいるかもしれない、また来る機会はもうないかもしれないという、どことなく寂しい気分になるのだが、今回はそういう気分にはならなかった。
なぜだろうとかんがえてみたら、オンライン共感カフェの開催スタートを決めていたので、このような離れた場所にいる人たちともいつでも必要とあらばインターネット経由でつながれる、ふたたびお目にかかれるという安心感があるような気がする。


水城ゆうのオンライン共感カフェ(3.1)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会です。3月1日(火)16時から1時間。

名古屋〜豊橋共感ワークショップ(前)

2月21日(日)から22日(月)にかけて、名古屋と豊橋で共感的コミュニケーションのワークショップをファシリテートしてきて、その経験がすばらしかったので、東京にもどったいま、ひとり静かにお祝いしている。

21日は名古屋・星ヶ丘で竹中吾郎さんが世話人をつとめてくれて、毎月野々宮卯妙(NVC関係者のあいだではまりさん)がファシリテートしているワークショップで、野々宮が今回、マウイのIIT(NVCの国際集中合宿)に参加していて不在なので、私が代打で行かせてもらったものだ。
22日の豊橋もそうだった。

早朝、羽根木を出発して、新幹線で名古屋へ。
地下鉄東山線で星ヶ丘へ。
吾郎さんが住んでいるマンションの共用集会所を借りてのワークショップだ。
とても整備された施設で、私も参加者のみなさんも、ワークに集中することができた。

ワークは1時半スタートだったが、その前に吾郎さんが自室に招いてくれて、手製のラーメンをご馳走してくれた。
簡単なものだと本人はおっしゃっていたが、心遣いがうれしく、またとてもおいしかったので、そのあとに参加者が20名を超えるこのワークショップの最高人数記録だと聞いたときにも、落ちついていられた。

たくさんの参加者があったのは、先月名古屋でおこなわれたホルヘ・ルビオのワークショップの効果だろうと思われる。
ホルヘのときは60名近い参加者があったそうだ。

昼食をいただきながら、軽く打ち合わせ。
いつも野々宮がどのように進行しているのか、詳細はわからないし、それをなぞってもしかたがないので、ここは私の個性で好きなようにやらせてもらうことになった。

1時半になり、参加者が続々といらした。
私が知っている人はほんの数名しかいない。
名古屋のメンバーに会うのはこれがまったくの初めてといっていい。
車座に用意していた椅子は24脚あったのだが、それがすべて埋まった。つまり、吾郎さんと私をいれて24名の参加者。

私がおこなっている共感カフェはいつも少人数で、少なければ2、3名、多くても10数名なので、ずらりとならんだみなさんの顔を見て、さすがにちょっとドキドキ。
しかし、まあ、上手にやろうとか、実力を超えてみなさんのお役に立ちたいという野望を手放すことについては、ここ数年熟達してきたので、すぐに落ち着いて、自分のニーズにつながってスタート。

なるべく一方的なしゃべるのを控えて、みなさんにワークをやってもらったり、そのフィードバックの声や質問を聞いてそれに答える形で進める、という方式をとった。

ベーシックな、共感的に相手の話を聞くプロセスのワークをはじめとして、フィーリングとニーズでえんえんと会話を往復させるワーク、親密な関係のワーク、気がかりがあるときの5ステップサークルのワークなど、私のオリジナルもまじえ、質疑応答のなかで進めていった。
みなさんからとてもいきいきとした学びや好奇心のニーズが伝わってきて、私も熱がはいった。

私のファシリテートは行儀悪く、ときに暴力的で、一瞬で相手に共感する武術のような鋭さを心がけている。
なかにはびっくりする人もいるようだが、マーシャル・ローゼンバーグのスピリットを私なりにこの9年間、ゆっくりと咀嚼し、無数のワークと共感セッションと、そしてなにより執筆作業のなかで熟成させてきた方法だ。
日本語や日本の風土というものを取りいれている部分もある。
ときにこのようなアプローチが役に立つ人たちもいるのではないかと確信して、続けている。

もちろん、すべての人に受け容れられるとは思っていない。
が、名古屋の人たちには多く、受け容れてもらえたようで、うれしかったし、ありがたかった。

18時までの4時間半があっという間だった。
まだまだやりたいことを残して、終了とした。

そのあとは吾郎さんの自室に残った10名近くの人が移動して、吾郎さん手製のお食事会。
ここでも熱心な話がつづいて、あらたなつながりが生まれたことがうれしかった。

10時すぎに解散。
私はそのままマンションのゲストルームに泊まらせてもらったのだが、そこがまた快適な部屋で、十分にゆったりと休ませてもらってありがたかった。
吾郎さんには大きな感謝を伝えたい。
また、このようなチャンスを私にくれたまりさんこと野々宮卯妙にも感謝している。
(翌日の豊橋につづく)

2016年2月24日水曜日

音読療法士(ボイスセラピスト)をめざす

毎月開催しているボイスセラピー講座の3月は、4日(金)の午前10時からとなる。
今回はちょっと参加人数が多くて、うれしい。
ボイスセラピー(音読療法)に関心を持つ人が増えてきているといいのだが。

音読療法は健康法として、あるいは心身調整法介護予防法として、大変有効であると思っている。
思っているだけではなくて、実際に有効であることを確認している。
震災以来活動してきた音読療法のケアワークは、すでに5年の実績を持っている。

音読ケアワークが導入できる場として、

 小中学校などの学校
 高齢者福祉施設(老人ホーム)
 地域のグループ
 介護予防教室
 企業研修
 個人セッション

などがあげられるし、実際にすでに導入している場所もある。
私としてはより積極的に行政や企業、施設などに売りこんでいきたくて、実際に提案書などの資料なども整備しているのだが、いかんせん音読ケアワークをファシリテートできる音読トレーナーで実動できる人が少なく、売りこみに二の足を踏んでいるという状況がつづいていた。
が、ここに来て、急に本気で音読まトレーナーや音読療法士をめざしたい、と表明する人が出てきて、たのもしくなってきた。

音読療法士になるにはどうしたらいいんですか、という質問を時々もらうので、簡単に書いておく。

まずはボイスセラピー講座を受けてもらって、ボイスセラピー(音読療法)の全体像を理解したり、実際のケアワークの手順を体験し、できれば身につけてもらう。
ここではとくに資格は発行していないが、自分自身の健康や、身近な人の心身ケアの役に立つことは身につけられる。
もっとも、講座を受けただけではなかなか身につかず、自宅でも繰り返しやってみてほしい。
また、一度受講した人は何度でも無償でリピート受講できるので、しっかりと身につくまで繰り返し練習できる。

さらにボイスセラピーの理解を深め、グループワークのファシリテートをしたいという人は、音読トレーナー講座に出てもらう。
これは2日間を通しておこなう合宿形式のもので、通常ボイスセラピー講座とセットにして2泊3日の合宿をおこなっている。
もちろん近所の人は通いでもかまわないのだが。
この講座を修了し、自分でも何度かグループワークを実践し、レポートを提出すると、音読トレーナーとしての資格を音読療法協会から発行することになる。

この資格を有した者が、さらに協会メンバーとともにその後活動しながら、音読療法の体系を完全に身体化し、経験を積み、自分でもグループワークはもちろん、個人セッションや、音読トレーナー講座そのものを開催できるまだになったとき、とくにテストのようなものはないが先行メンバーの合意のもとに音読療法士の資格認定がおこなわれる。
これは人によってさまざまだろうが、通常1年以上はかかると思っておいていただきたい。

というようなわけで、音読療法士を育てるのはなかなか大変なのだが、その前の段階の音読トレーナー仲間が増え、音読療法の活動がより積極的におこなえるようになることを、私は熱心に望んでいる。
社会貢献・対人援助を自分の自立した仕事としてやっていきたいという方は、ぜひ挑戦してみてほしい。



3月4日(金)10:00-15:00は羽根木の家で音読療法協会のボイスセラピー講座です。呼吸、声、音読を使っただれにでもできるセラピーで、自分自身と回りの人を癒してください。

2016年2月23日火曜日

共感・共感・共感(という一日)

先日、若い友人の夫婦が子どもを連れて遊びに来てくれた。
奥さんのほうは昨年末から体調をくずして、年明けから実家に帰省していて、1か月半を経てようやくもどってきたばかりだった。
その間、旦那のほうは単身でいろいろと大変だったようだ。

旦那の話はその前に聞いていたのだが、奥さんの話はそのときようやく聞けた。
とても仲のいい、お互いに思いやりを持ちあっている、そしてかわいい子どもを大切にしているつながりの深い夫婦なのだが、体調をくずしたり、そこそこ長く離れたりして、ちょっとした齟齬も生じていたようだ。
なんとなく「調停」的な立場で私は話を聞かせてもらうことになった。

身におぼえがあることだが、親密な関係においては、おたがいに満たそうとしているニーズがあまりに多いので、ちょっとしたことでも行き違いがあると、関係全体に影響がおよんで、ぎくしゃくしてしまうことがある。
一種の複雑系といってもいい。
複雑系の特徴は、うまくいっているときにはとてもパワフルに動くのだが、システムのほんの一部が機能不全におちいると全体のパフォーマンスが一気に落ちてしまう、ということがある。
家族の関係はそれに似たところがある。

こんがらがった話を、集中力と好奇心をもって聞きつづけ、最後はふたりの笑顔を見ながら送りだせたときには、私もうれしかった。

調停(ミディエーション)というスキルは、本当はお互いに大切に思っている関係がなにかの理由でぎくしゃくしたり、つながりが切れてしまったとき、それを再接続させる仕事だ。
これについて私はとてもやりがいを感じている。

その夜は「親密な関係における共感的コミュニケーション」の勉強会を開催した。
未婚の男女の出会いの場を共感ベースで提供することを仕事にしたいと思っている井上大輔くんが来てくれたり、NVCをこのところ集中的にまなんでいる方にけっこう厳しいロールプレイングを突きつけてみたり、掘りごたつを囲んで少人数で親密に、楽しく進行させてもらった。

一日中、非暴力・共感的世界にどっぷりとひたっていて、疲れたけれどとても温かな体感覚の余韻が残って、幸せな気分で眠りにつけた日だった。

共感カフェ@羽根木の家(2.26)
2月の羽根木の家での共感カフェは、2月26日(金)19〜21時です。

私のコンピューター(MacBook)買い換え戦略

仕事にせよ趣味にせよ、パソコンを持っている人は多くが、その「買い替え」について悩むことが多い。
私もかつてはそうだった。

できるだけ長く使いたおし、充分に償却してあたらしい機種を買う人が多いようだ。
その際、新品を買うのか、中古を買うのかについても、悩ましい。

私は仕事でコンピューターを使ってきたが、現在、その買い替えについては一貫して迷いがない方法に落ちついている。
私はAppleのラップトップ・コンピューターであるMacBookシリーズをメインに使っているが、私の主義はこうだ。

・そのとき購入できる最新機種の、最高スペックのものを買う。
・その機種が刷新されたら、すぐに買い替える。

つまり、MacBook Pro 13インチならその機種で最新・最高スペックのものを、常に使いつづけていくというわけだ。
そういうと「お金持ちだね」と揶揄されることが多いが、じつはそんなことはない。
これは貧乏人にとって最善の戦略なのだ。

最新・最高スペックのものに買い替えるとき、いま使っている機種をオークションなどでさっさと下取りに出してしまう。
それはつまり、ひと世代前の最新・最高スペックのマシンなのだ。
多少値段はさがるが、たいていの場合はかなりの高値で処分できる。
オーションの場合「即決価格」というものを設定できるが、その金額で落とされることも多い。

そして最新のマシンは、性能が向上しているにもかかわらず価格はそれほど変わらず、うまくすると値下げされていることすらある。
つまり、最新・最高スペックのマシンをいつも使いつづけてストレスがないのに、それにつぎこまれる金額はそれほど高額でもない、ということだ。

私のように、仕事でネット、テキスト、画像、動画、音声などヘビーな使いかたをしている者にとっては、MacBook Pro の現行機種の最高スペックはかなり満足なもので、しかもいつもその時々の最高スペックのラップトップを使いつづけてきたので、仕事の道具としてはとてもストレスが少なく保てている。
これは重要なことだ。

仕事といっても、お金を稼ぐことばかりではない(むしろそこの部分は不得意で残念)。
人の役に立つこと、社会に貢献すること、みんなとつながること、そういうことのために、最高の道具をいつもカバンにいれて使い倒していたいのだ。


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2016年2月21日日曜日

女性装願望について

『もう「東大話法」にはだまされない』という本の著者で、ご自分も東大の東洋文化研究所の教授である安冨歩という方がおられる。
「女性装」で有名な方で、ネットで検索してもたくさん出てくる。
「女装」ではなく「女性装」だ。

この方の話を読んでいて、私のなかでなにか「フッ」と動くものがあった。
さかのぼってみれば、いくつか思いあたることがある。

私は1986年に29歳のとき、小説家として徳間書店からメジャーデビューした。
そのとき、編集者といっしょにかんがえたペンネームが「水城雄」だった。
いかにも雄々しい、冒険小説作家にふさわしい感じの名前だ。
自分ではけっこう気にいっていた。

2007年くらいから共感的コミュニケーションことNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をまなび、自分でも伝えるようになっていく過程で、暴力的なもの、そして男性的社会や言動に気づくようになった。
たぶん最初にだれかにいわれたんだと思うが、「水城雄」という名前の男性性にも気づいた。
そこで、「水城ゆう」と名前をひらがなに開いて使うようになった。

この名前でものを書いたりしていると、直接会う機会ができた人からは、
「女性かと思ってました」
といわれることが多くなった。
「ゆう」という名前のせいもあるだろうが、自分の書いたものが女性的であり、男性と思われなかったことになんとなくうれしさを感じている自分がいた。
私には自分のなかの男性性を警戒し、嫌悪する部分があることに気づくようになった。

そう思ってさらに振り返ってみれば、15年くらい前まで数年間、髪を長く伸ばしていたことがあった。
知人・友人からは「オームの麻原みたいだ」と大変不評だったが(そしていつしかやめてしまったが)、後ろからだと完全に女性のように見えるといわれて喜んでいた。
なぜそういわれるのがうれしかったのだろう。

私の髪はごわごわしていて、かなり癖があり、長く伸ばすには不都合がある。
しかし、髪を伸ばしたいという願望があり、それはひょっとして女性装を望む感じなのかもしれなかった。

私がまだ20代のはじめのころに、京都・祇園でバーテンダーをやっていたとき、常連のお客さんでハーさんという人がいた(いまどうしているんだろう、きっとまだお元気のはずだ)。
前歯の一本が欠けていて、それでハーさんというニックネームだったのだが、本名はたしか山本忍といった。
彼はプロのダイバーで、しかし音楽が好きで、界隈のバンドマンからとても慕われていた。
私も大好きな人のひとりで、一時は自分もダイバーになろうかと思ったほど彼に心酔していたこともあった。

その彼が、女性装だったのだ。
髪をおかっぱにしていて、スカートこそはいていなかったが、シャツは女物が多かった。
口ひげがあり、歯が欠けているので、前から見るといかつくて怖い感じなのだが、それがおかっぱ頭で女物の服を着ているという多面性があって、私は好きだった。

記憶からは打ち消されているような気がするが、もっと幼いころから女性装にたいするあこがれのようなものがあったかもしれない。
しかし、田舎の家庭の長男として生まれ、男は男らしく、お兄ちゃんはお兄ちゃんらしくと育てられ、自分もそれが自分の価値感だと思っていたし、男性より女性が好きだったから自分は男性的な人間だと信じて疑わなかった。

女性を好きであると、自分は男性的であると思いこむのは、ひょっとしてまちがう場合があるかもしれない。
女性が好きなのは、自分も女性的な部分を内包していて、男性的なことが苦手だったり嫌悪感があったりするゆえかもしれないからだ。
私にもそういうところがあるような気がする。

自分の言動についてだれかから「まるでおばさんみたい」といわれるとなんとなくうれしかったり、自分のやっている活動に女性の参加者が多いとうれしくなったりする。
それを先日知り合いにいったら、
「てっきり参加者に女性が多いということを、男性参加者の釣りとしていってるのかと思った」
といわれた。
なるほど、そういう捉え方はあるかもしれないが、私はそんなことをかんがえたこともなかった。

女性装をしてみたらどんな感じかな、と想像する。
ちゃんと女性装をしたことはないけれど、一昨年のハロウィンのとき、白楽の〈ビッチェズ・ブリュー〉でふざけてロングストレートヘアのウィグをつけたときは、ちょっと楽しかった。
とりあえずは、またすこし髪を伸ばしてみようかな。

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2016年2月19日金曜日

【水マガ】2016年2月19日号(Vol.50)配信しました

「水城ゆうメールマガジン」(略して「水マガ」)の最新号を配信しました。

目次
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1 【随筆】女性装願望について
2 【創作】ラジオドラマ 「だれもわかってくれない」7
3 キヅキミズキ
4 お知らせ
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登録(無料)はこちら

内容の一部を紹介します。

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私は1986年に29歳のとき、小説家として徳間書店からメジャーデビューした。
そのとき、編集者といっしょにかんがえたペンネームが「水城雄」だった。
いかにも雄々しい、冒険小説作家にふさわしい感じの名前だ。
自分ではけっこう気にいっていた。

2007年くらいから共感的コミュニケーションことNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をまなび、自分でも伝えるようになっていく過程で、暴力的なもの、そして男性的社会や言動に気づくようになった。
たぶん最初にだれかにいわれたんだと思うが、「水城雄」という名前の男性性にも気づいた。
そこで、「水城ゆう」と名前をひらがなに開いて使うようになった。

この名前でものを書いたりしていると、直接会う機会ができた人からは、
「女性かと思ってました」
といわれることが多くなった。
「ゆう」という名前のせいもあるだろうが、自分の書いたものが女性的であり、男性と思われなかったことになんとなくうれしさを感じている自分がいた。
私には自分のなかの男性性を警戒し、嫌悪する部分があることに気づくようになった。

2月14日の「身体表現者のための韓氏意拳」

2回めの開催となった「身体表現者のための韓氏意拳講習会」が終わった。
韓氏意拳は中国武術であり、武術本来の目的である「殺傷技術」を内包しているが、この講座ではその目的にはあえて向かわず、その目的に向かう過程で発生するさまざまな現象や気づきに注目してみる。

身体表現にかぎらず、表現をおこなう者は、その表現クオリティを厳しく高めていこうという過程で、かならず自分の身体性と向きあうことになる。
私の経験では、その際、自分の身体があまりにわからなくて、ほとんどブラックボックスのようで、なにをどうしていいのか途方に暮れたものだ。
しかし、この身体のなかになにか宝物があり、そこにアクセスすることが自分の表現の可能性を大きく開いてくれる直感があり、いつもなんとか身体に向きあうことを試みてきた。

子どものころから身体を動かすのは好きで、いつも野山を駆け回って遊んでいたし、学生時代には水泳、ヨットなどのスポーツに打ちこみ、大人になってからもヨット、水泳のほか、極真空手や合気道を少しだけかじったりもした。
ヨガは中学生のときから自己流でやっていたほか、近年はいくらかちゃんとした先生に習ったこともある。
ほかにもアレクサンダーテクニークやマインドフル瞑想などにも挑戦してきた。

そんななかで出会ったのが韓氏意拳だったのだが、その身体へのアプローチがあまりに異質で、しかし本質的であり、あっと目を開かされるようなことの連続だったので、もう3年間もかなり密度濃く自分なりに稽古をつづけているしだいだ。

そんな私の体験をつうじて、身体表現をやっている人には、一度体験してみるといいですよとしつこくおすすめしている。

先日の講習会は、内田秀樹準教練の指導のもと、演劇、朗読、音楽などのジャンルから参加者があった。
音楽ではコンテンポラリー(現代音楽)のピアニストが来られたりした。

初回のように、手をあげる、降ろす、寄せる、といった非常にシンプルな動きのなかで自分自身の身体の声を聞いていく試みをおこなっていったのだが、本来これらは「站椿(たんとう)」という武術の稽古である。
つまり、技撃という人を倒すための要件を養うための稽古なのだが、それ自体が自分自身の身体と深く向きあうという要素を含んでいるのが、韓氏意拳のおもしろさというか、懐の深さだ。
シンプルな稽古のなかに、自分の身体や生命そのものに向かい合う要素と、その身体から生じる緊迫感のなかにある全体性を持ったその人本来の活力による武の要素が、同時に含まれている。

そして韓氏意拳の稽古は基本的にひとり稽古であり、心がけによってはいくらでも深く、厳しく自分を見ていくことができる。

来月も内田先生に来てもらえることになっている。
3月21日(月/振替休日)の午前に開催するので、興味がある方はご参加ください。

身体表現者のための韓氏意拳講習会(3.21)
羽根木の家で「身体表現者のための」という切口で、内田秀樹準教練による韓氏意拳講習会を3月21日(月/振替休日)に開催します。身体表現をおこなっている方、関心のある方など、どなたも参加できます。

2016年2月18日木曜日

北陸の実家へ

2月15日、月曜日。
早朝から羽田経由で北陸の実家へ飛ぶ。
東京は昨日から異常に暖かい天気で、上着もいらないほどの陽気だったが、北陸のほうは吹雪いているという。

JALからメールで「条件付きフライトになる」との旨、連絡がある。
小松の天候しだいでは、途中で羽田に引きかえすこともある、とのこと。
そういう場合の運賃はどうなるんだろう。
これまでにも何回か、条件付きフライトで飛んだことがあったが、実際には一度も引きかえしたことはなく、いずれも無事に到着した。

振りかえってみれば、ラッキーなことに、これまで一度も天候が理由でフライトがキャンセルになったことはなかった。
冬場の北陸行きはいつもはらはらするのだが。

「条件付き」のまま、定刻に羽田を出発。
小松まで雲の上を順調に飛んで、やはり定刻で到着するかと思った。
「当機は約10分で小松に到着します。シートベルトを……」
という機内アナウンスが聞こえ、着席とリクライニングを元にもどすようにいわれる。
機は高度をさげ、大きくフラップがせり出してくる。
雲の合間から、風が強いらしく白波を立てた加賀の海がときおり見えはじめる。

いよいよ着陸か、という寸前、なぜかエンジン音が変わり、フラップが引きこまれていった。
どうやらふたたび高度をあげているようだ。

機長からアナウンスがあり、滑走路の積雪のため、いったん上空で待機する、とのこと。
さらに、30分たっても天候が変わらず、着陸できない場合は羽田に引きかえす、という。

そのまま20分くらい待ったろうか。
ふたたび着陸態勢にはいり、高度を落として、今度は本当に着陸した。
東京に帰されなくてラッキーだった。

実家では2匹いた老猫が1匹になっていた。
昨日、一番年寄りだったベスという名前の雌猫が亡くなったと連絡があった。
加賀市の喫茶店の倉庫で何匹か生まれた野良猫を2匹引きとってきたのが18年前だった。
内、一匹の雄猫はとっくに病気で死んでいた。
長生きで、老衰だろう、眠るように死んだとのこと。

残っている一匹も野良猫で、これも17歳という年寄りの雌猫だが、まだ元気だ。
ストーブにへばりついて寝ている。
ひとりになったことをどう思っているんだろう。

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2016年2月17日水曜日

オンライン共感カフェがスタートします

私には、共感的コミュニケーションを、それを必要としている人に気楽に、しかし確実にとどけたいという望みがある。
できれば私がファシリテートしている共感カフェは、すべて無料にして、どんな人でも気楽に参加できるようにしたいと思っている。
が、そうすると、経験的にいろいろなタイプの人が「湧いて」くることも知っている。

冷やかしだけの人、最初から敵対心を持ってくる人、損得勘定が強い人……
経済的にきびしい人のためにスライディング・スケールにすることもあるけれど、そういうときもただたんに「値切りたい」人が出てくることもある。
そういう人にこちらのニーズを確実に受け取ってもらうのはむずかしい。

お金がないけれど参加したい、学ぶこつに熱意がある、切実な必要がある、という人に来てもらいたい。
なので、できるだけ敷居を低くしておきたいと思っている。
しかし、上記のようなわけで、完全に無料にすることは、現時点ではむずかしい。

今回、オンラインで共感カフェを開催することにしたのは、最近の通信環境の変化は大変敷居を低くしているのではないかと思ったからだ。
すこし前まではネットミーティングを利用できるのは、ネット専用回線があり、高性能のコンピューターにカメラとマイクが接続されていて、Skypeなどのネットミーティングソフトを使いこなせるスキルが必要だった。
が、最近はだれもがスマートフォンを持っている。
あるいはタブレット端末を持っている。
コンピューターもMacBookを筆頭にカメラもマイクも最初からついているものが増えてきた。
ネットミーティングのソフトやアプリも充実してきたし、だれでも簡単に使えるようになってきた。

そこで、今回、私はつぎのような条件でオンライン共感カフェを開催することに踏みきることにした。

・開催時間(拘束時間)を60分とする。
・参加チケットを1回1,080円(5回分なら5,000円と割安)とする。
・チケットは人に分け与えたり、プレゼントできる。
・zoomというネットミーティング・システムを使うことで、スマホやタブレット端末でも簡単に参加できるようにする。
・1週間に1回くらいのペースで、曜日や時間帯をさまざまに動かして、いろいろな人が参加できるようにする。

とくに私が参加してもらいたいのは、つぎのような人たちだ。

・地方在住の人。
・育児や介護で自宅を離れられない人。
・経済的に苦しい人。
・学生や主婦など、自分の自由になるお金が少ない人。

最近はさまざまな人が共感的コミュニケーションやNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)のワークショップを開催したり、ファシリテートしているが、時間が長かったり、参加費が高額だったりすることもある。
あるいは開催地が東京など都市部に集中しているということもある。
共感的コミュニケーションを身につける必要があって、自分自身とのつながりや人間関係に切実な問題を抱えているような人でも、安価で短時間で、しかも自宅にいながら気楽に参加できるチャンスを、私は作りたいと思っている。
どうぞ気楽にご参加いただきたい。

水城ゆうのオンライン共感カフェ(2.23)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会です。2月23日(火)20時から1時間。

2016年2月16日火曜日

ステハ共感カフェ、初の昼開催

2月12日金曜日、午後。
下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉で共感カフェを開催した。
少人数の開催(私をいれて4人)で、じっくりと内容濃くやることができた。

共感カフェはいつもそうだが、私には参加者の役に立ちたい(貢献のニーズ)、自分の能力を発揮したい、つながりを持ちたい、いきいきと表現したいというニーズがある。
参加者にもニーズがあって、学びだったり、好奇心だったり、成長だったり、つながりだったりする。
それらが共感カフェという場に明示されていきいきするとき、その場はとても活力に満ちたり、つながりが生まれたり、お互いに受容しあえたりしてしんみりする。

先日もそんな感じだった。

18歳の学生が参加していて、地方在住なのだが、春休みにNVCを集中的に学びたくて、東京の友人宅に居候しながらあらゆる機会をねらって参加しているのだという。
私の共感カフェにもそれで来てくれた。

私もそう思ったが、ほかの参加者が、
「まだ若いのにえらいねー、すごいねー。しっかりしているねー」
と感嘆していた。
それに対して彼は居心地が悪そうだった。

カフェの後半で私はそれを取りあげて、ほめことばが暴力になりうることについて体験してもらったり、仕組みを解説してみた。
まずは私が彼にたいしておおげさに「ほめ殺し」をする。
それについて共感してみて、とリクエストしたのだが、これはなかなかうまくいかない。
なぜなら、まず彼自身のニーズにうまくつながれていないからだ。

そこから逆に私が彼に共感し、彼自身のニーズに気づいてもらった。
そうすると、今度は彼に余裕ができて、ほめる側のニーズを推測したり共感したりできるようになる。
そんな練習をしたのだが、気づいたことがいくつかあったようで、私もうれしかった。

ほかにもいくつかのトピックを取りあげて、とても充実した内容で集中して進めることができたように思う。
疲れたが、いきいきした時間をすごすことができた。
ご参加いただいた皆さんには感謝している。

〈Stay Happy〉の共感カフェは、1月から、隔月から毎月開催になっていて、奇数月は夜開催、偶数月は昼開催の予定だ。
次回3月7日は夜20時からの開催となるので、ご都合のつく方はいらしてください。

共感カフェ@下北沢ステイハッピー(3.7)
だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。

2015年12月沈黙瞑想公演当日パンフの文言

昨年12月、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースでおこなわれた「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演の当日パンフレットに水城が書いた文章をご紹介します。

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 この「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演も、ほぼ毎月開催のなか、今回で丸1年がたとうとしている。これまでおつきあいいただいた皆さんには心から感謝する。
 けっして観客動員数は多くなかったが、そして観客の数は問題ではなかったとはいわないけれど、自分なりに手応えを感じ、貴重な成果をあげたと思っている。これを今後、どのように生かし、発展させていけるかが、私の課題としてある。
 私も自分にのこされている時間を意識することが多くなり、またたんなる残されている時間というだけでなく「表現」という行為に充実した身体と頭脳をもって立ちむかえる集中力を持てる時間があとどのくらいあるだろうか、ということをかんがえている。
 いまこの瞬間に私が生きている証としておこなっている表現行為が、あなたのなかにわずかなりとも引っかき傷のようなものを残し、明日のあなたの見るものや聴くものがすこしでもちがったものとして立ちあらわれたとしたら、私がいまここでこうやっている意味はいくらかでもあるだろうと思う。
 この公演は今回をもって無期限の休暇にはいります。
 本日お越しいただいたあなた、今回も参加してくれてありがとう。
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休暇を終えて来月3月11日にひさしぶりに開催します。
昼・夜の2回公演となります。
どうぞお越しください。

「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演@明大前キッドギャラリー(3.11)
ともに深く、ことば、静寂、音、そして空間とご自分の存在そのものをあじわうこと。ご来場いただいたみなさんにある種の「体験」を提供する試みです。

2016年2月15日月曜日

著作使用権フリーの水色文庫をどうぞ

自分が書いた朗読用やラジオ用のスクリプト(原稿/テキスト)を著作使用権をフリーにして「水色文庫」としてブログに掲載してあるのだが、どこでどうやって見つけてくれるのか、朗読者やナレーターからしばしば「読ませてください」もしくは「読ませてもらいました」という連絡をいただく。

自分の作品が読まれるのは素直にうれしい。
連絡をくれなくてもかまわなくて、実際に連絡なしに勝手に読んでいる人もたくさんいるようだ。

連絡をくれるのは、ラジオ局のアナウンサー、ナレーター、声優、そういった仕事の卵の人、趣味で朗読している人など、さまざまだ。
読まれる場も、電波ラジオ(コミュニティFMをふくむFM局がもっとも多い)、ネットラジオ、個人音声ブログ、朗読ライブや公演など、こちらもまたさまざまだ。

けっこうな頻度で連絡があり、とくに最近、理由はわからないが増えてきていて、1週間にひとりかふたりくらいからメールをもらう。
そういったメールのひとつを(数日前にもらったもの)、抜粋して紹介したい。

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水城ゆう様、こんにちは
趣味で朗読活動をし始めたのですが、朗読作品を探している中で、ネットにて水色文庫のフリーテキスト集を見つけました。
猫、コップの中のあなた、砂時計を読み、水城様の世界観に一気に引き込まれ、ぜひ朗読に使いたいと思い、水城様にメール致しました。
活動は不定期で、水色文庫さんを含めたネット上のフリーテキストからランダムに朗読をしてゆく予定です。なにぶん趣味で始めてまだまだ初心者なのですが、心を込めて丁寧に読んでいきたいと思っています。
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こういう声を聞くと、またあたらしい作品をがんばって書きたくなる。
とりあえず、3月11日の「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演のための新作テキストを書きおろすつもりでいる。
また、これは朗読に向いているかどうかわからないが、短編小説をひとつと、それをふくらませた長編小説を1本書きおろす意欲がいまもりもりと湧いているところだ。

そうそう、中断している『親密な関係』という長編小説も再開する予定だ。
これらを受けとって、音声化してくれる人が出てきてくれるというのは、書き手としてなんて幸せなことなんだろうと思う。


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2016年2月14日日曜日

最近の活動振り返り(カレンダーを白くするために)

2月にはいってだいぶスケジュールが落ち着いてきて、ありがたい。
まだまだじっくりと書物仕事に取りくんだり、知り合いのライブやイベントにひょいと気軽に出かけたり、という状況にはほど遠いが、昨年の狂騒のようなスケジュールからは脱することができている。
もちろん意図的にスケジュールを減らしてきている。
もっと減らしたい。
できればカレンダーを真っ白にしたい。

いまのところ、どうしても真っ白にはできないのがいくつかあって、ひとつは現代朗読の活動だ。
これは自分でも大切な場なので、カレンダーを白くする方向のなかでも残しておきたいことのひとつだ。

毎週木曜日の午前中と夜、そして土曜日の午前中と昼、日曜日の夜にゼミをやっていて、これは私の表現活動や表現研究の場でもある。
ゼミ生とかかわりながら、コミュニティのなかでしか培うことのできないものだ。

ここ数年、現代朗読では、朗読を「表現」としての切り口からさまざまな検証とトレーニングをしている。
とくに朗読者という「身体表現者」の身体性の研究とアプローチは、たぶん他の追随を許さないと自負している。

私たちがやっていることは、朗読のみならず、げんに私がそうだが音楽演奏者や、ほかにも演劇、ダンス、美術、文学などにも応用ができるものだ。
現代朗読協会、ということで、来るのはどうしても朗読や文学に興味がある人が多いのだが、ちょっともったいないなと思う。
なにかより門戸を開くための仕組みがあるといいのだが。

私のなかではおなじこととしてつながっているのだが、月に一回、羽根木の家で内田秀樹準教練による韓氏意拳の講習会を開催している。
今年にはいってから、午前中のクラスは「身体表現者のための」と銘打ってやっていて、初回の先月のクラスも大変興味深いものだった。
武術なのに女性の参加者が多いのが特徴で、なごやかな雰囲気で楽しく進められている。

共感的コミュニケーションの活動である共感カフェも、スケジュールからはずすわけにはいかない。
しかし、これは羽根木の家以外での開催も含めて月に5回もやっているので、これ以上増やすわけにはいかない。
そこで、いま、オンラインでの開催を計画しているところだ。
興味がある人が気軽に、自宅にいながらにして、そして参加費も負担の少ない額で開催できないか、敷居を低くする内容を検討中だ。

ほかにトランジション世田谷 茶沢会の活動や羽根木みつばち部、NVCカフェ研究会(仮称)などの活動もあって、なかなかカレンダーを白くするのはむずかしいのだが、なんとか工夫をしていきたいと思っている。
私の本業である小説と音楽の作品に取りかかれる時間を、できるだけ確保していきたい。


朗読をはじめてみようと思っている方、すでにやっているけれど物足りなさや壁を感じている方、その他表現に興味のある方、まずは進化しつづける現代朗読を体験してみませんか。2月20日(土)午前、羽根木の家にて。

2016年2月13日土曜日

2015年12月「沈黙瞑想」公演の参加者感想

2015年12月11日に明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースでおこなわれた「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演においでいただいた方々の感想を、一部抜粋してご紹介します。

◎高く低く大きく小さく、くり返されるテキスト。浜辺に寄せてはもどる波のように、テキストの言葉を聞く、聴く、感じる。受け取り、流れて行く、流されて行く。同じ言葉なのに、受け取る感じがかわって行く。くり返し打ちつける波のように、夜明けて陽が昇るように、砂に風が吹くように、くり返し受け取り、押し戻し、流されて行く。日々の命の営みそのものを受け取った気がしました。今回で3回目でしたが、あたり前ですが、毎回くっきりと違いました。ありがとうございました。

◎展開がまったく読めないので、どうついていけばよいのか戸惑いました。女性がカベから落ちそうでハラハラ(汗)。暖房はわざと切ったのでしょうか。寒暖の差……も計算ズミ? まっくらな中でのピアノの音色はよかった。こういう聴き方はめったにできないし。音、視覚、寒暖……あと香りもあれば五感を使うライブとしてもっと深まるかもしれませんね。

◎初めての経験でした。始まりは宇宙空間に放り出されたような恐さ、さみしさ、どんどん吸い込まれていきました。自分が生命体であること。温度、卵、光、羽音。涙があふれてきました。

◎こんな当たり前の事を言ってはいけないと思いますが、このまっ暗の中で、さすがです。静寂の中で見て、聞く。なかなかない体験です。

◎自由である「今」への憧れを感じました。




ともに深く、ことば、静寂、音、そして空間とご自分の存在そのものをあじわうこと。ご来場いただいたみなさんにある種の「体験」を提供する試みです。

映画:ソルト

趣味のアクション映画鑑賞。
タイトルの「ソルト」は主人公であるCIAエージェントのイヴリン・ソルトの名前。
演じるのはアンジェリーナ・ジョリー。

私はアクション映画のなかでもスパイものが好きで、ロバート・レッドフォードとブラッド・ピットが共演した「スパイ・ゲーム」や、ル・カレ原作の「裏切りのサーカス」、ディカプリオ主演の「ディパーテッド」など、けっこうはまったものがある。
「ソルト」もスパイ映画ということで、ちょっと期待があったが、実際にはスパイ要素よりアクション要素が強くて、それが鼻についた。

アンジェリーナ・ジョリーをあんなにスーパーウーマンに仕立てなくても、もっとアクションを抑えぎみにして渋いスパイ映画仕立てにできたはずだ。
というのも、ストーリーがなかなかこみいっていて、おもしろいのだ。

簡単にいえば、ソ連時代から引きずっているロシアのスパイとアメリカのCIAの関係における二重スパイものかと思いきや、さらにもうひとひねりある、みたいな大きな仕掛けがある。
もっとはしょってしまえば、あわや核戦争勃発という国家間の危機を、たったひとりの女スパイの活躍で救う、みたいな話。
それはいいのだが、その解決をアクションに頼りすぎていて、ちょっとそれはないだろ、といった無理な問題突破策が多すぎる。

とはいえ、アンジーのアクションをたっぷり見たい人は十分堪能できる映画だろう。
2010年のアメリカ映画。
監督は「パトリオット・ゲーム」「今そこにある危機」「ボーン・コレクター」「ギヴァー 記憶を注ぐ者」のフィリップ・ノイス。


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2016年2月12日金曜日

たとえ敵でも、理不尽な人でも、相手は人間である

自分に都合がわるいことをやらかしてくる相手のことを、私たちはつい「敵だ」とレッテルを貼ってしまう。
こちら側には安全のニーズがあり、相手と距離を置いたり、場合によっては関係を断ち切る必要もある。

共感的コミュニケーションにおいて忘れたくないのは、そういうシチュエーションにおいても、相手側にはなんらかのニーズがかならずある、ということだ。

たとえば、かつて親しい関係にあった男女が、なんらかの理由でいまは決別している、ふたりの間ではもう連絡を取り合わない、という約束ができている。
にも関わらず、男性の側が女性のほうに「相談したいことがある」といって連絡してきて、応じないでいるととてもしつこく電話がかかってきたり、メールやら郵便が送りつけられてくる。
電話は取らないようにしているのだが、メールや郵便は一方的に届いてしまって、そのたびにとても嫌な気持ちになる。
約束が守られないことに不信感を抱き、誠実さが感じられず、怖くなってしまう。

こういう場合、女性の側は相手の男性のことを、自分にしつこくまとわりついてくる犯罪者か病人のように感じてしまって、恐怖心や不安な気持ちで毎日がうつうつとしてしまう。
こんなとき、どうすればいいだろう。

まずは自分のニーズに深くつながって、自己共感しておくことが第一であることはいつも書いていることだが、相手にもニーズがあるということを思いだすことも必要だ。
この場合、安全、安心、誠実といったニーズだろうか。

あの人は自分の敵だ、嫌いな人だ、苦手な人だ、関わりたくない人だ、と思っている相手のことを、私たちは「人」として見れなくなっている。

自分のことを振り返ってみればわかると思うが、もし自分がなんらかの精神的疾患にかかってしまったとしたら、どうだろう。
重いうつ病にかかったり、統合失調症におちいったり、若年性アルツハイマーにかかったり、あるいは若年性でなくても老齢にさしかかって認知症になったり。
そんな自分を想像したとき、その自分が「人でなくなる」なんてことはあるだろうか。

どのような状況であっても、たとえ自分自身を見失ってしまうかもしれない重度の精神障害であったとしても、私たちはあくまで「人」としてそこにいる。
そしてそのような状態なりのニーズがあり、それを満たそうとして生きている。
そのことを、相手にも置きかえてみればいい。
相手がどれほど自分にとって都合がわるいことをしていても、敵対していても、攻撃的であっても、かならずそれは「人」のすることであり、相手を人間として見て、そのニーズを推測できるかどうか。

どんな相手とも人と人としてつながれるというのは、結果的に自分を守ることになる。
また、自分の必要とすること――安全や尊重のニーズ――を相手に伝えるチャンスが高まる、ということでもある。

元彼のことをストーカーだと思いこんでいる彼女も、相手のニーズを推測し、それを聞くことができるかどうかで、自分の安全のニーズが満たされる可能性が大きくなる。
相手はただ、自分が悩んでいること、寂しく思っていること、あるいは苦しい状況にあることを、だれかに聞いてもらったり、知ってもらったり、そしてつながってもらう必要があるだけなのかもしれない。
自分のそのニーズに気づいたとき、彼はおそらく、彼女にしかそのニーズを満たせないといういわば「執着行動」を、別の行動に置きかえられることにも気づくかもしれない。、
自分のニーズを満たす方法は、ほかにもいくらでもあることに気づくかもしれない。
そうなれば、結果的に彼女は自分の安全のニーズを満たすことができるだろう。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(2.19)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を2月19日(金)夜におこないます。

羽根木みつばち部2016年、始動

2月5日(金)午後、三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉で、今年最初の BEE’s CAFE を開催した。
羽根木みつばち部として今年最初のイベントだ。

羽根木の日本みつばちは残念ながら、冬を越すことができなかったが、日本みつばちに関してはそのような残念な報告があちこちからとどいている。
在来種である日本みつばちが、いま、なんらかの厳しい状況に直面していることはまちがいないだろうと思う。

一方でうまくいっている例もある。
これは西洋みつばちもおなじで、うまくいっている例、失敗した例、それぞれの原因や対策をしっかり見極めていく必要がある。

羽根木みつばち部も養蜂をあきらめたわけではなく、選択肢がいくつかある。
それを BEE’s CAFE でみなさんと検討した。

・日本みつばちと西洋みつばちについて
・養蜂箱を置く場所
・日本みつばちの分封群の誘引の可能性
・蜜源探索イベントの開催について
・養蜂家との交流予定
・ビデオ鑑賞会や勉強会について

養蜂を再スタートするとしたら、とくに日本みつばちの場合は3月末から4月にかけて、すでに準備が終わっている必要がある。
また、西洋みつばちの場合はあらたに養蜂箱や用具を揃える必要もある。
みつばち部の活動も、今月から来月にかけて本格始動していきたい。

2016年2月10日水曜日

自分の身体(體)が発生する

光岡先生の韓氏意拳講習会に参加してきた。
その体験が大変印象深かったので、書きのこしておく。

このところ、韓氏意拳では、光岡先生が提唱する「歴史的ジェネレーションギャップ」という、いわゆる時代や世代によって変化してきた身体観の変遷を見ながら、現代人である我々にどのような稽古ができるかを問うていく流れがある。
とても興味深くて、光岡先生にかぎらず講習会では多くの発見があり、スリリングだ。

今回も身体観、身体の捉え方、身体を通して見ている世界観の相違などの話からはいって、100年以上前の人たちがどのような身体観を持って武術に取りくんでいたのかの考察からはじまった。
身体観の相違といっても、なかなか実感しにくいものがあるし、じゃあ具体的になにがどう違うんだ、結局我々はどうすりゃいいんだ、という曖昧模糊としたつかみどころのない稽古におちいってしまいがちなのだが、今回は非常にすっきりと腑に落ちる経験をさせてもらった。

かつて武術家が書きのこした指南書のようなものを読んでも、身体観が異なっていたり、おなじ体験を共有していなかったりすると、いったいなにをいっているのか、あるいは「こうだろうな」と想像することがまったく違っているということが起こる。
そのために、その時代の身体観までさかのぼって推理するという方法が必要になってくる。

その時代の身体観を経験するとはどういうことなのか。
それを今回、具体的に経験させてもらったのだ。

細い棒を一本使う。
それを、筆を持つように、といっても和式の持ち方ではなく、中国式の持ち方で持ち、垂直を見る。
身体のあちこちにそれを写し、垂直を見ていく。
手首をすこし持ちあげるようにすると、自然に下半身が反応して、身体がやや沈んでいく。
現象としては、膝がすこし曲がる。

その姿勢で自分の身体を丁寧に、ゆっくりと見ていく。
やっていると、だんだん膝ががくがくしてくる。
太ももの筋肉がぷるぷるしてくる。
我々現代人は膝をまっすぐにのばして立つという姿勢・生活に慣れきってしまっている。
そのせいで、下半身が見えていない。
100年以上前の、生活が機械化・電化していなかった時代の人々は、武術家でなくても膝や肘、腰が自然に曲がり、つまり身体のまとまりを保ったまま生活していた。
いわば手足がちゃんと存在する生活だ。

実際に膝をすこし曲げて身体を見ているとわかってくるのだが、自分の手足、とくに下半身が発生してくる感じがある。
ああ、ここに足がある、膝が見えてきた、腰が発生してきた、という感覚が、実感として生じてくる。
これはいままでにない体験で、自分の身体とあらためて「こんにちは」するみたいな、新鮮な経験だ。

と書いても、読んでいる人はおそらくなにをいっているのかわからないだろうと思う。
経験してみなければわからないだろう。
しかし、経験してみればきっとはっきりとそうとわかるはずだ。

この経験を経たうえで、最後はいつもの韓氏意拳の站椿の稽古をおこなった。
自分の身体が発生したうえでおこなう站椿は、まったく違う味わいがあって楽しかった。
もっとも、非常に疲れた。

前半の垂直から自分の身体を見ていく稽古は、気がついた1時間半が経過していた。
それだけの時間、ひたすら自分に身体と向かいあい、いわばマインドフルネスの世界にどっぷりとつかりきっていたのだ。
とても深くて質の高い瞑想をしたときのような余韻があった。

その稽古の余韻は数日たったいまでも残っている。
いつでもこの自分の身体にもどってこれる、という感覚は、いままでにない自分自身の存在への安定感と自信のようなものにつながってきているような気がする。

身体表現者のための韓氏意拳講習会(2.14)
羽根木の家で「身体表現者のための」という切口で、内田秀樹準教練による韓氏意拳講習会を2月14日(日)に開催します。身体表現をおこなっている方、関心のある方など、どなたも参加できます。

2016年2月9日火曜日

トラブル、ストレス、困難を迎え入れる

できればトラブルは回避したいし、ストレスフルなことはやりたくないし、困難な事態にもなるべく直面したくない。
こう思うのは当然だろうし、私もそのように思ってこれまですごしてきた。

しかし、生きているとこういうことは避けがたく、トラブルやめんどうなことに直面するのはしょっちゅうだ。
そのつど、いやいや対処したり、避けたり逃げられるときにはそうしてきた。

先日、韓氏意拳の稽古のとき、指導者から、
「韓氏意拳とはなんですか?」
という難問をつきつけられた。
この手の質問ほどやっかいなものはない。
なぜなら、ひとことで答えられるものではないし、どう答えてもそれは正解ではなかったりする(あるいはすべて正解だったりする)。

私はピアニストで小説家だが、
「あなたにとって音楽とはなんですか?」
「あなたにとって小説とはなんですか?」
と問われて、正面から答えるのはむずかしい。
ことばにするとしたら、それは「うまいこという」方向に行ってしまいそうな気がする。
「私にとって音楽とは、生きることそのものです」
それでは答えにならない。

難問を突きつけられる、あるいは、どう対処していいかわからないようなトラブルに直面したとき、とても困ってしまう。
しかし、先日の韓氏意拳の稽古のとき、私のなかでおもしろいことが起こった。

難問を矢継ぎ早に突きつけられて、追いつめられていくうち、自分がむずかしい問題に直面していることを楽しんでいることに気がついたのだ。
それは、解けるかどうかまったく自信がないむずかしい数学の問題に取りかかろうとしているときみたいな感じだった。

なにかむずかしい問題を解こうとしているとき、あるいは将棋などで勝てるかどうかわからない相手に立ちむかおうとしているとき、そこには危機感と同時に、なにかわくわくした感じがある。
それは自分の能力・生命力をこれから最大限に発揮するぞ、という危機と背中合わせの活力のようなものだ。

そのとき、危機感のほうにばかり目がいってしまうと、怖くて逃げ出したくなってしまう。
しかし、自分の活力に注目できたとき、直面している難問は自分の力を試すための山に見える。

山が見えたら、一歩さがって俯瞰してみる。
困難を突っぱねるのではなく、むしろそれを歓迎するようにして両手を広げるのだ。

この方法はじつは韓氏意拳の稽古ではふつうにやっていることで、なにか自分のなかにとどこおりがあったり、動けない感じがあったときは、それを無理にどうにかしようとするのではなく、全体性のなかからそこに注目し、なにが起こるかただ見るのだ。
すると、自分に未知のことが起こる。

なかなかむずかしいことで、だからこそ普段の心がけや稽古が必要なのだが、困難を避けたり逃げたりするのではなく、むしろ迎え入れるくらいの気持ちで活力を持って対処したい。
そのためには、いつでも自分のなかにある活力を呼びおこせるようにしておきたいのだが、この部分はまさに共感的コミュニケーションにおける自己共感なのだ。

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2016年2月8日月曜日

地震(母なる大地)の美しさ?

先日、関東地方に震度4の直下型地震があった。
また一昨日は台湾で大きな地震があった。
大きな被害と犠牲が出ている。
亡くなられた方、被害をこうむった皆さんには、心からお見舞い申し上げる。

東京での震度4の地震はひさしぶりだったのと、直下型特有の、最初はガツンと突きあげるような震動、そしてそれにつづく横揺れがあったので、ちょっとびっくりした。
驚いた方も多かったのではないかと思う。

NVCトレーナーのホルヘが、2か月の日本滞在のあと、コロンビアに帰国する予定が変更になって韓国でもワークショップをおこなうことになった。
そのために滞在がのびてまだ日本にいる。

羽根木の家からは出て、知り合いのアパートの一室に滞在しているのだが、一昨日の地震があったとき、どうしているのか気になって、メッセージを送ってみた。
すると返ってきたのが、
「地震を美しく、パワフルに感じた。そう思わないか?」
というものだった。
母なる大地・地球の英知とパワーを感じて泣いている、というのだ。

人間にとっては都合がわるく、またそれで大きな犠牲が出ることもある地震は、ともすれば忌むべきもの、憎々しいものと思ってしまいがちだが、その判断・思考・価値観は人間の都合が作りだしたものだ。
地震にかぎらず、天変地異は人間が出現する以前の太古から変わらずつづいており、それゆえに地球はいまの姿になっている。

文明を栄えさせた人間は、いつしか天変地異さえコントロールできるものと思って、津波があるなら防潮堤を築けばいい、地震があるなら耐震構造を強化すればいいなどと、その力を誇示し、自然に対抗してきた。
しかし、人の想像を超えた力を自然は持っていて、ときに文明を大きく破壊する。
その文明の築いたもののなかには、一度破壊されるとその傷跡や汚染は未来永劫にわたって地球環境に影響をおよぼすものすらある。
それが破壊される可能性についての謙虚さ(あるいは想像力)を、現代人は失ってしまっている。

人も自然の一部であり、人の生活もまた地球環境という自然と調和したものでなければ持続できないものであるという実感は、文明以前の人々が持っていた生命体としての人の英知であり、現代でもまれに少数の民族がそれを伝えている。
そこを学びなおしたいと思うのだ。

美しい地球、自然の底知れぬパワー、それらに敬意をはらいそこから豊かさをいただけることの感謝。
その意識に多くの人が帰っていけたら、と思う。

共感カフェ@下北沢ステイハッピー(2.12)
下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉の共感カフェ、初の昼開催です。2月12日(金)午後3時から。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。


2016年2月7日日曜日

きちんと「ニーズ」につながっているかどうかのチェック方法

共感的コミュニケーションでは、現れる感情や行動はその人の内側に息づいている「ニーズ」の表現である、というかんがえかたをしている。
しかし、たいていの場合(共感的コミュニケーションの練習をしていない人は)、ニーズにたいする自覚はおぼろげで、自分がなぜこんな気持ちになっているのか、なぜこんなことをいってしまうのか、やろうとしているのか、明確ではない。
そうするともやもやしたり、対立が起こったりする。そうならないためには、自分のニーズを明確にし、それにつながり、自覚的に行動することが大切だ。

共感的コミュニケーションでは自己共感のプロセスをもちいて自分のニーズにつながるが、そのつながりの質にもいろいろある。
一見、つながったように思えて行動を起こしても、うまくいかないことがある。
自分ではつながっていると思いこんでいるだけのこともある。

自分がきちんとニーズにつながっているか、深くつながっているかどうか、チェックする方法を知っておきたい。

自分が必要としていること、大切にしていること、大事な価値観など、ニーズを見つけ、深くつながったときには、独特の味わいが生まれる。
いわゆる「腑に落ちる」という感じがそれに近いのだが、自分自身にたいする客観的な理解が生まれ、落ち着いた気持ちになる。
メタ認知という、「自分がなにを理解しているのかを理解している状態」になる。

この客観的理解は、自分のニーズを満たすためにさまざまな方法があるという一種の余裕というか、展望ももたらす。
つまり「あせり」のない状態になる。
逆にいえば、自分の満たそうとしている行動に「あせり」がないかどうかチェックすれば、その行動が深いニーズから生まれたものかどうかがわかる。
あるいは「……したい」という気持ちではなく、「……せねば」という気持ちがふくまれているかどうかでも、ニーズにきちんとつながっているかどうかわかる。

また、行動を起こすとき、それが「選択肢のひとつ」としておこなっているのかどうかをチェックすることでも、ニーズとつながっているかどうかがわかる。
選択肢がなく、これしかニーズを満たす方法がない、と思って行動するとき、悲劇的な結果をまねくことが多い。

ニーズが見えないまま、自覚しないまま行動するのはよくないが、自分にはこのニーズがあると思いこんで行動することはもっとよくない。
自分がニーズにつながって選択肢を見渡せる静かな境地のなかから行動できているかどうか、チェックしてみることが必要だ。


草加〈Jugem〉共感カフェ(2.8)

カフェ・オハナ(三軒茶屋)で共感的コミュニケーション(2.9)

共感カフェ@下北沢ステイハッピー(2.12)

2016年2月5日金曜日

Shining wings 主催イベント(水城の統合ワーク)

心身のすこやかさをサポートするためのさまざまなワークをおこなっているが、それぞれが独立したものとしておこなわれることが多かった。
例としてはつぎのようなものがあげられる。

 共感的コミュニケーション
  共感カフェ、親密な関係の勉強会など
 音読療法(ボイスセラピー)
  呼吸法、音読エチュード、音読ケア、ボイスコーチング
 音楽瞑想
  ソニック・メディテーション、暗闇での即興ピアノ演奏

これらをいわば統合したワークイベントが、Shining wings の主催でおこなわれることになった。
私にとってはありがたい機会で、Shing wings 代表の安倍想さんには感謝するしだいだ。

開催は3月6日(日)午前10時からランチをはさんで、午後3時まで。
会場は西麻布いきいきプラザ。
マクロビオティック料理家の越澤彩子さんの協力を得て、素敵なランチが用意されるもよう。

私の担当するワークのパートは、午前中がマインドフルネスや感覚覚醒のワーク。
ワークを通して参加者の心身を活性化し、「いまここ」の自分の生命活動そのものに気づいてもらうためのワークをいくつか用意している。

ランチではお料理を楽しむことはもちろんだが、最初のほうでは「食べる瞑想」もおこなって、食材や料理をじっくり味わうこと、そしてそれを味わっている自分自身にも気づくことの練習を試みる。

午後は共感的コミュニケーションのレクチャーとワークをおこない、自分自身とつながることや、さらに人と共感的につながることの理解と練習をおこなう予定。

大変盛りだくさんな内容で、おいしく充実した時間になるはずなので、みなさんどうぞおいでください。
イベントの案内ウェブページはこちら

共感的コミュニケーション(NVC)への熱い思い

cNVC認定トレーナーのホルヘ・ルビオが12月のはじめから2月のはじめまで日本に滞在し、二か月にわたって東京をふくむ全国各地で熱烈なワークショップを開催した。
東京での滞在のほとんどが羽根木の家だったので、私はワーク以外にも生活レベルでホルヘとすごす時間を多く持つことができた。
学びと気づきの多い、貴重な二か月だった。

思えば私がNVCをより積極的に取りくみ、自分でも人に伝えることをしようと決意したのは、2011年にホルヘが初来日したことがきっかけだった。
ちいさな規模の共感カフェをスタートさせ、本もまとめることができた。
現在『共感的コミュニケーション』という題名で紙の書籍と電子書籍(Kindle)で出ているものがそれだ。

現在は月に五回くらい、共感カフェを開催している。
今月も開催する。
私がファシリテートする共感カフェ(NVCの勉強会)は、基本的に少人数で、まったくの初心者も歓迎のざっくばらんな雰囲気なので、どなたも気軽に来てほしいと思っている。
人間関係やコミュニケーションに問題を感じている方のみならず、自分の生き方やはつらつとした生活に明確さがほしいという人は、そのヒントやきっかけをつかむお手伝いができると思うので、いらしていただきたい。

以下に、今月開催の共感カフェの情報を掲載しておくので、都合がつくものがあればご参加いただきたい。

草加〈Jugem〉共感カフェ(2.8)
2月8日(月)の夜、草加の天然石ブレスレット専門店〈Jugem〉にて共感的コミュニケーションのスキルを身につけるための勉強会を開催します。リピーターはオンライン参加も可。

カフェ・オハナ(三軒茶屋)で共感的コミュニケーション(2.9)
2月9日(火)夜7時半から、恒例の三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーション・ワークショップを開催。朗読と音楽のミニライブ付き。参加費1,000円+ワンオーダー。

共感カフェ@下北沢ステイハッピー(2.12)
下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉の共感カフェ、初の昼開催です。2月12日(金)午後3時から。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(2.19)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を2月19日(金)夜におこないます。

共感カフェ@羽根木の家(2.26)
2月の羽根木の家での共感カフェは、2月26日(金)19〜21時です。

これらのほかにも、3月にはいると Shining wings 主催のイベント「マインドフルネス☆共感的コミニュケーションLIVEセッション」が開催される。
こちらも興味のある方はぜひどうぞ。

2016年2月4日木曜日

捨てられない・片付けられないの反対側にあるもの

「断捨離」がブームになって久しい。
いまだにつづいている(どれだけものがありあまっているのか)。
あるいは、必要最小限のものしか持たずに生活する「ミニマリスト」がもてはやされている。
本もこれでもかというほどいろんな種類、いろんな著者のものがたくさん出ている。

その一方で、どうしてもものが捨てられない、部屋を片付けられない人もいる。
ひとり暮らしなら、多少の汚部屋であろうが、ゴミ屋敷みたいになろうが、まわりに迷惑さえかからなければ問題はないが、パートナーや家族がいるとそれは重大問題となる。
別れる・別れないという話になったり、深刻な衝突が起こったりすることもある。

なにかものがあって、たとえば着古してもう二度と着ないと想像できる服が何着もあったとして、それらを処分したいけれど、どうしても捨てられないという人がいるとする。
家族やパートナーからも、場所ふさぎになることを責められて、自分でも捨てなきゃと思っているのに、捨てようとすると苦しくなって、どうしてもできない。

そんなとき、どうすればいいだろうか。

「捨てられない」「捨てたくない」というふうに、自分がなにかを否定しているとき、すなわちなにかに対して「ノー」といっているとき、かならずその反対側にはそれに対して「イエス」といっているなにかがある。
そこを見て、自分自身に共感していくのが、共感的コミュニケーションの自己共感の方法だ。

「捨てられない」「捨てたくない」の反対側にあるのは、ものを大切にしたい、無駄にしたくない、ものの価値を社会的基準で決めたくない、捨てる捨てないの選択の自由が必要、といった自分の奥底にある大切なニーズが生き生きしているのかもしれない。
それを見つけることができるかどうか。

もしニーズを見つけることができて、それに深くつながったら、自然に落ち着きのある状態になるだろう。
そのとき、そのニーズを満たすにはさまざまな手段があることにも気づくはずだ。
「ものを捨てない」ことにしがみついて満たそうとしているニーズは、別の手段でも満たせることに気づけば、とたんに自由になれる。

なにかに執着しているとき、あるいはなにかを急いでやらなきゃならないとあせっているとき、そこにはニーズにしっかりつながれていない自分がいる。
その状態でおこなうなにごとかは、たいていうまくいかない。


カフェ・オハナ(三軒茶屋)で共感的コミュニケーション(2.9)
2月9日(火)夜7時半から、恒例の三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーション・ワークショップを開催。朗読と音楽のミニライブ付き。参加費1,000円+ワンオーダー。

2016年2月3日水曜日

【水マガ】2016年2月3日号(Vol.34)配信しました

「水城ゆうメールマガジン」(略して「水マガ」)の最新号を配信しました。

目次
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1 【共感】捨てられない・片付けられないの反対側にあるもの
2 【手帳】やらなければならないこと(TODO)を書きだす
3 キヅキミズキ
4 お知らせ
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登録(無料)はこちら

内容の一部を紹介します。

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「断捨離」がブームになって久しい。
いまだにつづいている(どれだけものがありあまっているのか)。
あるいは、必要最小限のものしか持たずに生活する「ミニマリスト」がもてはやされている。
本もこれでもかというほどいろんな種類、いろんな著者のものがたくさん出ている。

その一方で、どうしてもものが捨てられない、部屋を片付けられない人もいる。
ひとり暮らしなら、多少の汚部屋であろうが、ゴミ屋敷みたいになろうが、まわりに迷惑さえかからなければ問題はないが、パートナーや家族がいるとそれは重大問題となる。
別れる・別れないという話になったり、深刻な衝突が起こったりすることもある。

なにかものがあって、たとえば着古してもう二度と着ないと想像できる服が何着もあったとして、それらを処分したいけれど、どうしても捨てられないという人がいるとする。
家族やパートナーからも、場所ふさぎになることを責められて、自分でも捨てなきゃと思っているのに、捨てようとすると苦しくなって、どうしてもできない。

そんなとき、どうすればいいだろうか。

2016年2月2日火曜日

【YouTube】2015年12月「沈黙[朗読X音楽]瞑想」抜粋

2015年12月11日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースでおこなった「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演のもようから、ごく一部を抜粋して紹介します。

 野々宮卯妙 朗読
 水城ゆう  テキスト/ピアノ演奏

朗読に使用したテキスト「暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ」はこちらで公開しています。
映像はこちら(画像をクリックしてください)。


モバイル端末・ガジェットのバッテリー問題

多くの方もそうだろうと思うが、外出時に持ちあるくスマートフォン、タブレット、ラップトップ、デジタルカメラ、その他電子ガジェット類のバッテリー問題にはいろいろと工夫をこらしたり、頭を痛めたりしていることだろう。
私もそうだ。

私の場合、外出時に持ちだす電子機器は、最大装備でつぎのようなものがある。

 iPhone(私用電話)
 docomo Xi(公用=協会電話)
 MacBook
 CANON iVis mini(デジタルムービー)
 mobileWiFi端末
 iPad

優先順位は上から下にむかってさがる。
mobileWiFiはなくても、iPhoneのテザリングで切りぬけられる。
ムービーもiPhoneのカメラで代用できる。
ミニマムの装備のときは電話だけ持って、ほぼ手ぶらで出かけられる。
これだけでもほとんどコト足りるのだが、出先で時間があってちょっと仕事したい、というようなときにはMacBookは必須となる。

電話の予備バッテリーとしては、常時カバンの外にくっつけてぶらさげてあるSUNTRICAのソーラーバッテリーが便利だ。
iPhoneならほぼ1回分くらい充電できる。

問題はMacBookだ。
新型のMacBookはMacBookProに比べてバッテリー駆動時間が短いので、長時間の外出や、外で仕事をするときには、不安がある。
私のメインマシンであるMacBookPro 13インチは、公称10時間となっているが、体感では5、6時間くらいか。
新MacBookは公称9時間だが、体感では3時間くらい。

これ以上使いたいときにはやはりACアダプターを持ちあるきたい。
荷物がごちゃごちゃするし、かさばるしで、あまり好きではない。

ところで、ソーラーバッテリーのほかに、cheeroの12000mAhのちょう大きめ容量の予備バッテリーも持っている。
これはスマホなら何回分もフル充電するパワーがあるし、iPadやmobileWiFiにも給電できるので、ちょっと重いけれどフル装備のときはカバンにいれておく。

これにACアダプターまで持つのはいやだなと思っていたら、なんと新型MacBookは普通のバッテリーから給電できるという情報を得た。
調べてみると、USB-C型のケーブルがあればcheeroからも給電できるということで、さっそくケーブルを購入した。

つないでみると、給電できる。
駆動時間が倍近くになりそうだ。
また、このケーブルがあれば、普通のUSBの電源アダプタにつないで直接家庭用コンセントからも給電できる。
これでACアダプタを持ちあるかなくてすむ。

新MacBookについていろいろ文句をたれていたが、外部バッテリーとUSB電源アダプタが使えるということで、使い勝手が格段に向上した感じがする。


軽くて小さいし、かなり気楽に外に持ちだせそうだ。

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2016年2月1日月曜日

映画:ギヴァー 記憶を注ぐ者

2014年のアメリカ映画(日本公開は2015年)。
ロイス・ノーリーのベストセラーSF小説が原作。

私は原作を読まないまま映画を観たのだが、よくあるように映画は原作の劣化版なのだろうか。
それとも原作に忠実なのだろうか。
私の経験では、映画が原作を超えることはごくまれなことだが、この映画はどうだろうか。

などとうだうだ書いているのは、私にとってこの映画はいまいちピシッと締まりを感じなかったからだ。
「SFは絵だ」という有名な言葉があるが、たしかに私の好きなSF映画は映像だけでぐっと来るものが多い。
「エイリアン」「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」「猿の惑星」などなど。
そういう意味では「ギヴァー」は心踊らされるSF的映像が生ぬるい感じを受けた。

映画というより、テレビシリーズのような作りに見えたのだ。
テレビドラマ時代の「スタートレック(宇宙大作戦)」みたいな。
いや、「スタートレック」自体はよくできたシリーズだと思うけれど。

ストーリーもこれがベストセラー小説なのか? と思えるようなとくにピリッとしたところのない、よくあるディストピアもので、ラストも説得力にかけるファンタジーに近いものだ。

私にとっては残念な映画だったが、キャストは豪華だ。
メリル・ストリープ、ジェフ・ブリッジス、テイラー・スウィフト。
主人公役の新人ふたりも将来有望な感じ。

こういう残念な映画を観たり、小説を読んだりするとき、私のような作り手にとってはひとつだけ大きなメリットがある。
完璧な作品を観せられてしまうと「とてもかなわない」と、へたすると落ちこんで終わり、なのだが、物足りない作品を観ると俄然、創作意欲がわいてくる。

そんなわけで、いま私は、二本ばかり長編小説を書きあげたくなっている。
SFではなくてNVC小説だけど。


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