私たち兄妹《きょうだい》のピアノ上達にかける両親の熱意はかなりのもので、とくに母は週一の通いのレッスンだけでなく、毎日の練習にも付きそった。
ピアノレッスンをスタートするにあたって、そんな約束をしたような気もする。
つまり、毎日練習すること。
ひょっとして、一日30分以上とか、量的約束をしたかもしれない。
妹はどうだったか記憶にないが、私は一日30分、母の付きそいのもとでピアノの練習をした。
練習曲は簡単なバイエルだし、もう小学3年生だし、毎日練習するのだから、どんどん上達しないはずがない。
また私は母親似で手先が器用なところがあったので(いまでもそうだ)、バイエルなどどんどん進んでいった。
バイエルは全部で100曲あるのだが、最初の1年もたたないうちに全曲をマスターするようなスピードだったと思う。
1週間に1度のレッスンでも、2、3曲はどんどん合格してしまうような進度だった。
バイエルが終わるとブルグミュラー、そしてソナチネ曲集。
ハノンとは別にチェルニー練習曲集もやった。
小学5年から6年のころには、ソナチネからソナタ曲集へと進み、自分でも全音ピアノピースのなかから好きな曲を買っては練習するようになっていた。
そのピアノ教室には数十人の生徒が通っていた。
最初のころは10人くらいだったが、先生は毎年1回、発表会を市民会館のホールを借りきっておこなった。
発表する生徒の数は年ごとにどんどん増えていって、小学6年のときには50人近くいたように記憶している。
発表会のプログラムは、はじめのほうに入門したばかりの者が、終わりのほうには熟練者がならんでいるという、テクニカルな序列がはっきりわかるようになっていた。
小学3、4年のときは私の名前はプログラムのはじめのほうに記されていたが、5年には終わりのほう、6年にはトリに近いところに記されていた。
私より後に発表するのはひとりかふたり、それも長年レッスンに通っている中学生とか高校生のお姉さん生徒だった。
得意な気持ちをおぼえると同時に、それ以上に私は6年生になると、レッスンバッグをさげてレッスンに通ったり、発表会に出たりすることがたまらなく嫌でしようがなくなっていた。
というのも、当時ピアノレッスンに通うのは女の子ばかりで、男子は皆無といってもよかったからだ。
発表会でも男は私と、せいぜいもうひとりくらい。
レッスンに行っても、私以外はほぼ女の子ばかりだった。
ピアノが嫌いになったのではなく、女子にまじってピアノレッスンを受けていることがたまらなく恥ずかしい気がしてきたのだ。
ようするに、色気づいたのである。
◆ピアノ七十二候
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