2019年1月31日木曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(27)

朗読コンテンツを製作するにあたって、読み手が何人か必要だった。
FM世田谷でいっしょに番組をやっていたフリーアナウンサーの高橋敬子さん(現在は工学院大学孔子学院院長)が、当時、声優の養成学校で教えていたので、声優の卵や、専門学校を卒業した駆け出しの声優やナレーターを何人か紹介してもらった。

高額のギャラを支払えないので、そういう人たちに頼んだのだが、若い人ばかりで、現場は非常に楽しかった。

2001年当時、私は豪徳寺のワンルームマンションに住んでいた。
そこに収録機材を持ちこみ、文字通り手作りでコンテンツを作った。
最初に収録したのは夏目漱石の作品で、相原麻里衣に「変な音」「文鳥」「坊っちゃん」などを読んでもらった。
田中尋三に『吾輩は猫である』も読んでもらった。

たくさんの若手声優やナレーターが出入りしたが、問題がひとつあった。
それは、みなさん、正しく美しく日本語を読むのは上手なのだが、朗読として個性的で魅力ある表現ができない、ということだった。
朗読コンテンツというと、私のなかでは新潮社の文芸朗読のカセットシリーズ(いまはCD)のイメージがあった。
これは役者やベテランのアナウンサーが実に個性豊かに文学作品を朗読しているシリーズで、何度聴いても魅力的で、まるで音楽を楽しむように聴けるのだ。

アイ文庫では最初から、作品の「内容」を伝えるのではなく、読み手の「表現作品」としての朗読コンテンツを作ることをめざした。
若手朗読者を育てるために、朗読研究会のようなものが自然発生的に誕生した。
それは朗読講座のような形に発展し、やがて広く一般にも募集するようになった。
もっとも、やってくるのはほとんどが、プロの声優やナレーター、役者、あるいはそれを目指している人たちだった。

そのなかからすぐれた朗読作品がいくつか生まれていった。
音楽もオリジナルにこだわった。
テーマ曲やジングルなど独自に製作し、アイ文庫ならではの音声コンテンツがつぎつぎと生まれていった。

2019年1月30日水曜日

朗読ゼミとオープンマイク、ひさしぶりの共感編物カフェ

写真は昨日の朗読ゼミ後、参加者と行った国立の老舗スパゲティ屋〈イタリア小僧〉のスパゲティ、しめじとイカのペペロンチーノ。

明日31日は午後4時から朗読ゼミを開催予定。
どなたも参加できます。
※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらから。

朗読ゼミは今週土曜日の2月2日午前にも開催します。

明日の朗読ゼミのあとは、国立富士見通りの西のほうにあるライブハウス〈木乃久兵衛(キノ・キュッヘ)〉に行って、オープンマイクイベントに参加する予定。
野々宮卯妙とゼミ生のゆきこさんがエントリーしている。
ピアノがないので、私はヤマハのボーカロイドショルダーキーボードで参戦。
これはあたらしい試み。
これがうまくいったら、どこでも朗読セッションができるぞ。

明後日・2月1日はひさしぶりに国立春野亭で共感編物カフェを開催する。
午後3時から8時まで、好きな時間に来て、好きな時間に抜けることができる。
国立まで来れない人はオンラインでも参加可。
編物でなくても、料理しながらとか、確定申告の計算しながらとか、縫い物しながらとか、なんでも好きな手仕事を持ちよってよい。

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらから。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(26)

東京の印刷会社の社長から連絡があったのは、そんな時期だった。
彼もまた私のメルマガを愛読してくれていて、私と読者が交流しているようすを見てビジネスの可能性を感じたらしいのだ。

彼のアイディアはこうだった。
ケータイ向けの無料メルマガをさらに配信して、そこに広告を載せる。
若い読者に向けて広告を打ちたいスポンサーはいくらでも見つかるだろう、という予想だ。
そのために会社を立ちあげ、メルマガ配信のためのシステム開発も独自におこなう、資金は自分が提供する、コンテンツを提供してくれ、というわけだ。

おもしろいと思った。
私は上京し、綿密な打ち合わせをおこなった。
仕事場も東京に移すことした。

システムエンジニアが雇われ、配信システムができた。
メルマガを広める方法や広告獲得の方法も練られた。

アイ文庫というコンテンツ配信会社が法人登記された。
社長は印刷会社の社長が兼任した。

当初はかなりの収益を見こんで意気揚々とスタートした事業だったが、たちまち大きな壁にぶつかった。
それは、携帯電話で配信されるコンテンツに広告がつくことを、ケータイユーザーが忌避しはじめたということだった。
またそのことをスポンサーも知り、広告出稿で取れなくなった。

たちまち事業は頓挫した。
せっかく東京に仕事場を移したのに、私もやることがなくなってしまった。
そんなところへ、東京でのラジオ番組製作の話が舞いこんできたのだ。

阪神淡路大震災をきっかけに小規模のラジオ局——コミュニティFMが全国各地に生まれていた。
行政と地元の民間資本が資金を出し合う、第三セクター方式の放送局だ。
東京にも、東京近辺にもたくさんできた。

私が住んでいた世田谷区にもFM世田谷が用賀にあって、電波を出していた。
そこで番組を作ろうという話が、フリーアナウンサーの女性から持ちこまれた。
彼女がしゃべり、私が番組の構成を書く。
曲のブースで収録して、音を自宅に持ちかえり、編集して、完パケ素材として局に納品する。

私がパソコンに強かったというのもあるが、音声編集ソフトや収録機材など周辺機器がかなり安価になり、個人でも買えるようになってきたことも大きかった。
音声編集ができるパワーの自作PCを組み、編集ソフトはSONARというかなり強力なデジタル・オーディオ・ワークステーションを使った。

ほぼ持ち出しの仕事だったが、もともとラジオ製作は大好きだったので、楽しくてしかたがなかった。
ラジオ番組だけでなく、音楽や朗読など音声コンテンツの製作にも手をのばしていった。

ピアノ七十二候:大寒/鶏始乳(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
大寒の末候(72候)「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年1月29日火曜日

明後日のオープンマイクに向かう朗読ゼミ(体験参加あり)

定期開催ではない臨時開催の現代朗読ゼミ、終了。
ゼミ生のゆきこさんが、自分のレッスン日をオープンにしてくれて、体験参加者を受け入れることになった。
今日も体験参加者がひとり。

ちなみに、来月2月の臨時ゼミ開催日は2(土)10時半/16(土)10時半/24(日)10時半、いずれも約2時間。
参加申し込みおよび問い合わせは、こちらからどうぞ。

今日は、
「現代朗読ってなんで〈現代〉ってついてるんですか」
からはじまった。
その質問をした体験者と私との問答があまりにおかしいというので、漫才としてYouTubeで公開しようと野々宮から提案されたのだが、録画していなかったので、いずれ文字で再現してみたい。

ゆきこさんとは明後日の夜、ふたたびオープンマイクに挑戦する。
国立の木乃久兵衛(キノ・キュッヘ)というライブハウスでおこなわれるイベントに、ゆきこさんと野々宮がそれぞれエントリーしている。
キノ・キュッヘにはピアノがないので、楽器は持ちこみ。
私はヤマハのショルダーキーボードを持っていって、MacBookにつないで鳴らそうと思っている。

明後日・31日の夜なので、野次馬歓迎。

そして明々後日・2月1日はひさしぶりに共感編物カフェを開催する。
参加申し込みおよび問い合わせは、こちらから。

おいしいイベント

忘れないうちに。
清里・清泉寮のイベント「共感EXPO」の食事の充実ぶりは目に余るものだった(笑)。

食事のメインは鶏か魚か肉。
どれもおいしい。
前菜のサラダやオードブル、スープは取り放題。
デザートも10種類くらいのスイーツが選び放題で、ほかにも珈琲や紅茶、オレンジやアップルなどのジュース、ジャージー牛の牛乳やヨーグルトなど、自由に選べる。

朝食は和食か洋食、あるいは両方でも選べる。
飽食、という文字が浮かぶが、バイキングを大勢でシェアするので、無駄は最小限かも。
もっとも、食べすでき太るのはこちら側の問題。
おいしすぎてセーブするのがつらい。
ついつい取りすぎてしまい、もったいないと全部たいらげてしまう。

食事がおいしいのは大事だね。
おいしい、というより、きちんと丁寧に手がかけられているのがわかって、こちら側が大切にされている感じかな。
家でもこうありたい。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(25)

1990年代のなかごろから、私はネットを使っていろいろと試行錯誤をしていた。
その目的は、もちろん、どのようにしたら私が書いたものを多くの人に届けることができるか、ということだった。

紙本の商業出版の世界にとどまっていては気づきにくいことに、私は気づきはじめていた。
自分が書いたもの——コンテンツに値段をつけて広く売る、おもしろいものがたくさん売れて、多くの収益が発生する、それが従来の収益システムだった。
ところがネットの世界では、コンテンツの質にかぎらず安いもの、無料のものが広まる。

小説にかぎらず音楽もそうだった。
お金をかけて高額なスタジオやエンジニアを使って作った楽曲よりも、安直に自宅で録音したようなクオリティの低いコンテンツのほうが、多くの人に聴かれる。
無料ならば、という条件付きだが。

小説だって無料にすれば多くの人に読んでもらえるだろう。
私ははたと気づいた。
そもそも自分は人に読んでもらいたくて小説を書きはじめたのではないか。
自分が小説を書きはじめたのは、それでお金をもうけるためではなかった。
それなのに、出版社からは「売れる小説を書け」と求められつづけて、自分もそれが自分の目的であり、使命である前提で仕事をしていた。

書いた小説でお金がはいってくるより、多くの人に読んでもらえたほうがうれしいではないか。
それならいっそ、無料で公開してしまえ。
さいわい、ネットという便利なツールがここにある。
ひょっとしてこれは、個人表現者にとって、便利ということばではあらわせないような、とてつもない仕組みなのではないか。

そう思って私はまぐまぐで自分の小説を無料で配信しはじめた。
するとメルマガ読者がどんどん増え、あっという間に数千人規模に育った。
驚いたことに、その多くがケータイ経由で読んでくれている人たちで、それは中高生や二十代の若い人たちだった。
私はネットの双方向性を利用して、彼らとメールや掲示板で交流し、生のフィードバックをリアルタイムでもらうというスリリングな体験に夢中になった。

2019年1月28日月曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(24)

1986年から職業的・商業的小説家になったわけだが、東京に居を移すことはなかった。
ラジオやテレビの仕事もあったし、名古屋の劇団や朗読者である榊原との関係もあった。
商業出版の世界はほぼ東京に集中していたので、やりにくい面があることもたしかだった。

定期的に上京し、まとめて出版社をまわり、仕事の打ち合わせをした。
ほかに、地方に在住していながら情報を得る方法として、パソコン通信という電子ネットワークがすこしずつスタートしている時期だった。

最初に日経の新聞記事データベースがスタートしていた。
アクセスポイントが金沢にあり、データベースに接続するにはそこに電話をかけ、音響カプラーという接続機器でパソコンをつなぐ必要があった。
利用料金も高く、たしか1分10円とか、それ以上の値段だったと思う。

朝日新聞のデータベースサービスもスタートした。
そして日本電気がPC-VAN(現Biglobe)という全国ネットをスタートさせ、ほぼ同時期に富士通がNIFTY-Serve(現ニフティ)というパソコン通信網をスタートさせた。
いずれも福井市内にアクセスポイントがあり、私の住んでいる町からは市外局番にはなったが、日経データベースよりだいぶ安い値段でネットが使えるようになった。
またパソコン通信は情報を取得するだけでなく、ユーザー同士のコミュニケーションの楽しみが広がっていった。

地元の工業技術センターや家電店が運営する地域のBBSもできはじめた。
福井放送の当時の社主が先進的な人で、福井放送でも「たんぽぽ」というBBSがスタートすることになった。
私はそのシステムオペレーターを引きうけた。
また、NIFTYでも「本と雑誌フォーラム」のシスオペをするようになった。

こんなふうに、活字出版の世界からしだいに電子ネットワークの世界に使う時間が増えていった。
バブルに陰りが見えはじめた1990年以降には、私が主に書いていたノベルズという形態の小説本が徐々に売れなくなっていった。
私も活字出版からの収入が激減していった。
多くの書き手が消えていったが、私は地元のラジオ、テレビや、ネットの仕事の比重が増えていたので、なんとかやれていた。

2000年以降にはインターネットが普及しはじめるのだが、その前に携帯電話の爆発的普及がやってきた。
私はネットで読める連載小説を自分ではじめたり、それをマネタイズする方法を探ったりして、まぐまぐというメルマガ発行システムを利用していたのだが、気がつけばその小説を多くの若い人が、しかも携帯電話で読んでいる、という状況が現れていた。
その状況にたいして、東京のある印刷会社の社長から私に直接連絡がはいったのは、2000年ごろのことだった。

清里〈清泉寮〉での共感EXPOに参加してきた

清泉寮は2014年のNVC国際イベント「IIT」で滞在したことがあって、そのときも12月初旬という冬だった。
今回も冬で、標高1500メートル近くということもあって外は厳しい寒さだったが、施設内は暖かくて快適、イベントもあたたかなつながりを感じられて、豊かな時間だった。

イベントといっても、なにをやるのか事前には一切決まっていなくて、ただ「共感」というキーワードをベースに活動している人たちがつどい、その場で起こることを即興的に楽しむという会だった。

共感はNVCに限定されない。
初回だったのでNVCに関わったり学んだりしている人が多かったが、次回以降はノンNVCの人たちもたくさん参加してくれるのだろうということを予感させる内容だった。

いくつかのプログラムが即興的に生まれ、それぞれが参加したりしなかったり楽しんだ。
私も楽しんだ。
これまでつながりのなかった人たちともつながることができた。

また、清泉寮の食事がすばらしかったのだ。
確実に体重が2キロは増えたね。
今日からまたせっせと身体を絞ろうかな。

私自身はなるべくなにか役に立とうとか、自分を知ってもらおうということをせずに、ただその場にいる、「プレゼンスをもって存在する」ということを心がけた。
そのための個人的ツールとして、編物がとても役にたった。

ほかには、ボディNVCともいうべきごく短いワークを二回やらせてもらった。
たとえば「自己共感によって体重が増えるワーク」とか(笑)。
「自分を信頼することで相手からの影響を受けないワーク」とか。
ひょっとしてボディNVCだけに絞ったワークショップもできるかもね。

今後の自分自身のありようについて大きなヒントをつかめた時間だった。
発起人となったMari・のぞみ・春野さん、参加者のみなさんに心から感謝する。

ピアノ七十二候:大寒/水沢腹堅(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
大寒の次候(71候)「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年1月25日金曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(23)

劇団クセックは座長で演出の神宮寺啓の思想とイメージを具現化するための劇団で、古くは早稲田小劇場などいわゆるアングラ劇団にルーツを持っているが、神宮寺が南山大学のスペイン語学科出身ということもあって、スペイン演劇を中心に上演していた。
ロルカやセルバンテス、アラバールらの作品を神宮寺独特の前衛的な味つけをしていて、「動く絵」などとも称されていた。
その劇団から私に脚本依頼が来たのだ。

喜んで書いた。
「エロイヒムの声」というタイトルで、いわゆる脚本形式ではなく、文字と言葉が句読点も改行もなくずらずらと書き連ねられた小説のようなシナリオだった。
それを神宮寺が再構成して演出した。

「エロイヒムの声」は名古屋の七ツ寺共同スタジオ、岐阜の御浪町ホール、金沢のアートシアター石川、豊橋の愛知大学、福井大学の学園祭特設ステージなどで上演された。

自分が書いたものが、ステージの上でいわば立体化されて、役者たちによってリアルタイムに上演されるというのは、かなりエキサイティングな体験だった。
いま現在、自分でテキストを書き、朗読者に読んでもらい、なおかつそのステージにピアニストとして参加するというスタイルが、私にとってもっとも得意でありしっくり来るのは、このあたりに原点があることはまちがいない。

劇団とは別に、榊原とのあらたな企画も持ちあがった。
それはフランスの作家、ジャン・ジオノの『木を植えた人』の朗読会の企画だった。
榊原が朗読し、FM福井のディレクターの杪谷(ほえたに)直仁が昭明や音響など舞台を担当し、私がピアノを弾くという内容だった。

ところが、残念ながら、この企画は実現する前に流れてしまった。
とはいえ、なんらかの形でやれないかということで、私は参加できなかったのだが榊原と杪谷のふたりで別の機会に朗読会をおこない、それを聴いた人が「うちでもやってほしい」ということで次につながり、それがまた次につながっていくという形で、三百数十回を数える連続朗読シリーズとなって現在までつながっているという、おばけ企画に育っている。
私も何度かこの朗読会を自分でも招聘したり、機会があれば演奏で出演したりもしている。

2019年1月24日木曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(22)

約一年後に私は小説家として商業デビューすることになる。
その間の経緯は音楽とはやや離れるので、ごくかいつまむことにする。

電話をかけてきたのは徳間書店の雑誌『SFアドベンチャー』の編集の今井さんだったが、私の原稿を発見してすぐに編集長の石井さんに見せ、そして連絡することになったという。
すでに書いたが、私の原稿は200枚ちょっとという非常に中途半端な分量で、それをどうするかという話になった。

私は上京し、まだ新橋の烏森口にあった古い徳間書店の社屋をたずねた。
この社屋はジブリ映画「コクリコ坂」に出てくる。
内部のようすもかなりきっちり描写されている。
私がたずねたときは、ちょうどそのジブリ(当時はまだジブリではなかった)の「天空の城ラピュタ」の公開直前で、ポスターがたくさん貼ってあった。

相談の結果、ノベルスとして出版できる分量の400枚以上まで書き足すことになった。
この作業がまた過酷で、何度書きなおしてもオーケーが出ず、生まれて初めて小説の生みの苦しみを味わった。
しかし、このときの経験がのちのちに生きてくることになる。
いまでは今井さんと石井さんに感謝してもしたりないと思っている。

いろいろあって、1986年の夏に私の処女小説が徳間ノベルスから出版された。
出るとすぐに、あちこちの出版社から連絡が来た。
中央公論や、いまはなき朝日ソノラマ、天山出版、どれもノベルスの依頼だった。
雑誌からも原稿依頼があった。
急に忙しくなった私は、思いきってピアノ教師の仕事を大幅に縮小することにした。
学習塾の仕事もやめた。

ラジオの仕事はつつづけていた。
それに加えて、田舎で小説家デビューした人間は大変注目を浴び、地元のテレビ局から出演依頼がやってきた。
こののち、福井テレビと福井放送というふたつのテレビ局に準レギュラーで出演するようになったり、福井新聞や地元のタウン誌にも連載を持つようになる。

同時に、榊原忠美との朗読と即興演奏のライブパフォーマンスは相変わらずつづけていたし、榊原が所属する名古屋の劇団クセックとの関わりも、ますます深まっていった。
世間ではバブル最盛期から、徐々にその陰りが見えはじめてくる時期だった。

2019年1月23日水曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(21)

1985年の夏、私は地元と出張先の田舎で子どもたちにピアノを、福井市内で大人のためのポピュラーピアノ教室とラジオの仕事を、そしてもうひとつ、近所の小さな本屋で小中学生相手の学習塾の先生もすこしだけやっていた。

世間では豊田商事の会長が取材陣の目の前で刺殺されるという大事件が起こり、松田聖子と神田正輝が結婚していた。
その前の年の10月には息子が生まれたばかりで、仕事と育児で忙しくすごしていた。

その日は近所の本屋で子どもに勉強を教えていた。
そこへ家から連絡が来て、どこかの出版社から電話があって本がどうとかいってるんだけど、まったく要領を得ない、こちらからかけなおしてといわれたんだけど、と電話番号を書きとめてあるという。
本を注文したかなにかで、そのことじゃないの? といわれたが、たしかに私はけっこう本を買っていて、たまには出版社に直接在庫がないか問い合わせることもあったので、なにかそんなことだろうと思った。

家にもどり、メモにあった番号に電話をかけた。
東京の番号だった。
かけると徳間書店という出版社で、電話をかけてきた人の名前は今井さんといった。

今井さんが電話に出たので、私は名乗り、お電話をいただいたそうですが、と伝えると、向こうでなにやら絶句するような感じがあった。
「やっと見つけましたよ。いやあ、大変だった」

なにが大変だったのかといえば、私の電話番号を探しあてるのに苦労したのだという。
「小説の原稿を送っていただきましたよね。かれこれ1年半くらい前のことですが」
そういわれても、とっさになんのことかわからなかった。
それほどすっかり書いた小説のことを忘れてしまっていたのだ。

ようやく思いだした。
それにしてもずいぶん前の話で、まだ京都にいたときのことだ。
今井さんによれば、原稿を読んで連絡しようとしたはいいが、京都の電話番号はもう使われていないという。
きっと引っ越したのだろうと、あきらめかけたのだが、原稿の末尾に私の略歴が書いてあり、そこに出身地が記されていた。
だめもとで「104」に問い合わせたら、私の電話番号が判明したというわけだ。

今井さんがいうには、
「小説が大変おもしろかったので出版したいと考えています。つきましては一度東京までおいでいただけないでしょうか」
ということだった。

2019年1月22日火曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(20)

朗読と即興ピアノのパフォーマンスをすぐにまたやることになった。
次はもうすこし大きな会場でやろうということになり、福井の〈みゆき座〉という映画館の地下にあったディスコを借りた。
そしてゲストも呼ぶことになった。

ゲスト共演するのは水上勉の小説で有名になった越前竹人形。
浄瑠璃人形のような人形で、若手の使い手がからむ。
会場には舞台装置のような飾りと照明が演出された。
私の実家にあった古い蚊帳を吊りこんだりして、かなり大がかりなイベントとなった。

使ったテキストは寺山修司のもの。
大勢の人が詰めかけた。
榊原が自在に動きながら読み、私が即興でピアノを弾き、越前竹人形が怪しげな雰囲気をかもしだした。
かなりおもしろいパフォーマンスだったと思う。
私もおおいに楽しんだ。

そんななか、私たちの活動に興味を示した榊原の知り合いの名古屋の女性が、みずからプロデュースを買って出てくれて、名古屋と岐阜で公演を打つことになった。
共演者に岐阜のフルート奏者の男性と、舞台装置に奈良の造形作家の大がかりな木彫を運びこんだりした。

名古屋では電気文化会館、岐阜では御浪町ホールでやることが決まり、ポスターやチラシも作られた。
前宣伝として中日新聞や岐阜放送などのラジオ局にも出た。

この公演は大成功で、客入りもかなりあった。

朗読者としての榊原忠美との付き合いは、このあとも長くつづいて、現在にいたっている。
私がもっとも信頼して、どんな突拍子もないアイディアでも本番中にぶつけることができる共演者のひとりだ。

榊原忠美は現在も、名古屋では売れっ子のナレーターであり、クセックACT名古屋の看板俳優であると同時に、300回を軽く越える「木を植えた人」の連続朗読公演をおこなっている朗読家である。
私が現在、即興ピアニストとして活動をつづけているその礎の重要なパートをになった人として、大切な存在と思っている。

ところで、FMラジオの仕事はその後もつづいていたが、その年の夏に思いがけない出来事が起こって、私の人生は大きく別の方向に舵を切っていくことになった。

2019年1月21日月曜日

映画:玄牝 -げんぴん-

音読トレーナーのいしはらまなみが川崎のコミュニティハウスMUKUで開いた上映会で観てきた。
2010年公開、河瀬直美監督作品。

岡崎の吉村医院という、自然分娩を推奨している産科医院を舞台にしたドキュメンタリー映画で、以前からちょくちょく話を聞いたり、あるいは直接吉村医院と関わっている人たちと交流があったりと、気になっていた映画だった。
ようやく観ることができた。

まず最初にいいたいのは、
「すべての男性にこの映画を観てもらいたい」
ということだ。
少年も青年もおっさんもおじいさんも、未婚も既婚も、全員が観るといいと思う。
命をつなぐ女性という存在の偉大さのほんの一端でもかいま見ることができるだろう。

この映画を観たあと、電車のなかでベビーカーを押しているママにむかって舌打ちするようなやつはいなくなるだろう。
大きなお腹を抱えた妊婦に席が必要かどうか訊かないやつはいなくなるだろう。

そういう映画だ。

しかし、ただ女性賛歌、出産賛歌というだけの映画ではない。
撮影と監督も女性だが、この河瀬直美という人は一筋縄ではいかない。
批評精神がそこここで錆をきかせていて、吉村先生ですら欠点や苦悩をしっかりとあぶりだされている。
ただただ自然分娩サイコー、というようなメッセージは注意深く汚されている。

命がつながっていくことの喜びや大切さと同時に、重さ、苦しさ、複雑さも表現されているこの映画を、すべての男性が観るといいのに、と思ったのだ。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(19)

私が番組構成を書いた番組が、実際にオンエアスタートした。
生番組なので、私もディレクターの横で立ちあった。

ラジオの仕事は楽しかった。
楽しいばかりでなく、このメディアがいまにいたるまで、私の表現スタイルの原点になっている。

名古屋のタレント派遣事務所からやってきた榊原忠美は、前にも書いたようにちょっと変わったところのある人だったが、話してみるといろいろ共通の話題があることがわかった。
私はそのころ、ラテンアメリカの文学にはまっていて、集英社の全集を買ったりしていたのだが、榊原もそちら方面に造詣が深かった。
とくにガルシア=マルケスやボルヘスの作品を読みこんでいて、話が合った。

なにかいっしょにやらないか、という話になった。
彼が作品を読み、私が即興でピアノを演奏する。

このスタイルがいま現在——これを書いている2019年にまでずっと私の表現の中核スタイルとしてつづいていることは、当時は予想もしていなかったことだった。
ただおもしろそうだからやってみよう、という軽いノリだった。

私はちょうどそのころ、福井の駅前にある楽器店でポピュラーピアノを教える仕事をはじめていた。
大人のためのピアノ教室がはやりはじめたころで、福井ではクラシックピアノの先生はたくさんいたが、ジャズやポップスを教えられる者はほとんどいなかった。
私は楽器店のレッスン室で、OLやサラリーマン、高校生などに、ジャズやロック、ポップスのピアノ演奏を教えはじめたばかりだった。

榊原の朗読イベントの話が持ちあがったとき、会場としてその楽器店のビルの上の階にあるイベントスペースを借りられることになった。
話はとんとんと進み、ラジオ告知もやらせてもらったり、新聞社の地方記事でも出してもらったりした。
そのあたりの展開は、劇団員が長い榊原が手慣れていた。

朗読作品はガルシア=マルケスの「大きな翼を持った老人」に決まった。
1985年の春先のことだったと思う。
イベントは盛況で、榊原の朗読は奇矯で前衛的でありながらも、自由自在、音楽的であり、私も思う存分自由にピアノを弾き、かつてないような楽しさを満喫した。
当然ながら、「またやろう」という話になった。

2019年1月20日日曜日

撃研でクラクラ

今月は1回しか開催されない昭島スポーツセンターでの韓氏意拳技撃研究会に参加してきた。

いつもどおり、まずはウォーミングアップ。
……の前に、体操マットを敷いて、軽く受け身の練習。
高校生のときにすこしやったことがあるが、柔道の前回り受け身だ。
これが思ったよりやばかった。

頭を打たないようにやや首をひねり、肩口から背中へマットにつくように前回りをするのだが、ぐるりと回転すると思いがけず強烈なめまいに襲われた。
そういえば、前回りなんて何十年もやっていない。
三半規管がなまってしまっているらしい。
たった一回回っただけなのに、めまいで上下感覚が失われて、即座に立てないほどだった。

そのあと、ウォーミングアップがてら、体育室をぐるっと走り、一周ごとにマットで前回り受け身をしたのだが、なんとか徐々に回転に慣れてきて、徐々にめまいはおさまっていった。
それにしても、乗り物酔いのような気持ち悪さがしばらくつづいたのはやばい。

ウォーミングアップのあとは、対人でのコンタクトの練習。
駒井先生は「フルコンタクト韓氏意拳」などと冗談をいっていたが、通常韓氏意拳では打撃のコンタクトも対人練習もない。
ひとり稽古が中心になっている。
しかし、この対人稽古をつうじて、ひとり稽古をおこなうときの大きなヒントを得ることができる。

そもそも武術の経験もない、日常での運動経験も薄い者にとって、いきなりただじっと立っているだけのひとり稽古は雲をつかむようなもので、なかなかその意義を理解できるものではない。
ある程度の経験があり、また日常的に身体を使う習慣を持つことが、ひとり稽古のベースになるというのが駒井先生のアイディアで、実際にやってみると賛成できることがわかる。

しかし、対人でのコンタクト練習といっても、練習相手には女性もいるし、私も含め年齢を重ねた者もいるので、節度が求められていることは安心できる。
武術の稽古において「怪我をしない」という信頼感があると、さまざまな観察や試行ができるように思う。

駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級&養生功講習会を1月21日(月)14時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

ピアノ七十二候:大寒/款冬華(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
大寒の初候(70候)「款冬華(ふきのはなさく)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(18)

地方都市でポピュラー音楽に詳しく、演奏もできて、しかも生放送である程度臨機応変にしゃべれるという人間がいたとしたら、ラジオ局にとっては使いやすい人材だったのだろうと思う。
私も自由になる時間がたくさんあったので、FM福井からのオファーを受けることにした。
なによりおもしろそうだった。

ラジオ局での私の最初の仕事は、番組の構成を作ることだった。
タイムテーブルにそってどのタイミングでだれがなにを話して、どのタイミングでどの曲を流し、どのタイミングでどのCMをいれるか、といった構成表を書くのだ。

パーソナリティはある程度「こんな感じのことを話す」という指示をしておけばいいが、アナウンサーには原稿を書いておく必要がある。
また、番組の進行に合わせた選曲も必要だ。
私は局のCDライブラリーに出入りする自由をもらった。
そこでさまざまな曲を聴き、選び、番組を構成するのだ。
その課程で、私はかつてないほどたくさんの、そしてさまざまな種類の音楽を聴くことになった。

自分の好みだけでなく、番組の進行に合わせた音楽なので、これまで聴いてこなかったようなジャンルの音楽もたくさん聴いた。
ジャズはもちろん、ポップス、ロック、クラシック、イージーリスニング、邦楽、そして世界のさまざまな民族音楽。

これは大変おもしろく、そして勉強になった。
かつて文学作品を系統立って読みあさったような体験を、音楽についても得ることができたのは、貴重だったと思う。

私が最初に構成した番組は、初めて出演した情報番組だった。
この番組には局アナのほかに、名古屋のタレント事務所から派遣されてきたタレントも出演していた。
そのタレントは名古屋でもかなり売れっ子のナレーターだったが、本人はナレーターは食い扶持、本職は役者と自認していて、実際に名古屋の劇団に所属している俳優だった。

その劇団はKSEC名古屋という名前で、正式名称は「国際青年演劇」といい、早稲田小劇場の流れをくむ前衛劇団だった(いまでも元気にクセックACTという名前で活動している)。
そこに所属している榊原忠美という役者がタレント事務所を通してFM福井に派遣されてきていたのだが、彼との出会いが私の即興ピアニストとしての道を、その後決定づけることになった。

2019年1月19日土曜日

体験参加者が加わって現代朗読の基本をレッスンする

定期開催の朗読ゼミは休講になって、個人レッスンのみに移行したばかりなのだが、ゼミ生のゆきこさんが自分のレッスンに体験参加者も受け入れてもいいといってくれたので、開催日程をオープンにしたところ、参加申し込みがあった。
日程をオープンにしたといっても、ほとんど告知らしい告知をしていなかったので、ネット検索で見つけてくれたのは稀有といっていい。

聞けば、これまでほとんど表現活動はやったことはないのだが、先日、家族に雑誌の星占いのところを読み聞かせていたところ、朗読するのがだんだん気持ちよくなってきて、経験したことのない高揚感に包まれたのだという。
それをまた体験できないかと、あちこちネットを検索して、現代朗読にたどりついたらしい。
よくぞ来てくれました。

ゼミ生のゆきこさんと現代朗読家の野々宮も参加して、現代朗読がめざすところを確認し、実際にエチュードをやってみる。

上手/下手、正しい/間違いの世界ではなく、自分自身の生命現象をいかに正直に誠実に伝えることができるか、オリジナリティに鋭くアプローチする練習をいっしょに試みる。
ほかではない練習法でとまどう人もいるが、今日の参加者のゆうきさんは素直に受け入れていろいろ試してくれた。
観察の眼も素直で、言語化された気づきもかなり的を射ている。

後半は実際に朗読をやってもらったのだが、こちらの演出に応じてどんどん変化し、最後には自身の存在の奥深さをかいま見せるような、聴いているこちらがドキドキするような、もっとずっと聴いていたいような読みを聴かせてくれて、びっくりすると同時にうれしかった。

そんな彼女、さっそく私たちの仲間に加わってくれることになった。
いったん定期開催を取りやめたのに、これは復活したほうがいいのかな。
仲間が増えればそれだけ稽古にバリエーションができるし、また群読表現をいっしょに作っていくという楽しみもできる。

2月のゼミ開催予定は以下のとおり。

 2月2日(土)/16日(土)/24日(日)

参加申し込みはこちらから。
体験参加も歓迎です。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(17)

〈Space B’〉はビーちゃんという、いまでもお元気だと思うが、福井ではちょっとした有名人がやっていた現代美術のギャラリーで、まだ実家にもどって間がないころ、福井にもおもしろい場所がいくつかあるらしいと聞きつけていたひとつだった。

行ってみると、ちいさなギャラリーだったが、土屋公雄さんという彫刻家の個展をやっていて、それはすばらしい作品群だった。
その後、土屋公雄さんとは交流がつづいたのだが、いまや、というかそのころから、日本を代表する彫刻家のひとりだ。

土屋さんとは別に、ギャラリーの主のビーちゃんもおもしろい人で、自身はドラマーなのだった。
フリージャズも好きだということで、当時脚光を浴びていた美術家とのパフォーマンスもおこなっているらしかった。
美術館でのパフォーマンスに即興演奏で加わっていたりして、私も興味を引かれた。
向こうもこちらのことをおもしろがってくれて、近いうちにおこなわれる商店街のイベントでの演奏に誘ってくれた。

臨時にあつらえられた屋外ステージで、ドラムとキーボードによる即興演奏を好きなだけやる、というゆるいイベントで、まあビーちゃんの顔ででっちあがったものだろう。
とにかくおもしろそうだったので引き受けることにした。

地方都市ではちょっと変わったイベントがあるということで、放送がはじまって間がなかったFM福井から、情報番組に生出演して内容を紹介してくれないか、という依頼がビーちゃんを通してやってきた。

放送法が改正されたばかりで、地方都市にもFMラジオがつぎつぎに開局していた。
FM福井も地元の新聞社や銀行などが資本を出してできたばかりだった。
東京FM系列の、ジャパン・エフエム・ネットワーク(JFN)から番組を配信されると同時に、地元オリジナルの番組もけっこう作っていた。

そのうちのひとつに、土曜日の午前中に地域のイベント情報などを紹介する「情報パック」という番組があって、そこに出演することになった。
ラジオに出演するなどというのは、私は生まれてはじめてのことだったし、ビーちゃんもそうだった。

情報パックはFM福井のアナウンサーとディレクター、そしてパーソナリティとして名古屋からやってきたタレントがやっている番組だった。
生放送なので、タレントとアナウンサーから聞かれることに臨機応変に答えなければならない。
しかもこのタレントが一風変わった人で、けっこう意地悪な突っ込みをいれてくるのだった。

私は案外、そういうのは平気だった。
あまりひと前であがるということがない性格で、ラジオでも落ち着いていたけれど、ビーちゃんはけっこうしどろもどろになる場面があって、そのたびに私が助っ人にはいるという格好になった。

番組が終わってすぐ、たぶんその日の午後か翌日のことだったと思うが、ディレクターから私に直接電話がかかってきた。
「番組作りを手伝ってみない?」
というのだった。

2019年1月18日金曜日

編物靴下、ユザワヤ、現代朗読ゼミ

何度も失敗して手こずっていた靴下の編物に再々挑戦。
オパール毛糸を使った輪針編みだが、糸が細いので、途中のかかとの工程のところでいつもうまくいかず失敗する。
今回は慎重に、ルーペ眼鏡をかけて、ゆっくりとやってみて、なんとかかかとをクリア。
あとは足首のゴム編みと伏せ目をうまくできるかどうか。

もうこうなったら靴下を極めるぞ。
ということで、立川のユザワヤでオパール毛糸と、細かい号数でマジックループのできる長めのコードの輪針を補充。

明日の午前中は現代朗読ゼミ。
体験の人が参加。
ゼミは基本的に個人レッスンにしているが、今月のレッスンはゼミ生のゆきこさんの好意でグループレッスンにしてもいいということで、ゼミ生以外の参加者も歓迎。

明日以外に29日(火)10時半からと、31日(木)16時からも受け付けています。
お問い合わせと申し込みはこちら

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(16)

長編小説は2週間くらいで書きあがってしまった。
かなり中途半端な長さで、原稿用紙で200枚ちょっと。

当時はコクヨの原稿用紙に万年筆で書いていた。
200枚ちょっとを2週間で書きあげるというのは、かなりのスピードだといえるが、なにしろ一日中ほかにやることがないのと、話の筋を決まっていたので、あとはただ小説として展開して書きつけていくだけだった。
問題は、書きあがったらどこかの新人賞かなにかに応募しようと思っていたのに、長さが中途半端で、どこにも応募できないということだった。

SF小説の新人賞は早川や徳間、光文社など、いろいろあった。
当時はSF文芸誌がけっこうあったのだ。
しかし、どの新人賞も短編が対象で、50枚とか、多くても100枚以内だった。
長編を対象にした賞もあったかもしれないが、そちらは300枚とか400枚、ようするに単行本一冊の分量が要求される。

私が書きあげたのは、そのどれにも当てはまらない、中途半端な長さだった。
かといって、書き直すほどの執着はなかった。
執着はなかったが、捨ててしまうほどなかったわけでもない。

そこで適当な出版社を選んで、郵送することにした。
選んだのは『SFアドベンチャー』という月刊誌を発行していた徳間書店で、雑誌の編集長宛に送ったのだと記憶している。

それっきり、自分が書いた小説のことは忘れてしまった。
経緯をはしょるが、そのすぐあとに私は京都を引きはらうことになり、ドタバタと引っ越しが決まった。
私は福井の田舎の実家に帰った。

実家にはまだアップライトのピアノがあり、それを使ってピアノの先生をやることになった。
最初は近所の子ども数人しか生徒がいなかったのだが、おなじ町でピアノレッスンをしている教師のグループの仲間にいれてもらって、生徒を回してもらったり、遠隔地の生徒グループをまとめて紹介してもらったりして、そこそこ収入があるようになった。
また、頼まれて近所の小さな本屋で子ども相手の学習塾の先生をしたりもした。

そんななか、福井の〈Space B'〉という現代美術作家ばかり扱っているギャラリーに遊びに行ったことがきっかけで、音楽活動を再開することになり、また私の音楽の方向性が思わぬ方向に進んでいくことになった。

2019年1月17日木曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(15)

中学高校と、音楽にものめりこんでいたが、おなじくらい、いやひょっとしてそれ以上にのめりこんでいたのは、読書だった。
小学生の高学年のころから本が大好きになっていた。

きっかけをおぼえている。
5年生のときにかなりひどい風邪をひいて、一週間くらい学校を休んだことがある。
そのとき、父が近所の貸本屋から江戸川乱歩の少年探偵団のシリーズと吉川英治の『宮本武蔵』を何冊かずつ借りてきてくれたのだ。

たちまちはまった。
風邪がなおってからも、せっせと貸本屋に通って、娯楽小説をどんどん読みあさった。
貸本屋だけでなく、学校の図書館の本も片っぱしから読んだ。

そのなかに、少年少女向けの世界SF全集があって、それにはかなり夢中になった。
そのまま中学生になってもSF小説を読みつづけ、子ども向けではなく大人向けの小説も読んでいった。
ハインライン、アシモフなど、王道の作家から愛読し、しだいに周辺の作家にも手をのばしていった。

音楽でも小説でもそうだったが、田舎町に住んでいたおかげで、カルト的なものには触れる機会がほとんどなかった。
なにか興味を引かれてその世界にはいろうとしても、メインストリームのものしかとりあえず田舎では手に入れることができなかった。
工夫すれば周辺のカルト的な情報にも触れることができないことはなかったが、そこにいたるには田舎でも手にはいる主流のものからはいっていく必要があった。

私の音楽歴も、読書歴も、そのようにメインストリームのものからスタートしている。
SF小説もそうだが、中学生になると、家の書棚にならんでいた大人向けの世界文学全集と日本文学全集を片っぱしから読んでいったり、親に買ってもらった旺文社の文庫サイズの文学全集を大事に読み返したりしていた。
私の文学体験はかなり系統立っているといえる。
そのことが、のちの「ものを書く」ことに非常に役に立ったという実感が、振り返ってみればたしかにある。

バンドマン生活がほぼ破綻し、暇ができた私は、机に向かって小説を書きはじめた。
どうせ書くなら自分が読みたいものを書こうと思った。
書きはじめたのはSF小説だった。

そのころ『デューン砂の惑星』というフランク・ハーバートの長編SFにはまっていて、それは砂漠の惑星の話だった。
そこからヒントを得て、私は海におおわれて陸地がまったくない惑星の話を書いた。
それがまさか自分の商業小説家デビュー作になるとは思いもよらなかった。

2019年1月16日水曜日

韓氏意拳昭島火曜クラスで自分の弱点を洗い出す

中級教練の駒井雅和先生による指導で、昭島市での韓氏意拳定期講習会が開催されていて、私もそのメンバーになっている。
毎週火曜日に昭島市スポーツセンターか、駒井先生のご自宅であるK-Studioのどちらかで開催していて、メンバーも固定制だ。

月に4回、多いと5回の定期的な稽古があって、しかもおなじメンバーなので、稽古内容も充実するし、韓氏意拳の教学体系にそって稽古が進んでいくのもありがたい。

単発の講習会ではなかなかこうはいかない。
とくに練習の進度の差があると、どうしても初心者や体験参加の人に引っ張られて、体系の学習が進まないということが起こる。
また、教学体系を離れて、その基となる身体観について学んだり体験したりする稽古もしばしばおこなわれるので、入門したはいいがいつまでたっても体系の全体像がつかめないという人もいたりする。

体系を学ぶことが目的になってはならないが、そうはいっても理由があってできている体系なので、ひととおり理解し体験していることで、普段の自主稽古が違ってくるのだ。

駒井先生はその「普段の稽古のやりかた」をきちんと教えてくれる。
また火曜クラスの特徴として、実際に「使える拳」であるかどうか、どうやってチェックするのか、ときには互いにコンタクトする対人稽古もまじえていく。
それが普段の稽古にとても生きてくる。

昨日の夜も、お互いに組んだり、コンタクトしあう稽古をした。
これは自分の「穴」を発見するのにとても役立つ。
相手と接触してみれば、自分の弱点がいやおうなく洗いだされてくる。
家に帰ってそこを重点的に自分で稽古していけばいいのだ。

ただ、昭島という都心からはちょっと離れた場所にあるので、毎週火曜日の夜に通ってこれる人となると、そう多くはないのが難点だ。
人数がある程度いるとできる稽古の種類も増えるし、また都合があって休みたいときも気兼ねなく抜けられるので、現在、お仲間大募集中!

駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級&養生功講習会を1月21日(月)14時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

RadioU:くぼりょ2019に向けての演出家の野望

大阪在住のナレーターで朗読者のくぼりょこと窪田涼子が、新年初の春野亭訪問に来てくれたので、今年の抱負を聞きました。

けっこう長い年月の付き合いとなる朗読者と朗読演出家というふたりが、これからどのような方向に行きたいのか、かなり突っこんだ話になりました。
今後がとても楽しみです。

映像はこちら

2019年1月15日火曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(14)

私たちバンドマンの仕事を着実に奪っていったのは、カラオケマシンの普及だった。
それはひたひたと潮が満ちるように水商売の世界に侵食してきて、気がついたらどの店にも置かれるようになっていた。

私がバンドマンをやっていた1980年前後は、カラオケという名称ではなく、たとえば機械の名称を取って8トラとかいっていたと思う。
特殊な規格の8トラックカセットテープを機械にガシャンと挿入して、曲を選ぶ。
ひとつのカセットには8曲のオケ演奏がはいっている。
客はメニューを見て歌いたい曲を選ぶと、店のママとかホステスとかボーイが該当するカセットを選んで挿入し、頭出しをする。

マイクを使って歌うと、オケと自分の歌声がミックスされて、まるで本物のバンドといっしょに歌っているように聞こえる。
生バンドはもういらない、と思ったのは客だけではないだろう。
機械は買ったりレンタルしなければならないが、バンドマンのギャラよりはるかに安価だし、客からもカラオケ代として1曲ごとに回収できる。

ほんの一年とか二年とかいったスパンで、バンドマンの仕事は激減していった。
私のようなペーペーのバンドマンから仕事がなくなるのは当然のことで、店の不払いや機材購入の借金なども重なって、とたんに私は困窮してしまった。

私にとって選択肢はいくつかあったが、バンドで生活をつづけていくことができないことは確かだった。
バーテンダーにもどるか、あるいはまったく別の仕事をするか。
そしてもうひとつ、私にとって京都という街に住みつづけることがまったく魅力的ではなくなってきた、それは突然のように、京都に嫌気がさす、という形でやってきた。

仕事がなくなった私は、家賃が滞納しはじめたアパートの部屋で机に向かって座り、原稿用紙を広げて、ひたすら小説を書きはじめたのだ。
どこかの新人賞に応募して、あわよくば小説家になってやろうという野心があったかもしれないが、自分でもそんなことは信じておらず、逃避行動にちがいなかった。

ピアノ七十二候:小寒/雉始雊(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小寒の末候(69候)「雉始雊(きじはじめてなく)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年1月14日月曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(13)

ひとつめの壁は私自身の音楽性——オリジナリティについてのものだった。
京都のバンドマンの、いわばコミュニティに、私は比較的すんなりと受け入れてもらえたと思う。
私自身もミュージシャンたちにたいするリスペクトと信頼が、いまから思えば無意識にあって、それが彼らにも伝わったのだろうと思う。
しかし、いっしょに仕事したり、ライブに出たり、リハーサルを重ねたり
と、関係が深まっていくにつれ、しだいに突っこんだことを追求されたり、要求されるようになった。
それは裏返せば私にたいする期待や信頼だったのだろうと思うが、それに応えられるだけの音楽的な厚みを、私はまだ獲得できていなかったのだ。

いちばんこたえたのは、こんなことばだった。
「それでじぶん、なにがやりたいねん」

まわってきたアドリブパートで、自分ではがんばってかっこよくソロを取ったつもりでいたのに、
「それでじぶん、なにがいいたいねん」
と突っこまれて、絶句してしまうことが何度かあった。

なにがいいたいとかなにがやりたいとか、そんなことはまったくわからなかった。
ただただ、うまく弾きたい、間違えないようにやりたい、かっこいいフレーズをばんばん弾けるようになりたい、ようするに人真似の域をまったく出ていない、田舎から出てきたモノマネ小僧だったのだ。
有名バンドのコピーやカバーを真似して演奏するだけの、趣味のアマチュアとなんら変わりなかった。

自分の音楽性とか、音楽でなにを表現したいのか、なにを伝えたいのか、そもそも自分のなにを伝えたいのか、自分とはどういう人間なのか、なにを求めどこへ行こうとしているのか。

もちろんそういうことをまったくかんがえてこなかったわけではない。
しかし、音楽演奏という、時間軸のなかでいやおうなく進んでいく表現行為に向かうにあたって、自分は何者なのかという問題はかつてなく鋭く突きつけられてしまうのだ。

私は大きな壁に突きあたり、その先にはなにもない巨大な闇があるように感じた。
このままがんばっても、一人前のバンドマンはおろか、ちゃんとしたミュージシャンにはとうていなれないだろう、そもそも自分はミュージシャンになりたいと思っているのか、思っていたのか。

そんな絶望的な壁に突きあたっていたときに、もうひとつの、これは自分にはどうすることもできない壁が私の前に立ちはだかってきた。

◎新刊電子ブック『縁側の復権——共感的コミュニケーション2019』(Kindle)が配信スタートしました。前著『共感的コミュニケーション2017』『2018』の続編です。合わせてお読みください。
購読はこちらから。500円。

2019年1月13日日曜日

【新刊】共感的コミュニケーションの本の2019年版が出ました

水城ゆうの新刊書、出ました。

『縁側の復権——共感的コミュニケーション2019』

現時点でアマゾンの電子書籍Kindleとして購読できます。
Kindleをはじめとする各種電子書籍リーダーでお読みいただけるほか、スマホやタブレット端末でもKindleアプリを使って読めます。
ポケットやカバンにいれて、いつでもお好きなときにお読みください。

内容は、好評の『共感的コミュニケーション2017』『共感的コミュニケーション2018』につづく、NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)について書かれた数少ない日本語オリジナルの共感的コミュニケーションのシリーズ、第3弾です。
水城ゆうが数多くの勉強会や個人セッションで得た知見をもとに考察を深めたうえで、エッセイとして読みやすい形に書きおろした読み物となっています。

ご購入はこちら

現在、紙本の製作も進めています。
紙の本をご希望の方はいましばらくお待ちください。

共感本ようやく入稿、今夜は身体文章塾

完成が遅れていた共感的コミュニケーションの本がようやく完成して、とりいそぎ Kindle Direct Publishing に入稿した。
最終的にタイトルを『縁側の復権——共感的コミュニケーション2019』とした。
明日か明後日には公開されるはずだ。

そして今夜はオープン開催になった身体文章塾の初回。
だれでも参加できます。
といっても、あまりに大人数になると収拾がつかないので、いちおう申し込んでください。
今夜のお題は「密会」です。

詳細と参加申し込みはこちら

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(12)

時はちょうど80年代に差し掛かったころで、ブラックコンテンポラリーもロックもその他ポップスと、内外問わず爆発的に花を開かせていた。
音楽を楽しむための機器も安価なステレオコンポやラジカセ、ウォークマンが出てきて、レコードからCDへ、さらに購入からレンタルへと移行したため、個人が大量に音楽を楽しめる時代になっていた。

また音楽の作り手にとっても、シンセサイザーやコンピューター、音楽製作ソフトが個人でも購入できる価格まで降りてきているのがありがたかった。

20代のもっとも血気盛んで吸収意欲もマックスだった私も、たくさんの音楽を聴き、レコードやCDを買ったり借りたりし、また演奏機材も無理をしてでも購入した。

東京ほどではなかったが、関西でもたくさんのアーティストが来日公演した。
ジャズの大物もたくさん聴きにいった。
たとえばハービー・ハンコックがエレクトリックグループの〈ヘッドハンターズ〉ではなくてアコースティックのコンボで京都会館にやってきたりした。
そのときはスーツを着た、あるいはあまりカジュアルではない服装の男女がたくさん聴きに来ていて、どう見てもジャズファンの層とは違っていたのだが、あとでハンコックは創価学会員で、学会が動員をかけたのだろうということが判明した。
おそらくハンコックは創価学会というより、仏教にあこがれて仏教徒になるつもりで入会したのではないか、と私たちバンドマンは噂した。

私のアイドルといってもいいウェザーリポートは何度も聴きに行った。
またウェザーリポートのベーシストだったジャコ・パストリアスも、ビッグバンドを引きつれて来日したときに聴きにいった。

数えあげるときりがないのでいちいち書かないが、とにかくジャズ漬けの日々だった。
そんななかで、私もジャズについて学び、自分なりに理解し、自分の音を追求するようになっていった。
しかし、大きな壁が私の前に立ちはだかり、私はミュージシャンの道をいったん断たれることになるのだ。
しかもその壁は二重に立ちはだかっていた。

2019年1月12日土曜日

国立〈地球屋〉でライブをやることになりそう

国立のライブハウス〈地球屋〉に行ってきた。
リード奏者の森順治さんが出演するという情報をいただいたので、新年のご挨拶もかねて。

国立に来て2年半がたつけれど、世田谷に住んでいたときのように、現代朗読や音楽のパフォーマンスをおこなえる拠点がなかなか見つからずにいた。
あまり積極的にライブハウスめぐりをしていなかったというのもあるが、そんななかでも〈地球屋〉の名前はしばしば耳にして、気になっていた。
それが今回、ようやく行けた。

大学通りの、一橋大学の手前のビルの地下にあるライブハウスで、こじんまりしている。
残念ながらピアノはなく、私が演奏するとしたらなにかを持ちこむことになる。
が、なにしろ近い。
私が住んでいる春野亭からは徒歩5分だ。

森さんは〈和敷〉という和もの(といえばいいのか)バンドのゲストとして出ていて、珍しくフリーではなく決まったメロディや曲進行のある演奏だった。
ベースと和太鼓、三味線、そしてもうひとりのゲストは琴だった。

対バンの〈サンピン〉というユニットもおもしろく、手作りの回擦胡やリボンコントローラーと、これもすべて手づくりというパーカッションとのデュオだった。
パーカスの久田さんは楽器作りも専門にやっているらしく、私もひとつ、かわいらしいシェーカーを買わせていただいた。

ライブの前後に時間があったので、森さんと話ができた。
ここでもなにかやりましょう、という話になり、現代朗読の野々宮卯妙と私と森さんが急遽〈ミズノモリ〉というユニットを結成した。
すぐに地球屋のエルさんと交渉し、日程を組むことになった。

おそらく3月下旬から4月あたまのどこかでやることになるだろう。
その時期だと、ちょうど私がドイツからもどってきたばかりなので、ドイツ帰国報告もかねて、新ユニット〈ミズノモリ〉のお披露目ができると思う。
非常に楽しみだ。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(11)

そんなふうにして、私はけっこうすんなりと京都のバンドマン、ミュージシャンの仲間入りをした。
1980年になる前のことで、22歳ころのことだ。
バーテンダーのアルバイトはしばらく続けていたが、やがてバンド活動専門にシフトしていった。

京都のバンドマンは大阪方面の同業者ともゆるやかなつながりがあったが、基本的はそれぞれの「縄張り」を維持していた。

バンドマンはさまざまだった。
ジャズ志向の強いもの、ロック志向の強いもの、ほかにもリズムアンドブルース専門の人たちもいた。
ライブ志向の強いもの、メジャー志向のもの、あるいは商売・仕事と徹していて、毎晩のハコまわりやパーティーなどでの演奏以外には興味はないものもいた。

私のバンドはメジャー志向というわけではなかったが、ライブをどんどんやりたくて、オリジナリティを追求していた。
そのためには自分がまったく演奏者として腕がないことを、私は痛感していた。
だから、使える時間の大部分は音楽を聴いたり、研究したり、練習することに費やした。

ライブ志向のミュージシャンが集まって、臨時のバンドを結成することもあった。
私もその端っこに加えてもらうことがあった。
大きめのバンドのこともあったし、カルテットやトリオのような小編成のこともあった。

大きめのバンドでは、ロバータ・フラック、アレサ・フランクリン、スティービー・ワンダー、チャカ・カーンといった、ブラックコンテンポラリーをカバーするものにも参加したことがある。
そのために最新のシンセサイザーを借金して買ったりもした。
そのバンドは当時はやりはじめて京都にもいくつかできたディスコで演奏したこともあった。
ジャズとは共通する部分もある音楽だったが、なによりリズムが違っていたし、電子音を多用するのもあたらしかった。

コンサートも聴きに行った。
アース・ウインド・アンド・ファイアも来たし、スティービーやチャカ・カーンにも行った。

コンサートはもちろん、ブラック・コンテンポラリーだけでなく、ジャズ界の大物ミュージシャンもかなり積極的に聴きにいった。

2019年1月11日金曜日

国立〈宇フォーラム美術館〉まで平松輝子回顧展を観に行ってきた

国立に引っ越して2年以上が経つが、こんな美術館があるとは知らなかった。
現代美術作家である平松輝子の自宅横に美術館が建てられていて、現代作家に開かれている。
運営方式が独特で、ドイツでは多く存在している芸術振興組織「クンストフェアライン」のやりかたを採用している。

クンストフェアラインは「芸術連帯協会」と訳されている。
会員が会費を負担して運営される芸術の場で、宇フォーラム美術館も会費で運営がまかなわれている。
この美術館で作品展示をする作家は、使用料を負担しなくてよい。

普通、美術作家が展覧会を開きたいときは、ギャラリーを借りて、会期に応じた使用料金を負担する。
その必要がない、ということだ。
くわしい運営方針や内容については、私はまだ踏みこめていないのだが、地域にこのような質の高い美術館があるというのは喜ばしいことだ。

またここでは、美術展示だけでなく、ダンスや音楽などパフォーマンス系のイベントも催されることがある。
私も機会があれば、音楽や朗読でイベントチャンスを持てればいいなと思う。

今回は1月10日から会期がスタートした平松輝子の回顧展がおこなわれていた。
平松輝子という人を私は知らなかったのだが、あらためて作品と展示を観ておどろいた。

国立の中学校で図画工作の先生をしていた彼女だが、まだ二十代のときに単身ニューヨークに移り住み、そこで製作した作品が認められ、いわばシンデレラストーリーのように有名になった。
そのことは日本ではほとんど知られていないのだが、作品を見ると、日本の現代美術を代表する強烈な個性とパワーとアイディアに満ち溢れたものがあることに驚かされる。
一見の価値はあるし、もっと知られていい作家だろう。

彼女はすでに90歳を超え、作品製作はほとんどおこなっていないが、ご家族から直接お話をうかがうことができて、ラッキーだった。
作品とその生き方、現在のようすのお話など、たくさんの刺激をいただいた時間となった。

平松輝子回顧展は1月20日までと、2月7日から17日までの開催。
宇フォーラム美術館のウェブサイトはこちら

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(10)

私の最初のバンドはピアノとキーボードの私のほかに、ベースとドラムというトリオ編成だった。
ふたりとも同年代だったが、私よりすこし若かった。

ふたりとも地元の京都の人間で、バンドマンの世界でも私より顔が広く、すぐにドラムのNくんが仕事を取ってきた。
週に一度、奈良のライブハウスで演奏するという仕事だった。
歌伴とかBGMのような仕事ではなく、ちゃんと客に演奏を聴かせる仕事で、ありがたかったが、その分、レパートリーを確保しなければならなかった。

練習スタジオを借りて、何度かリハーサルをおこなった。
ジャズのスタンダードナンバー、ボサノヴァやサンバの曲、その他お互いに気にいった曲を持ちよったりもした。

数か月はつづいたと思うが、あまり客入りがいい店ではなくて、そのうちにつぶれてしまった。
しかし、その間に客の前でたくさん演奏したり、そのためのリハーサルによって、非常に鍛えられたし、京都と奈良の行き帰りがなにより楽しかった。
音楽の話やらバカ話で、いつも腹がよじれるほど笑いころげていたものだ。

奈良のライブハウスがスタートして間もなく、祇園でのハコの仕事がはいってきた。
これはトリオではなく、ソロピアノの仕事だった。
いわゆるフィリピンパブで、「タレント」として入国したフィリピン女性がホステスとして不法に働いている店で、7、8人はいただろうか。

彼女らは時々歌をうたうときに、私はその歌伴をした。
聞き取りにくいフィリピン英語をしゃべっていて、みんな嘘つきばかりだったが、表向きは陽気で正直な人たちで、すぐに仲良くなった。

バンドマンはなぜか「先生」と呼ばれていて、彼女たちからも私は「センセ」と呼ばれた。
まだ二十歳そこそこの、駆け出しの若造だというのに。

その仕事は3か月くらいつづいたが、ある日店に行ってみると、シャッターが降りていて、張り紙がしてあった。
突然の閉店だった。
店長にもまったく連絡がつかなかった。
結局、その仕事のギャラは一度も払ってもらえなかった。

◆ピアノ七十二候
日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏を、時候に合わせて配信しています。
よろしければこちらからチャンネル登録をお願いします。

2019年1月10日木曜日

今月の朗読レッスンは臨時ゼミとして自由参加枠あり

2018年で現代朗読ゼミの定期開催は終了したが、朗読者のための個人レッスンは引きつづきお受けしている。
以前からのゼミ生が来てくれていて、新年も引きつづきレッスンを継続する。

ゼミ生のゆきこさんとは年末に吉祥寺の〈曼荼羅〉のオープンマイクに出演して、大変楽しかったのだが(そのときの記録映像はこちら)、今月末も国立の〈キノキュッへ〉という店でやることになっていて、そのためのレッスンも含めた現代朗読のトレーニングを何度かやることになっている。

ゆきこさんが、「ほかにも参加したい人がいたらどうぞ」といってくれたので、レッスン日を公開して、参加受付をすることになった。
興味がある人はどうぞいらしてください。

以下、その告知です。

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定期開催の現代朗読ゼミは終了していますが、ゼミ生が個人レッスンを受けるタイミングで許しを得て臨時のゼミを開催します。

現代朗読とはなにか、そのゼミとはなにかに興味がある方は、水城ゆうブログ「水の反映」の「現代朗読」ラベルをご参照ください。

◎日時 2019年1月19(土)10時半/29(火)10時半/31(木)16時
    いずれも約1時間から2時間くらい

◎会場 JR国立駅徒歩5分の会場

◎参加費 ひとコマ5,000円(グループレッスンとして)

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらから。

会場には猫がいます。
アレルギーがある方や猫が苦手な方はご注意ください。

ピアノ七十二候:小寒/水泉動(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小寒の次候(68候)「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」をイメージして演奏しています。

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私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(9)

ジャズバー〈バードランド〉ではバーテンダーを2年半くらいやった。
毎日仕事でやってくるピアニストのほかにも、バードランドには毎日プロのバンドマンが何人か飲みに来た。
仕事が終わってからの深夜や、ナイトと呼んでいた深夜から朝方にかけてのステージの合間などにやってきた。

バンドマンたちの仕事は、キャバレーやクラブなどの大きな店で4、5人編成のバンドではいっていたり、ひとりかふたりで小さな店に毎日はいっていたりした。
まだカラオケが普及しはじめる前のことだった。

私も店の仕事の合間にピアノを練習したりしているうちに、先輩のバンドマンからたまに仕事をたのまれるようになった。
なにしろ譜面が読めるのと、ポップスなどのコードはそう難しくないから、バンドでならそこそこ弾けるようになっていたのだ。

バンドマンたちは「ハコ」と呼ばれる、毎日決まった時間に何ステージかこなす仕事で食べていたが、たまに結婚式とか、企業の記念のパーティーとか、なにかのレセプションとか、そういう仕事が臨時ではいってくる。
それはギャラが高いので、みんなそちらを優先したがった。
すると、ハコの仕事に穴があく。
そんなとき、まだ駆け出しのハコを持っていない若手に、ハコのエキストラを頼むのだ。
私にもそういう仕事がたまにはいってくるようになった。

ひとりで出かけていって、ピアノで客の歌伴をしたり、ソロで流行歌やポップス曲を適当に弾いたり。
そういう演奏用の楽譜がバンドマンの間で流通していた。
あるいは歌手が持っているハコに、伴奏ではいることもあった。
もちろん、バンドのピアノやキーボーディストとしてはいることもあった。

当時の京都にはまだ〈ベラミ〉という大きなキャバレーがあった。
山口組の組長が銃撃されたことで全国的にも有名になった店だが、そういう店のエキストラにも出かけることがあった。
そんなときは、バーテンダーの仕事は別のアルバイトに肩代わりしてもらう。

バンドマンの仕事は楽だった。
たいていが夜7時半か8時からはじまって、30分演奏して30分休む。
それを3ステージか4ステージこなす。
夜中の12時には仕事が終わる。
あとは知り合いの店に行って飲んだり、バードランドで客やバンドマンやホステスと遊んだり、あるいはさっさと家に帰ってしまってもいい。

自由時間の多い仕事だった。
そんな自由時間を使って、私は自分のバンドを結成した。

2019年1月9日水曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(8)

大学はろくに学校に行かなかったけれど、学生時代をすごした街といえばまちがいなく京都ということになる。
学生時代をすごす街としては、当時は理想的だったと、いまになって私は思いかえしている。
京都で青春時代をすごせてよかったなあ、と。
ただし、定住するにはいろいろと問題がある(私にとってはね)。

ジャズにどっぷり浸かったまま京都で暮らしはじめた私が、まず最初にしたことは、ライブハウスを探して行ってみることだった。
田舎の町にはもちろん、ジャズライブをやっているような店はなかったし、ジャズ喫茶もなかった。
ジャズ音楽を流しているような店もなかった。
ジャズは家でラジオかレコードで聴くしかなかった。
が、1976年当時の京都には、ジャズ喫茶がたくさんあったし、ライブハウスもいくつもあった。
京都に住みはじめた最初の年、私は東山二条の平安神宮の近く、岡崎という地区に下宿した。
岡崎の北側には京都大学や同志社大学があって、学生も多く、ライブハウスもジャズやロックやフォークソングなどが盛んに演奏されていた。

私は丸太町通りにあったYAMATOYAによく行った。
そこで生まれて初めて聴いたジャズの生演奏は、日野元彦、井野信義、まだ駆け出しの新人だった渡辺香津美といったメンツのカルテットかクインテットだったと思う。
曲目はもう覚えていないが、ものすごく刺激的だった。

大学時代はいろいろなアルバイトを経験したが、最終的には祇園の〈バードランド〉というジャズバーのバーテンダーに流れ着いたのは、ある意味、必然だったかもしれない。
バードランドは10人がけのカウンターと、奥にグランドピアノがあってそのまわりでも飲めるようになっている店だった。
私はその店で酒とジャズの知識をしこたま仕込み、そちらの世界にのめりこんでいった。
学校にはまったく行かなくなり、やがてやめてしまった。

バードランドには毎晩、プロのジャズピアニストがやってきて、30分のステージを4回おこなった。
その合間に私は彼らとしゃべったり、客がいないときには演奏を教えてもらったりもした。
そこから徐々にプレーヤーの道にはいっていくことになるのだった。

2019年1月8日火曜日

今年2019年の共感カレンダーが届いた

北海道弟子屈の tolio design が作った「共感カレンダー」が届いた。
tolio design というのは、NVC仲間であるトシちゃん・なおみ〜ぬ夫婦がやっているデザイン事務所だ(なおみ〜ぬは音読トレーナーでもある)。

カレンダーはトイレや居間に気軽に貼れるデザインになっていて、NVCの学習と練習でもっとも基本となる感情とニーズのことばが美しく印刷されている。

いつもなにげなく見る場所に貼っておいて、
「いま自分はどんな気持ちなんだろう」
「いま自分が大切にしていることはなんだろう」
と、自己共感の練習に使うことができて、とてもいい。

NVCすなわち共感的コミュニケーションを学んでいる人や、そのめざす世界に希望を感じている人は、入手するといいと思う。
2,000円。

販売ウェブサイトはこちら

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(7)

FM番組「ジャズフラッシュ」を聴いていてとくにびっくりしたのは、ウェザー・リポートというグループがかかったときだった。
オリエンタル・エスニックな感じのメロディとサウンドを、ポリリズムっぽいアフリカンなリズムが支えていて、それまでなんとなく「ジャズっぽい」と思っていたどの音とも違っていた。
こういうのもジャズというんだ、と新鮮な驚きがあって、ジャズをもっと聴きこんでみたくなった。

調べてみると、ウェザー・リポートは1974年に「ミステリアス・トラベラー」、1975年に「テイル・スピニン」、1976年に「ブラックマーケット」をリリースしている。
私が出会ったのはそのあたりだ。

そのあたりがジャズ・フュージュンのはじまりで、そのころはクロスオーバーともいっていた。
ほかにもハービー・ハンコックのヘッド・ハンターズ、チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバーというグループ、デオダード、ボブ・ジェームス、リー・リトナー、ラリー・カールトンなど、爆発的な商業的成功をおさめつつあった時期だ。
キース・ジャレットがケルンコンサートで前代未聞の売り上げを記録したのもそのころだった。

高校から大学にかけて、私はジャズにのめりこんでいった。
ただし、自分で演奏はできなかった。
すこし真似事はしてみたけれど、ジャズという音楽の仕組みはまだよくわかっていなかった。

そのかわり、仕組みが非常にわかりやすかったのはフォークソングだった。
私はギターを買ってフォークソングを演奏したりした。
有名なフォークジャンボリーの直後のことで、吉田拓郎が「人間なんて」を延々と歌っているアルバムを聴いたりもした。

フォークソングは仕組みがシンプルで、演奏もすぐにできたし、自分でも曲を作れるようになった。
高校時代にいっしょに演奏していた同級生は、いまだにライブハウスでときたま歌ったりしているらしい。
私の演奏欲求はフォークソングで解消していた。

本格的にジャズ演奏に取りくむようになるのは、大学時代、ジャズバーでアルバイトをはじめてからのことだった。
ちょうど二十歳になるかならないか、という時期だった。

◆ピアノ七十二候
日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏を、時候に合わせて配信しています。
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2019年1月7日月曜日

木版画の賀状、キンカン、ひさしぶりの歯医者と歯の総点検

6日の夕方に北陸の実家から国立春野亭にもどってきた。
版画家の日高裕さんから賀状が届いていた。
いのししと、なぜかくじら。
木版画、いいなあ。

鍼灸師の桂さんが用事でやってきて、実家の裏庭で採れたというキンカンの砂糖漬けをくれた。
おいしい、ありがとう。

1月10日配信予定の「ピアノ七十二候:小寒/水泉動」のための演奏を収録。
そのあと、動画編集。

3年ぶり(以上?)の歯医者に行く。
東松原で点検して歯石を取ってもらって以来で、総点検とクリーニングを国立駅前のくぼむら歯科でやってもらう。
ネットで調べたら、うまい具合に予約が取れたのだ。

きれいな医院で、先生も歯科衛生士の人もとても丁寧で安心。
レントゲンを撮ったあと、詳しく調べてもらって、問題点を洗いだす。
虫歯はないが、年齢的にかなり用心したい時期に差しかかっているという自覚がある。
磨き残しがあったり、やはり歯石がたまっていて歯周病の予兆があったりと、この際、クリーニングと対処法をきっちりやっておくことになった。
いまのうちにきちんと対処しておけば、まだまだ長く健康に使えるとのこと。

夜は音読トレーナーの定期ミーティング。
オンラインだけど、なぜか美しい方ばかり集って、新年早々華やかな画面であった。
みなさん、今年もよろしく!
今年もあらたな仲間が増えるとうれしいな。