京都のバンドマンの、いわばコミュニティに、私は比較的すんなりと受け入れてもらえたと思う。
私自身もミュージシャンたちにたいするリスペクトと信頼が、いまから思えば無意識にあって、それが彼らにも伝わったのだろうと思う。
しかし、いっしょに仕事したり、ライブに出たり、リハーサルを重ねたり
と、関係が深まっていくにつれ、しだいに突っこんだことを追求されたり、要求されるようになった。
それは裏返せば私にたいする期待や信頼だったのだろうと思うが、それに応えられるだけの音楽的な厚みを、私はまだ獲得できていなかったのだ。
いちばんこたえたのは、こんなことばだった。
「それでじぶん、なにがやりたいねん」
まわってきたアドリブパートで、自分ではがんばってかっこよくソロを取ったつもりでいたのに、
「それでじぶん、なにがいいたいねん」
と突っこまれて、絶句してしまうことが何度かあった。
なにがいいたいとかなにがやりたいとか、そんなことはまったくわからなかった。
ただただ、うまく弾きたい、間違えないようにやりたい、かっこいいフレーズをばんばん弾けるようになりたい、ようするに人真似の域をまったく出ていない、田舎から出てきたモノマネ小僧だったのだ。
有名バンドのコピーやカバーを真似して演奏するだけの、趣味のアマチュアとなんら変わりなかった。
自分の音楽性とか、音楽でなにを表現したいのか、なにを伝えたいのか、そもそも自分のなにを伝えたいのか、自分とはどういう人間なのか、なにを求めどこへ行こうとしているのか。
もちろんそういうことをまったくかんがえてこなかったわけではない。
しかし、音楽演奏という、時間軸のなかでいやおうなく進んでいく表現行為に向かうにあたって、自分は何者なのかという問題はかつてなく鋭く突きつけられてしまうのだ。
私は大きな壁に突きあたり、その先にはなにもない巨大な闇があるように感じた。
このままがんばっても、一人前のバンドマンはおろか、ちゃんとしたミュージシャンにはとうていなれないだろう、そもそも自分はミュージシャンになりたいと思っているのか、思っていたのか。
そんな絶望的な壁に突きあたっていたときに、もうひとつの、これは自分にはどうすることもできない壁が私の前に立ちはだかってきた。
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