2011年1月29日土曜日

Ustream生放送をするための機材セッティング

短時間の毎日UST生放送を、個人でやってみようと思う。その機材やらセッティングやらの準備を、昨日はやってみた。
その目的。自分でも混乱するほど多岐にわたる活動内容を整理し、日々お送りするとともに、生産現場の空気をいくらかでもお伝えできれば、と思う。また、私やアイ文庫、現代朗読協会のことをより知っていただくためにも、生の声でお伝えしたい。

まず部屋の片付けをする。
可能なかぎり毎日やりたいと思っているので、自分の部屋から気軽に放送したい。が、いまのままだと明るい窓が背なので逆光になってしまい、見づらい。テーブルなどの配置をいろいろと工夫してみる。
また、ゲストも呼びたいので、人にきがねなく来てもらえる部屋にしておきたい。
いろいろとやってみたのだが、結局、部屋は2面がガラス窓なので、どうしても窓を背にする位置にしかできない。電灯をつければ多少逆光はカバーできそうだ。演奏もいれたいので、キーボードをテーブルに置くことにした。

機材の接続。
映像はハンディデジタルビデオカメラを使う。パナソニック製の普及タイプ。
Firewireなどで直接コンピューターに接続できればいいのだが、そういう端子はついていない。なので、AV出力からビデオキャプチャーに接続し、USBで映像を取りこむ。
音声はFirewire接続のオーディオインターフェースから取りこむ。キーボードをMacBook Air に接続し、Airのソフトウェア音源を鳴らす(LR)。しゃべりマイクはZOOMのハンディレコーダーを使用する。これらを簡易ミキサーに入れて、ミキサーのメインアウトをオーディオアンターフェースに入れる。MOTU製。
オーディオインターフェースはFirewireでMacBookと接続。
ハンディレコーダーを使う理由。Macの内蔵マイクだとキーボードを打つ音がはいってしまいやかましい。ボーカルマイクだと指向性が強くて気楽にしゃべれない。

問題がひとつ出てきた。ビデオキャプチャーの映像と音声をうまく切り離せないのだ。ビデオキャプチャーの映像を選択すると、音声もこちらのものしか使えなくなってしまう。映像はビデオキャプチャーから、音声はオーディオインターフェースから、と別々に設定したいのだが、できない。
あれこれ調べて、解決法を見つけた。CamTwistというソフトを Ustream Producer の前にかますことで、ビデオカメラからの映像と音声を切り離すことに成功。これで映像も音声もかなりのクオリティを確保できた。

オンエアに使うソフトは無料の Ustream Producer 。とても使いやすいソフトだ。
使用コンピューターの MacBook Pro は無線LANでネットにつながっている。
あとはどんな内容にするか。演奏、トーク、そしてなにか映像コンテンツをひとつ紹介して、告知情報などを最後に。みたいな流れか。
放送チャンネルはこちら
来週からスタートしてみよう。

2011年1月25日火曜日

初恋

を〈水色文庫〉のほうに書きこみました。
⇒ こちら

朗読パフォーマンス用のシナリオです。
2008年末に東京西荻窪で初演。
2009年、世田谷豪徳寺のスタジオ。
2010年、名古屋千種文化小劇場。
いずれも榊原忠美と水城ゆうとのセッション。2010年には坂野嘉彦さんのクラリネット演奏が加わりました。
2011年にも名古屋にて上演の計画が進められています。

2011年1月20日木曜日

私的ネットライブ史

今夜はUstreamを使ったネットライブの生中継をおこなうが、ネットライブはこれが初めてではない。
最初のネットライブは、ライブドアの「ねとらじ」を使ったラジオ生中継だった。つまり、音声のみ。
ライブドアから専用チャンネルを一本もらって、週に一本のペースで定期的にやっていた。豪徳寺の酒屋の地下にあったスタジオから配信していた。そのころは朗読メンバーは声優やナレーターが多かったが、毎回テーマや趣向を変えて1時間くらいの朗読ライブをやっていたのだ。
いまから思えば無茶なことをやっていた。
が、そのときに配信されたなかからクオリティの高いものを選出して、「アイ文庫オーディオブック・ライブ」という形のオーディオブックコンテンツができた。これは iTunes Store やアイ文庫オンラインなどで試聴できるし、購入もできる。

その後、豪徳寺から梅丘のドルチェスタジオに移り、生ライブをそのまま流すのではなく、ライブを収録してYouTubeなどに映像とともに配信する方式に変わった。
数年前はまだ映像を生でそのまま配信する環境がさほど整っていなかったのだ。

さて、ご存知のように、2010年から2011年にかけて映像のストリーミング配信の環境が急速に整ってきた。
一番有名なのはUstreamだろう。
私も年末にはロリン・マゼール指揮によるベートーベン全交響曲演奏公演を、丸一日楽しんだし、先日は坂本龍一の韓国ソウルコンサートを視聴したりした。
そしていよいよ、げろきょも映像と音声を丸ごと配信するネットライブ中継をやることになった。
朗読ライブに限らず、Oeufs(うふ)のトークと音楽のライブや、私個人の演奏も、今後ゆるりとお送りする予定だ。その過程でなにかおもしろいものが生まれるのではないかという期待がある。豪徳寺の地下ライブがそうであったように。

羽根木の家はげろきょデー&初ネットライブ

今日はいわゆるげろきょデー。
現代朗読協会の朝ゼミ、昼ゼミ、夜ゼミと、フルスケジュール。それぞれ10:30-12:30、14:00-16:00、19:00-21:00の開催。
見学自由なので、興味のある方は気軽にどうぞ。昼ゼミにはおひとり、見学の方がいらっしゃる予定。
詳しくはこちら

そして夜9時からはUstreamを使った朗読ライブの生中継をお送りする予定。
羽根木の家での朗読ライブを、そのままネット中継してしまおうという企画です。今夜はそのテストを兼ねたプレライブです。なにが飛びだすか、お楽しみに。
チャンネルはこちら

こちらも見学自由です。
ゼミもライブも、場所は羽根木の家です。築75年の古民家です。
今日も寒いですが、羽根木の家には掘りごたつもあります。

2011年1月19日水曜日

映画「インセプション」

「バットマン・ビギンズ」の続編の「ダークナイト」を監督して評判になったクリストファー・ノーラン監督作品。
といっても、私はどちらも見ておらず、「インセプション」が初見。iTunes Store のMoviesでレンタルできるというので、試してみた。

最初に書いておくが、ともあれ「ハリウッド映画」だ。ハリウッド映画の持つすべての欠点と長所を合わせ持っている映画といっていいだろう。
これでもかと金を積んで作られた豪華なロケーションと画面。
ご都合主義的な設定と展開。
説明的な音楽。
豪華なキャスト。

しかし、ハリウッド映画は、人が「映画を観る」ことについての快楽を追求してきた長い歴史がある。
CGを始めとするテクノロジーを駆使した作画は、驚くような映像を生んでいるし、当然のことながらリアルとCGの境界はほとんど判読できない。これは「アバター」もそうだった。
切りつめすぎたと思えるほどの進行はスピーディーで、一瞬たりともぼやっと観ている時間は観客に与えない。
そして編集技術のクオリティの高さ。

とにかく手のこんだ構成で、夢のなかの話なのだが、夢の夢の夢というふうにストーリー構造が入れ子になっている。観客は混乱しそうになるのだが、それが快感と感じられるかどうか。
この手の映画は「もういいよ」という人と、夢中になってしまう人の二手に分かれることだろう。

リップノイズに悩む人がかなり多いようだ

私のブログを訪問してくれる人の検索キーワードのなかで、もっとも多いもののひとつが「リップノイズ」とか「リップノイズ対策」だ。
一般の人は知らない言葉だろう。一種の業界用語だ。
「業界」というのは、放送業界や音楽業界のことで、リップノイズというのはナレーションなどマイク収録時における発音周辺のノイズのことだ。
「リップ」などとついているからといって唇から発するノイズだけをさすのではない。さまざまなタイプのリップノイズがある。そのあたりの分析については、去年書いたものがあるので、参照してほしい。
「マイク収録における声優や朗読者のリップノイズ対策(草稿)」

結果的にいえば、リップノイズには「これをすれば治る」というマニュアルは作りにくい、ということだ。
が、治せないことはない。どんな人もほぼ確実にリップノイズを取ることができる。ただし、その対処法はひとりひとり違う。
経験のある者が分析的かつ直感的に、マンツーマンで対処していくことで、確実にリップノイズは取ることができる。それはこれまでの私の経験でいえる。

アイ文庫主催の「次世代オーディオブックリーダー養成講座」や「プロのための音声表現スキルアップセミナー」では、リップノイズ対策を徹底的にやる。
なぜなら、リップノイズ対策は「口先」だけの対策ではなく、身体全体の問題であり、また表現する者の意識の問題でもあるからだ。リップノイズがなくなり、クリーンな発語ができるようになったとき、その話者は同時に別のものも確実に獲得しているはずだ。

「次世代オーディオブックリーダー養成講座」第七期
「プロのための音声表現スキルアップセミナー」二月

「げろきょネットライブチャンネル」がスタートします

◎日時 2011年1月20日(木)21:00から約1時間弱の予定
◎場所 Ustream「げろきょネットライブチャンネル」/羽根木の家

げろきょこと現代朗読協会からまたひとつあたらしい活動がスタートします。
Ustreamを使った朗読ライブ「げろきょネットライブ」の生中継です。
げろきょの活動拠点である世田谷区の「羽根木の家」から中継をおこないます。
そのテストをかねて、まずは明日1月20日(木)の夜9時から生中継します。
チャンネルはこちら

どなたもご覧いただけます。無料です。
また、ライブ会場へお越しの観覧も歓迎です。事前に協会にお知らせください。
Twitterのタイムラインでメッセージのやりとりもおこないます。げろきょツイッターもフォローをお願いします。

いまのところ不定期ですが、今後も継続的にネットライブをお送りする予定です。
視聴はもちろんのこと、参加してみたいという方、ライブ会場で観覧したいという方、いずれも歓迎です。

2011年1月18日火曜日

iPhoneアプリ「MoonClock」で月齢や日の出・日の入

iPhoneアプリでとてもシンプルな「MoonClock」を紹介する。
いまの時期、早起きの私は、目がさめてもまだ薄暗いことが多く、日の出が何時なのか知りたくなる。
日の出・日の入を知らせてくれるアプリはないかと探していたら、これを見つけた。これは日の出・日の入のためのアプリではなく,月齢がメインだ。
立ち上げると、その時間の月の形と月齢を表示してくれる。今日だと満月に近い月で、月齢は14日。

ほかにも日の出と日の入の時刻、月の出と月の入の時刻がわかる。
インフォメーションボタンを押すと、さらに地球儀の上で現在位置を表示するのだが、地球儀を回すと、任意の地点の日の出や月の出の時刻もわかる。
あと、太陽系の各惑星の出と入時間、子午線通過時間もわかるのがおもしろい。

とくに多彩な機能を持ったアプリというわけではないが、私はけっこう愛用している。

私のブログを訪れる人たちのキーワード

このブログにどういうキーワードで検索してたどりつくのか、ある程度わかる。
最近のキーワードをながめていたら、いろいろな動機で皆さんやってこられるんだなあと、感慨深いものがあった。

一番多いキーワードは、
「朗読 フリー」
「声優 ワークショップ」
「リップノイズ対策」
などだ。
いずれも朗読や音声表現に関係がある。
「フリー」というのは、たぶん、無料で聴ける朗読コンテンツを探しておられるのだろう。そういう方には、現在ツイッターで無料配信している夏目漱石の長編小説『こころ』の朗読(オーディオブック)をおすすめしたい。
これは女優の岩崎さとこが全編朗読したもので、非常にすぐれた朗読作品となっている。毎日7分前後の分量を配信している。朗読の前後には私が作ったテーマ音楽も流れる。
こちらから聴くことができる。

ただし、これはすでに100回めくらいの配信となっていて、ほぼエンディング部分に差し掛かっている。
最初から全部聴いてみたい人は、こちらから聴いていただきたい。「アイ文庫通信」というものに登録していただくことで、バックナンバーもさかのぼって聴けるようになっている。登録は無料だ。

声優志望の方向けのワークショップは、やはりアイ文庫主催のものが定評がある。とくにオーディオブックの読み手になるための育成講座としては、ほとんど唯一無二のものだろう。
「次世代オーディオブックリーダー養成講座」がそれだ。

またプロのアナウンサー、ナレーター、声優、朗読者、あるいはその志望者向けのあたらしい講座もスタートした。
「プロのための音声表現スキルアップセミナー」がそれだ。

こちらは個人セッションも用意されている。

養成講座もスキルアップセミナーも、もちろん「リップノイズ対策」はばっちりやる。
リップノイズは一概に「こうすれば取れる」というマニュアルがないのが難しいのだが、アイ文庫では豊富な事例としっかりした理論と実践による個人別の対策をしっかりやっている。

ほかのキーワードとして、
「iphone 回転を止める」
「精神病 オーディオ 自作」
「文学における鑑賞とは」
「全曲連続演奏会」
なんてものがあったりする。なかにはよくわからないものもあるが、見ていておもしろい。
いずれにしても、わざわざ私のブログを訪問してくれる方々には感謝である。

2011年1月17日月曜日

グレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」がもたらしたもの

グレン・グールドのバッハ「ゴールドベルク変奏曲」の衝撃について、あらゆる論評がされてきたが、この視点からの論評はないような気がするので、書いてみたい。
グールドはバッハの「平凡」とされる曲を、ふたとおりのアプローチで弾いている。
ひとつは「だれもがやらなかった緩慢さ」で。
もうひとつは「だれもがやらなかった敏速さ」で。

グールドが意識していたかどうかは知らないが、「緩慢さ」によって聴き手がもたらされるのは、「音の手触り」そのものだ。
想像してみればわかると思うが、たとえば鍵盤のひとつの音が「ポーン」と長く引きのばされたら、聴き手はなにを受けとるか。メロディという音と音の関係性が希薄になり、ひとつの音そのものが意識の前景に浮上してくる。ピアノという楽器そのものの音色や、その音程が持つ感触が聴き手にもたらされる。
これは現代音楽ではあたりまえにおこなわれる「音の触感」そのものを味わわせる手法といっていい。
極端に引きのばされた音。メロディーとは切りはなされて存在する音色そのもの。

逆に極端に速いパッセージは、聴き手がメロディを明快に追えなくなる。とくに対位法のように複数のメロディが複雑にからみあうような構成の場合、何本ものメロディがめまぐるしく走りまわると、聴き手はメロディではなく、音の塊としてしかとらえられなくなる。
これは現代音楽では「トーンクラスター」などという手法で実現されている。
もちろん、現代音楽のクラスター曲とはかなり隔たりがあるが、おなじ方向を指し示しているように聴こえる。

こういったアプローチによって、「ゴールドベルク変奏曲」は200年以上の時を超えて現代にあらたな音響としてよみがえったのだ。
バッハもグールドも、ともにすばらしい。
音楽も文学も、礎(記号)を作る書き手と、それを具体化(リアライズ)する実演家がともにすぐれてはじめて、コンテンポラリーの時空に超新星(ノヴァ)の輝きをもたらす。

iTunesで映画をレンタルしてみた(インセプション)

Appleの iTunes Store で映画がダウンロード購入したり、レンタルできるようになってしばらく経つが、これまで利用したことはなかった。
一度利用してみようと思い、ちょうど観たいものがあったので、試してみた。
タイトルは「インセプション」。レオナルド・ディカプリオが主演のSF映画だ。

iTunesを立ちあげ、Storeに接続して「Movies」というジャンルに入る。
まだまだタイトルは少ないが、日々更新されているようだ。
今日の時点で「ニューリリースと注目作品」を見てみると、

マイケル・ジャクソンの「This is It」
「メン・イン・ブラック2」
「ダ・ヴィンチ・コード」
「2012」
「エイリアンVSプレデター」
「トイ・ストーリー3」
「踊る大捜査線 THE MOVIE 2」

といった、おもにメジャーな作品タイトルがならんでいる。
もう少しマイナーな、テレビ放映はけっしてされないようなものが出てくるとおもしろいのだが、それは今後に期待。

映画データは「購入」と「レンタル」がある。
購入の場合、2,000円とか3,000円とかで自分のコンピューターにダウンロードして、いつでも好きなときに好きなだけ観れる。
レンタルもおなじようにダウンロードするのだが、いったん開いたら48時間以内に見終わらなければ観れなくなってしまう。ただし、30日間は観ないまま放っておいても大丈夫。
決済は音楽やアプリとおなじ、Apple ID を使う。
ここがApple社の成功戦略だと思うのだ。すべてのコンテンツが、コンピューター単位ではなく、個人IDに関連づけられて認証される。
これが進めば、ネット上にある特定のコンテンツについて、それが自分が買ったものだと認証さえできれば、特定のコンピューターでなくても観られるし、また持ちあるく必要はない。音楽でもアプリでも映像でも、データはクラウドに置いておけばいいのだ。

データ量はさすがにでかい。「インセプション」の場合、2.03GBあった。
ダウンロードする場合、回線品質は問題になるだろう。今後はそんなことは気にすることもなくなるのかもしれないが。
映画「インセプション」の感想は、またあらためて。気が向けば。

モレスキン手帳にCDジャケットをスケッチしてみた

ひさしぶりにスケッチ。
0.3mmという極細のシャープペンシルを使って、モレスキン手帳の1ページに、手近にあったCDのジャケットを写してみる。
ひさしぶりなのでうまくいかない部分も多かったが、楽しい。こういうちまちまこまごました作業が好きなのは、たぶん母譲り。

2011年1月16日日曜日

MacBook Air 11" をライブに持ちこんでみた

私は毎月、中野ピグノーズの「げろきょでないと」という定期ライブで演奏している。
ここにはグランドピアノがある。狭い店にどでんと置いてある。脇にはドラムセット、ウッドベース、ギターやギターアンプ、その他さまざまな楽器がところ狭しと置いてある。
ミキサーもあるので、電子楽器を接続することもできる。
以前、何度かキーボードを持ちこんでみたことがあるが、荷物が重くてでかくなるので敬遠ぎみだった。キーボード自体は軽いのだが、かさばる。そして音源として使うMacBookが重い。
今回、MacBook Air 11” になったので、また挑戦してみることにした。

外付けキーボードとしてKORGのX50というシンセを使うのだが、幅が1mくらいある。
専用のソフトケースがついている。よくできていて、キーボードがしっくり収まるのはもちろんのこと、横持ちで手や肩からぶらさげられるほか、縦にしてリュックサックのように背中にかつぐこともできる。
最近、この手のキーボードケースをしょっと歩いている若者をよく見かける。私は若者ではないが、いいじゃないか。
ケースのポケットにはダンパーベダルと電源アダプターが収まるようになっている。
これにさらに、MacBook Air とケーブル類、記録用のビデオカメラ、その他小物を入れてしまえないかと思って、やってみたら、すんなり収納できた。
このケースひとつをしょって、羽根木から中野まで出かけた。
夕方の通勤ラッシュの時間で、大きなケースが少し邪魔っけだったが、うんざりするほどではない。なにより、それほど重くないので、ずっとしょっていても苦ではない。途中でラーメン屋に寄るほどの余裕だ。
これなら毎回でも問題なく持っていける。

実際にセッティングしてみた。
X50とAirをUSBケーブルでつなぎ、音はAirから直でミキサーに突っこんだ。Airのラインアウト端子(ヘッドホン端子)にステレオミニプラグを突っこむ。反対側は標準プラグがふたまたになっている変換ケーブルだ。
標準プラグはミキサーのトラック2本にそれぞれ突っこんだ。
Airには Logic Studio 付属のMainStageというライブ音源ソフトを立ちあげて、それをX50で演奏する。
問題なし。
もうちょっと荷物を増やして、X50からもミキサーに音を出すようにすれば、もっと多彩な音作りができるだろう。
あと、iPhoneも活用できそうだ。徐々にやってみよう。

2011年1月14日金曜日

液晶保護シートの代わりに「ファイングラス・コート」

携帯電話やPDA、スマートフォンなどにはたいていの人が液晶を保護するためのシートを貼っているが、私はあれが嫌いなのだ。
当然ながら、iPhoneも「裸」で使っている。保護シートもケースも使っていない。
落としたら一貫の終わりだろう。とくに iPhone 4 は前面も背面もガラスでできているので、硬いところに落としたらあっけなく割れるらしい。実際、そのような悲惨な写真をいくつも見た。
が、私は裸が好きなのだ。落とさないように注意して使っている。

落下以外に、裸で使っているとどうしても気になるのが、液晶画面の傷や汚れだろう。
しかし保護シートは貼りたくない。
そういうわがままな私にうってつけのものがあった。
「ファイングラス・コート」というらしい。シートのかわりに特殊な液体を塗って乾かし、保護層で覆うというものだ。
けっこう値が張るのだが、たくさん使うものでもない。

使い方は、汚れを拭きとった液晶画面にピュッ、ピュッと液体を吹きつけてから、ティッシュで拭きとるようにしてまんべんなく液を薄くのばす。
10秒ほど乾かしてから、付属の布できれいに拭きとる。
これだけ。
塗ったあとはガラス面がピカピカして非常にきれいだ。よごれがついても拭きとりやすく、重宝している。
私のように「裸好き」の方におすすめ。

タイガーマスク現象をかんがえる

児童養護施設にランドセルがプレゼントされたことをきっかけに、全国的にタイガーマスク現象が広がっている。
マスコミのニュースではおおむね「美談」として紹介され、取り上げ方も加熱しているようだが、なんとなく違和感をおぼえるのは私だけだろうか。

違和感の原因についてかんがえてみた。
違和感などない、すばらしい話じゃないか、問題なし、と思っている人は、読まなくていいです。以下は私の個人的見解であり、自分自身の考えをまとめるために書いたメモのようなものです。暖かな目で読んでいただければ幸いです。

私は児童養護施設には関わりがあり、施設の運営の実情についても一般人よりわかっているつもりだ。施設運用をしている人たちにとっては、善意の贈り物はありがたいだろう。予算は常に逼迫している。しかし、テレビでは必要以上に困窮を強調するような報道がされている。
ありがたいことにはありがたいが、しかし全国ニュースで大々的に取り上げられ、場合によってはテレビカメラが入って取材されるほどのことだろうか。というのは、今回のタイガーマスクに限らず、これまでにも善意の人は常にいて、定期的な寄付やボランティアはつづけられてきたからだ。
手前味噌になるが、私も現代朗読協会として児童養護施設の子どもたちにボランティアイベントを定期的に提供しつづけている。今年もおこなう予定だ。
これには多くの人がかかわり、多大な労力(と資金)を提供している。金銭に換算すればおそらくランドセル数十個分ではきかない。
このことについてはとくに取り上げられることもない。取り上げられたくもないが。

施設の子どもたちはタイガーマスク現象をどう思っているんだろうか。私が施設の子どもだったとしたら、どう感じるんだろうか。
幼い子どもならともかく、施設には18歳までの思春期の少年少女たちもいる。彼らはどう感じているのか。
つまり、だれかが伊達直人を名乗りランドセルを施設にプレゼントし、それを見て我先にと多くの大人が同調してランドセルやら学用品やら現金をプレゼントしはじめる世間の雪崩現象を見て、施設にいる少年少女らはどう感じているのだろうか、ということだ。私はそのことをかんがえている。

私が危惧するのは、この「美談」に覆われてコトの本質が隠されてしまうのではないか、ということだ。施設の現状、施設にいる子どもたちの事情、その背景にある社会問題、またこういった施設にずっと関わり続けてきたげろきょを含むボランティアの人々の活動のこと。
マスコミ報道の貧困は、物事のほんの一面――しかも一番目立ってウケのいい面しか報道しない、ということだ。我々はそれをまず受け取るのだが、その背後になにがあるのか、じっと目を凝らしてかんがえなければならない。そして自分がそのコトとどう関われるのかかんがえてみる。
もちろんこれがきっかけとなって、児童養護施設やそれに関わる問題を、社会全体の問題としてきちんとかんがえる流れができてくれば、幸いだと思う。
すくなくとも私は、一時的なプレゼントで一種の「社会に対する鬱憤を自己満足で慰撫」するような行為には走らず、これまでどおり、施設の子どもたちと朗読パフォーマンスを通じて柔らかに共感しあう場を作りつづけていきたいと思っている。

2011年1月13日木曜日

祝ラジオユー初出演・瀬尾明日香嬢!

を〈げろきょ演出部〉のほうに書きこみました。
⇒ こちら

かつてレコード盤とステレオセットというものがあった

全世界的にHMVなどのCDショップが次々と閉店になり、コンパクトディスクという媒体が臨終を迎えつつあるように見える。
最近生まれた人は知らないだろうが、CDの前にはLPやSP、EPといったレコード盤の時代があった。カセットテープやMDという媒体もあった。
レコードは歴史が古く、エジソンがその原理を発明したのが19世紀の終わり。20世紀の初頭に日本でも蓄音機という名前で普及していった。私が音楽を聴きはじめたころにはすでにLPレコードの時代になっていて、音源もモノラルではなくステレオだった。
レコードは100年くらい活躍して、その座をCDにゆずった。ソニーとフィリップス社が共同開発したCDは、1980年代なかごろから急速に普及していく。私が学生だった頃、レンタルレコード店の品揃えが、LP盤からどんどんCDに置きかえられていったのを覚えている。

私が音楽を聴きはじめたのも、レコードだった。
私の父も音楽が好きで、私が中学生のなる少し前にステレオセットというものを買ってきた。それまではレコードプレイヤーがあったが、ポータブルのちゃちなもので、もちろんモノラルだった。
ステレオセットは居間にやってきた。立派なスピーカーがふたつあって、ターンテーブルにもプラスチックの透明な蓋がついている。
父はクラシック好きだったので、ベートーベンの交響曲第5番「運命」と第6番「田園」が裏表になっているものや、チャイコフスキーのピアノ協奏曲、ピアノ小品集などを買ってきた。定番のレコードばかりだったが、ステレオセットからは臨場感のある音が流れ、私も夢中になって聴いた。何度も何度も繰り返し聞いた。しまいには「運命」交響曲などスコアが読めるほどだった。
中学生のころは小遣いが少ないこともあって、もっぱら父親が買ってくるものを聴いていた。

高校生になると自分の好みの音楽もできてきた。とくにジャズ。
自分のお金で初めて買ったレコードは、山下洋輔トリオの「木喰」というアルバムだった。フリージャズだ。いまからかんがえてもとんがっている。
その後はウェザー・リポートのアルバムを何枚も買った。

よくいわれることだが、LPレコードは30センチ角くらいのジャケットにはいっているので、ジャケットそのものがアートでもある。高校生のときに買ったアルバムは、すべてジャケットの絵柄をくっきりと覚えている。その感触や、レコードに針を落とすときのドキドキも思いだせる。
時代が変わったのだから、あの頃はよかった、などというつもりはないが、「アルバムを買う」という行為にともなった、音だけではない物質感がいまはないことが、少しさびしい。
その物質感に代わるものとして、いまはどんなことが提供されているのだろうか。ネット映像だろうか。
CDの売り上げ減少につれてライブが盛んになっているというのも、そのあたりの「物質感」の欠如に原因があるのかもしれない。
それはともかく今年も私はひさしぶりに「アルバム」を作るつもりだ。どんな形になるのかはまだまったく決まっていない。

2011年1月12日水曜日

MacBook Air 11” で原稿が速く書けるのはなぜ

物理的にはキーボードが小さく、ピッチも狭いので、文字は打ちにくいはずだ。
しかも私はいまどきめったにお目にかかることのできない「カナ入力」派なので、キーポード配列のフルに5段を使って打っている。
我ながら器用だが、これは私がピアニストであることと、中学生のとき親に買ってもらった英文タイプライターの打ち方を基礎からみっちりと習得したことで、キータッチが正確なのと、両方だろう。もちろんローマ字入力もできる。カナ入力のほうがはるかに速いのでこちらでやっているまでだ。
だから、この話は一般的に適用されないかもしれない。

いちおう書いておくと、メインマシンである MacBook Pro 15" より、MacBook Air 11" で入力したほうが、原稿が速く書ける。
こういうことではないかと思う。
キーボードが小さい分、指を動かす範囲は狭くなる。もちろんその分、ミスタッチは多くなのだが、ミスタッチを避けるためになるべく指をキーボードに密着させるようにして細かく動かすようにしている。15インチと11インチでは明らかに、無意識レベルで指の動かし方が変わる。
物理的に動きが小さくなる分、入力速度はあがり、速く書けている、ということではないか。
実際、私以外にも、女性の方に多いのだが、小さいキーボードのほうが打ちやすい、といっている人もいる。

画面が広いのと、なんとなく打ちやすいと思いこんでいたので、家にいるときは原稿書きもメインマシンのほうでおこなっていたが、これからは原稿書きはAirのほうでやることにしてみるか?
しかし、やはり小さなマシンで打ちつづけるのは、肩が凝りそうな気がする。やってみなければわからない。

早起きな人々/夜更かしな人々

生涯のほとんどを自由業者としてすごしてきたが、そのくせに、というよりそのせいで、自分には割合厳しく規則正しい生活を心がけるようにしている。
社会人としての最初をバーテンダー、そしてバンドマンとしてスタートさせたのだが、どちらも時間厳守の仕事だった。
バーテンダーは午後5時に店にはいって、午前3時すぎに終わる。バンドマンは午後7時すぎに仕事がはじまり、午前1時とか3時くらいに終わる。それなりに規則正しい生活だったが、いずれも夜中の仕事だった。昼夜逆転の生活を、5年くらいつづけていた。
その後、職業作家になり、働く時間はほぼ完全に自分の自由になった。
最初のころはバンドマンの生活を引きずっていて、完全に夜型だった。昼ごろに起きだしてきて、日中はだらだらとすごし、夜、世間が寝静まったころに本格的に仕事を始める。夜が明けるころに眠りにつく。
そんな生活だった。が、すでに子どもが生まれていて幼かったこともあったのかもしれないが、夜型の生活に思いきって見切りをつけた。
もともと田舎生まれ、田舎育ちで、日中の明るい時間に活動することが性にあっていたこともあるだろう。あるときから完全に朝方に切りかえた。
それまで眠りについていた午前4時くらいに起きるようになった。まだ夜明け前だ。もちろん、夜はその分、早く眠る。午後10時くらいにはもう床にはいっている。
30代なかごろにそういう生活にシフトして、それはいまでもつづいている。

朝方の生活にすると、いろいろなことに気づく。
まず、意外に朝方生活をしている自由業者は多い、ということだ。自分が朝方にシフトしたとたん、朝方生活者に気づくようになった。
たとえば文豪ヘミングウェイ。彼は夜明け前の時間をプライムタイムと決めていて、その時間に仕事をした。そういった作家は意外に多いのだ。
早起き仕事の人びとにも気づいた。新聞配達がいかに早い時間に動いているか。あるいは農作業の人。バスや電車の運転手。夜通し走っている運送業者のトラックにも気づく。カラスやスズメなどの鳥たちが夜明け前から活動していることにも気づく。
そして夜明け前の美しいこと。

このところ、Twitterのタイムラインをながめていると、フォローしている人々の「おやすみ」「おはよう」の様子がよくわかっておもしろい。早起きする人、夜更かしの人、いろいろいるが、なんとなく傾向が見えて興味深いのだ。
早起きする人は几帳面な性格かというと、そうでもない。私を含め、たとえば有名人では茂木健一郎さん(@kenichiromogi)がいる。高橋源一郎さん(@takagengen)なんか相当早起きだ。
かと思うと、夜更かしの人に几帳面な方がいたりする。これは個人的な付き合いにおいてもそうだ。
それぞれのスタイルがあると思うが、私はともかく朝方だ。
薄暮からしだいに空が明るくなり、日がのぼってくる直前の時間がとても美しいと感じる。そのときに「匂いが変化する」といった人がいる。わかるような気がする。
前倒しに時間を使いたい人、後ろ倒し(そんな言葉があるのか?)に時間を使いたい人、いろいろいる。
いずれにしても、いまある時間をすみずみまで味わいながら生きていきたい。

2011年1月11日火曜日

iPhone 4 使用印象記

お正月の休み明けに予約してあった iPhone 4 がショップに届いたとの連絡あり。昨日、取りに行ってきた。
これまで使っていた iPhone 3G が2年間たち、バッテリーのもちがだいぶ悪くなり、機種代金も払いおわったので、iPhone 4 に機種変更することにしたのだ。
なにがどう変わった、とか、新機能はどう、とか、すでにたくさん情報が出ているので、ここでは書かない。
一日使ってみての印象を、簡単に書きつけておく。

まず、動作がキビキビしていて、速い。画面スクロールもタッチレスポンスも文字入力も、あとネットアクセスも段違いに速く快適になっている。
受け取りに行ったついでに、店頭に置いてあったほかのスマートフォンも何機種か試してみた。すべとAndroid機だが、いずれもiPhoneに比べるとレスポンスがもっさりしている。ほんとのわずかな違いなのだろうが、敏感な指先の動作には大きな差に感じられてしまう。

もっとも大きな違いで、使いでがあるのが、カメラ性能の向上だろう。
500万画素だが、1000万画素超のデジタルカメラがごくあたりまえになっているなか、ややスペック的には低いような印象を受ける。が、iPhoneカメラがスペックを超えたおもしろい描写力を持っていることを知っているので、まったく気にならない。
実際に撮ってみても、非常に満足がいく。
また、ディスプレイも「網膜の解像度」を超えた高精細の解像度なので、大変美しい。おもしろいカメラであり、写真ビューワーともいえる。

ついでに、ビデオモードでの撮影もハイビジョン画質で、携帯ビデオカメラとしては申し分ない。
前面にもカメラがついていて、こちらのスペックは明らかにされていないが、FaceTimeというビデオ通話などにも使えるのがおもしろい。

まったく不満がないわけではない。
一番の不満は形状デザインだ。なんのかんのいっても、初代iPhoneの丸みをおびた形状は美しいし、なにより使いやすい。ホワイトタイプがいつまでも出ないことも不満だ。

今後やってみたいのは、iPhone 4 からのUstream生中継だ。もっとも、3G回線では画質も音質もそう期待できはしないだろうが。

自己同一性拡散現象

を〈水色文庫〉のほうに書きこみました。
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雪原の思い出

この季節になると思いだすのは、雪原の風景だ。
私は北陸の片田舎、福井県勝山市という山間部の街に生まれた。九頭竜川の中流域にある街で、盆地だが、川が流れこみ、また流れでていく、両側に開かれた形状の盆地である。白山の麓にあり、全国有数の豪雪地域でもある。
越前の奥まった地域、奥越という名前がついている。全国積雪地図を見れば、新潟の一部と、この奥越だけが真っ赤になっている。積雪が2メートル、3メートルということも珍しくない地域だ。
なので、いまでも雪を見ると反射的に嫌悪感をおぼえるが、雪かき労働を強いられない子どものころは、雪も楽しかった。ものごころつく前からスキーに親しんでいたし、雪遊びもいろいろとやった。

雪の思い出としてもっとも心に刻まれているのは、雪原の光景だ。
私の家は田舎町のまちなかにあったが、学校は街はずれにあった。当時は国道がまちなかを通っており、私の家もそのすぐそばにあった。学校に行くにはその国道沿いをずっと南に1キロほど歩いていく。国道を渡らずにすむのだが、ときにわざと国道の向こう側を行くときもあった。
国道の向こう側はほとんどが田んぼで、家は当時、ほとんど建っていなかった。農家がぽつんぽつんとあるくらいで、あとは農作業小屋がいくつか建っていた。
雪が降り積もり、一面の雪原になったあと、天候が回復して日が照ったりすると、雪の表面が溶けて水っぽくなる。
そのように晴れた日の夜は、放射冷却現象で冷えこむことが多い。気温が氷点下になり、溶けた雪の表面は、翌朝、かちかちに凍りつく。
凍りついた真っ白な雪原の上を歩いていくのが大好きだった。田んぼの上はほとんど真っ平らで、学校までの1キロほどの距離が見渡せる。道も関係なく、ヨットのように蛇行しながらかけたり歩いたりして行くのが、たまらなく楽しかった。
寄り道して山裾のほうまで行くと、やはり凍りついたウサギや野ネズミの足跡が雪の上についているのを見つけることもできた。点々とかわいらしい足跡が山から出て山に戻っている。

よく凍りついた表面は大人が歩いてもびくともしないほど硬かったが、学校から帰るころになると、ややゆるんでくる。まだ表面は硬いのだが、ぴょんと跳ねたり、走ったりすると、ときに氷が割れるようにズボッと靴が雪のなかに埋まったりする。それがまた楽しいのだ。
積雪でほとんど埋もれたようになっている農作業小屋の屋根にあがり、そこから飛び降りてわざと雪に埋まったりする。長靴が抜けなくなって往生したこともあるが、楽しい遊びだった。友だちとおおぜいで遊んだり、ひとりでもそんなことをやりながら帰ったりした。
いまとなっては懐かしい思い出だが、今日のように冬型の気圧配置で、東京も北風が強く、「北陸は雪」という予報を聞くと、そんなことを思いだす。

2011年1月10日月曜日

Mac App Store の可能性

世間では(とくにWindowsユーザーには)ほとんど話題にされず、注目もあまりされていないが、先日の Mac App Store のサービススタートのことをもう少しかんがえておきたい。
このサービスの概要はすでに「Apple App Store が来た!」に書いた。
ほかに、App Store のスタートから24時間で100万ダウンロードがあった、というニュースがある。
また、私はEvernoteというクラウドサービスを利用しているが、その日本ユーザーが App Store がスタートしていきなり倍の登録数になったことが発表されている。Evernoteはアプリが App Store に最初から出ている。

アプリが直接ダウンロードできるようになって便利だ、とかなんとか、そういうこともあるが、私が注目している点はふたつある。
ひとつめ。
iTunes Music Store → iTunes App Store → Mac App Store という一連の流れのなかで、アップル社は確実に、コンテンツを個人ユーザーに直接届け、またコンテンツ代金を直接回収する方法を作ってきた、ということ。
音楽がレコードやCDで売られていたころ、またソフトウェアがCDやDVDで売られている現在、そして本が紙の書籍で流通している現在、個人間で気軽に貸し借りされたり、違法コピーが出回ったりしてきた(している)。しかし、このアップルの Store のシステムでは、一個人が確実にお金を払い、自分用のコンテンツを正規に手にいれる「商習慣」ともいうべきスタイルが、抵抗なく身についていっているように見える。
もちろんコンテンツの価格が安く設定されていることもあるだろう。が、それ以上に、不法コピーや貸し借りの面倒さより、個人が安価なコンテンツをクリック一発でダウンロードできる手軽さを選ぶようになってきているのだ。

ふたつめ。
iPhoneやiPadのiOS開発者のように、Mac App Store もデベロッパーライセンスを購入すれば、だれでも開発者になれる。
自分が開発したアプリは、iTunes Store と同様、Mac App Store で販売できる(認可されれば)。アップルが3割の手数料を取り、開発者は7割の取り分となる。
これ「開発者」などといっているが、コンテンツ製作者といいかえたほうがいい。つまり、音楽家も小説家も写真家も漫画家も、もちろんプログラマーも、コンテンツ提供者はだれかに販売を任せるのではなく、自分でアプリを作って公開してしまえばいいのだ。アプリが作れない人は、アプリ製作代行サービスのようなものを利用すればいい(手数料は取られるが)。
そして、コンテンツ代金の取りっぱぐれがない。コンテンツ代を低く設定しても、多くの人から確実に徴収できるほうがいい。
ゲームを中心としたアプリが数百円という価格に設定されているように、電子書籍も1冊100円くらいになってもいいかもしれない。

「水色文庫」があちこちで読まれている(うれしい)

時々、「水色文庫」を読みたい、あるいは読ませてもらった、という連絡がメールやmixiメッセージで届く。
今日も届いた。
京都のラジオで朗読を流すのだが、「水色文庫」にはいっている私の「Smile Of You」という作品を使わせてほしい、という連絡だ。
もちろん歓迎だ。
そもそも「水色文庫」は著作使用権を開放している。どんどん自由に読んでもらってかまわない。ひとこと連絡いただけるとうれしいのはいうまでもない。

先週土曜日には、ティアラ江東でおこなわれた「語りの芸術祭」に出演の秋山雅子さんが、「Bird Song」を朗読してくれた。これも「水色文庫」にはいっている。
秋山さんからは、光栄なことに、ピアノ演奏もお願いしたい、という依頼をいただいていた。もちろん喜んで共演させていただいた。
「水色文庫」を読みたい、という連絡も歓迎だが、共演したいという依頼もうれしい。
皆さん、気軽にお声がけください。お待ちしております。

現代朗読協会のゼミやワークショップを見学したり、参加された方には、「どこ経由」でここにたどりついたのか、聞いてみることにしている。
たいていは「朗読」というキーワードでネット検索し、げろきょのホームページにたどりついた方々だ。
ほかには、mixiやネットのイベント告知、あるいは私のこのブログを見て、という方もいる。
先日、ある朗読講座に参加したときに、テキストとして「水色文庫」にある私の「Solitary Woman」という作品を渡され、それを気にいっていろいろ調べていたら、げろきょに行き着いた、という人がいて、びっくりした。これはうれしいびっくりだ。

あと、よくは知らないのだが「こえ部」とかいうネットの集まりがあって、そこでも私の作品を読んでくれている人が何人かいるようだ。
ここしばらく、新作を登録していないが、また書きたいと思う。

「安ければいい」ではないでしょう?

あなたは100円圴一ショップでものを買いますか?
あなたはハンバーガーショップで100円バーガーを食べますか?
なぜこれらの商品がこれほどに安いのか、かんがえたことはありますか。
この低価格を実現するのになにが犠牲になっているのか、かんがえたことはありますか。

ものを買うときに「安ければいい」という価値判断が極端に進捗したのは、高度経済成長にともなう大量生産時代のせいだ。それ以前の日本には、安価なものを買うときにその判断をいさめる「安かろう悪かろう」という言葉が存在していた。安すぎるものにはなにか悪いことがある、安さを求めすぎれば代償を払わなければならない、という警鐘の言葉だ。
が、生産ラインによる大量生産品が安くても高品質で流通するようになって、古人の言葉は意味をうしなっていった。代わりに「安いほどよい」という価値観が全面に押しだされた。
その価値観が過剰に追求された結果、現在では「安さ」のためには「多少の犠牲もやむをえない」という風潮が蔓延している。安さを追求するメーカーは、原材料の仕入れ価格も徹底的に絞りこむ。
原材料は往々にして、発展途上国からやって来ることが多い。
ドキュメンタリー映画にもなっているが、コーヒー原産国の生産者の苦悩がある。
コングロマリットによる価格統制によって徹底的に買い叩かれることによって、生産者はギリギリまで追いつめられている。その実情は、冷暖房のきいたリビングで優雅にコーヒーを楽しむ先進国の者には届かない。

100円ショップで売られている音楽CDや食器、さまざまな日用品が、第三国からの労働力や資源の搾取によってその低価格が成り立っていることを、私たちはほとんど意識したことがない。ハンバーガーショップがどのような犠牲の上であの低価格を実現しているのか、かんがえたことはない。
人々が「安さ」を求めてそのような商品を追いかけてきたことで、きちんとした製造業や小売りや生産者の多くが犠牲をしいられた。また多くが廃業にまで追いやられた。それはいわば社会基盤ともいうべきもので、本来ならひとりひとりがコストをになうべき大事な人々なのだ。
私たちがこの社会を大事に思い、また子どもたちや次の世代に受け継いでいきたいと思うなら、安いものに飛びつくのではなく、きちんとしたものに正当な対価を払い、社会基盤を維持し育てる意識が必要なのだと思う。もちろん無駄をなくして価格を抑えることは大事なのだが。

物品や人々の労力、資源について、「適正価格」というものがもう少しきちんと考えられていいのではないか。単品としてではなく、さまざまなことの有機的な関係性において、それらがちゃんとかんがえられて設定され、みんなが納得できる文脈が再構成されてもいいのではないか。
ものを買うにしてもなにをするにしても、ほんの一歩踏みだしてなにかをかんがえてみることをしてもいいのではないだろうか。
たんなる「消費者」から「社会構成員」としての自覚を持った人間が増えるといいと思う。

2011年1月9日日曜日

坂本龍一ソロコンサートがUstreamでライブ配信されたことの意義

坂本龍一(@skmt09 @skmt56)の韓国ソウルでのソロコンサートの模様が、リハーサルの模様を含めてUstreamで配信された(夜の部もこれから配信されるらしい)。
午前中の調律の様子から流れていたので(流したのはデジタルステージの平野さん @dsHirano)、私もずっと見ていた。
見ながら、いろいろかんがえていた。

コンサートホールとかライブハウスといった「箱」がなんのためにあるかというと、「料金徴収所」としての機能である。
音楽に限らず、サーカスもカーレースも野球もスケートリンクも、入口で料金を払ったものだけが中にはいれるようになっている(あらかじめチケットを購入しておくことも含め)。
美術館や映画館もそうだ。
前にも何度か書いたが、なにか見たいものがあって、それが商業的なものであれ文化的なものであれ、お金を払わなければ入れない「箱のなか」にある場合、お金を払えない人はそれを見ることはできない。
音楽や美術といった文化的なものが、「お金がない」ことを理由に享受できない人が出てきてしまう。たとえば子どもとか。このことにたいして、このところずっと違和感をおぼえていた。
とはいえ、パフォーマーは生活しなければならないし、「箱」を使うにも経費が必要だ。スタッフの人件費もあるだろう。どこかからお金を徴収しなければならない。
というジレンマがあった。

今回の坂本龍一のコンサートは、私も家にいながらにしてコンピューターをネットにつなぎ、別に料金を払うこともなく、高音質・良画質で見ていた。
これは大晦日のベートーベン交響曲全曲演奏会もそうだった。
おなじように見ていた人は15,000人くらいいた。
もちろん音楽なのだからライブ会場で直接聴くのがもっともリッチな体験にはちがいないが、15,000人の人が同時に、居ながらにしてライブコンサートを聴くことができる。しかも、チャットのようにどんどん感想を書きこみ、それを共有することができる。
コンサート会場で感想をいいあえば、「うるさい」としかられてしまうだろうが、Ustream上でならいくらつぶやいてもしかられない。そして、坂本龍一のパフォーマンスにたいする惜しみない賞賛の声が、タイムラインを埋めつくしていった。
これはプレーヤーにはうれしいことだろう。

これを見ていて、あたらしいライブ音楽の発信方法がひとつ生まれた、と思った。
音楽の世界ではCDという媒体がほぼ死に瀕しているが、ネットライブ配信というチャンネルがあらたに生まれた。
CDのように確実に料金を徴収することができないので、このチャンネルをどのようにパフォーマーの収益につなげていくかはまだ不透明だが、大きな可能性はあると思う。なにより、だれもが無料でライブにアクセスできるのがいい。お金を払って箱にはいらなくても聴けるのだ。
坂本龍一はメジャーな音楽家だが、現代音楽やジャズ、朗読といったマイナーなパフォーマーにとって、これは今後福音になっていく可能性があると思う。15,000人も見てくれなくても、たとえば10人とか20人、100人とか200人が見てくれればいい、という人もいるだろう。
Ustreamを使ったライブ配信を、私ももうすこしまじめにかんがえてみることにする。

【もうすぐ】げろきょでないと Vol.24/朗読体験講座

あさって1月11日(火)夜は中野ピグノーズでの「げろきょでないと」ライブです。
2009年からスタートしたこのライブも、足掛け3年めに入りました。今回で第24回となります。
出演はおなじみの野々宮卯妙や照井数男、そしてお客さんもおなじみの方や新規の方が少しずつ増えてきていて、ありがたいかぎりです。
大変こじんまりしたライブスペースなので、毎回、アットホームな感じでやっています。
朗読/音楽を聴きに来る方、ただ飲みに来るだけの方、朗読や楽器演奏での飛び入り参加の方、いずれも歓迎です。気楽においでください。
詳細はこちら

また今週末1月15日(土)は、しばらくお休みしていた体験講座をひさしぶりに開催します。
このところ「現代朗読(げろきょ)」についての関心が高まってきていますが、それを手軽に体験できる半日講座です。
読み聞かせからコンテンポラリーアートまで、朗読パフォーマンスからオーディオブックまでカバーする、自由で間口の広いあたらしい朗読を、ぜひ体験しに来てください。
詳細はこちら

山田正紀さんのこと

最近、作家の山田正紀さんがツイッターにいるのを発見し、さっそくフォローしている。
もちろん多くのファンがおられるだろうが、私にとっては個人的に思い入れの深い作家である。そのことを少し書いてみたい。

彼の作品を初めて読んだのは早川書房のSF月刊誌『SFマガジン』でのことだった。
たしか私は高校1年か2年だったと思う。「神狩り」という、短編としてはちょっと長い、長編というにはちょっと短い作品だったと思う。
初めて見る名前だったが、衝撃を受けた。頭をトンカチで殴られたような気がした。
私は小学校高学年のころから、割合系統立てて文学小説を読んできていた。とくに中学校に入ってからは日本や世界の文学全集を片っ端から読破し、ちっぽけな学校の図書館にはもう読むものがなくなった。
そこで、それまで「ゲテモノ」として手をつけていなかったSF全集にも手を出した。それがSFにハマるきっかけだった。
最初は翻訳ものがほとんどだった。ハインラインやアシモフなどの欧米のSFを片っ端から読みあさった。中学校の終わりごろには日本の作家にも手を出し始めた。
『SFマガジン』も毎月欠かさず買い、隅から隅まで熟読した。
そんななか、突然「神狩り」が現れたのだ。
学生運動と神の実在・不在をからめた非常に緊迫感のある小説で、文体も最初から完成されている感じがした。とても新人作家とは思えなかった。

そのころ私も、作家になろうなどと思っていたわけではなかったが、なんとなく小説の習作を始めていた。いまから思えば笑ってしまうのだが、山田正紀の登場を見て「これはかなわん」と、しばらくなにも書けなかったのを覚えている。
その後の彼の作品はもちろん全部追いかけた。
その後私は大学に入り、そして途中でやめ、京都でバンドマン生活を始めた。そうしながらも相変わらず小説の習作はつづけていた。
バンドマン生活に見切りをつけて生まれ故郷の福井に帰ることになったとき、生まれて初めて最後まで小説を一本書きあげた。山田正紀に見習ったわけではないが、中編小説で、原稿用紙で200枚くらいの中途半端な長さだった。それが私の職業作家デビュー作となった。
後日400枚の長編になって、徳間書店から刊行されることになる。「神狩り」から12年くらい経っていたと思う。

私もSF作家の仲間入りをし、大阪でおこなわれた日本SF大会に参加したりもした。そのときに私が夢中になって読んでいた日本のSF作家に紹介してもらい、天にものぼる気持ちだったのを覚えている。
山田正紀さんとは直接お話したことはないが、なにかの会合で何度かお見かけした。
もちろん山田正紀さんは私のことなど覚えておられないだろうが、いまこうやってツイッターのTLに流れる彼のつぶやきを見ていると、なんともいえない感興がわいてくるのを覚える。

2011年1月8日土曜日

マインドフルを探せ

朗読表現をおこなうとき、もっとも大事なことのひとつに「プレゼンス」という考えがある。
未来をたくらまず、過去にしばられず、「いまあるこの現在の私」に意識を向けることで、身体と感受の質を最高に保とう、という方法である。
「こう読んでやろう」とか「間違えたらどうしよう」とか「下手に思われたらいやだな」などと未来を予測して心ここにあらずの状態。あるいは「練習のときにはこう読んだ」とか「ここでよく間違えるんだよね」などと過去にとわれて心ここにあるずの状態。それを極力やめていきたい。

自分の心がすみずみまでいま現在の自分であり、またいま現在のテキストやディエンスに出会うことを意識しているとき、パフォーマーは最高の質でパフォーマンスをおこなえる。
これが「プレゼンス」でありたい理由である。
この状態を「マインドフルネス」という。

マインドフルにある人は、刻々と変化する時間や空間、環境を感じ、また自分自身もその流れのなかで変化していることを感じ、オーディエンスのレスポンスも受け入れていく。
一瞬としておなじ状態はなく、すべては流れている。百ペんも読んだテキストですら新鮮に思える。
表現するときにこの状態でいられるようにするためには、日々の「気づき」が重要だ。まるで禅僧の修行のようだが、ほぼそれに違いないといっていい。
ただしこれは「苦行」ではなく、生きることを最高に密にし、楽しむための方法にもつながっている。

「気づき」のためにいろいろな方法や事例を提案しているが、今日は一風変わったゲーム的な方法を提案してみる。
題して「マインドフルを探せ」。
「ウォーリーを探せ」というゲームがあるが、あれと似たようなものだと思ってくれていい。人がおおぜい集まっている場所でできる。
たとえば駅のホーム。
人がたくさん電車を待っている。このなかにマインドフルな状態でいる人は何人いるだろうか、と探してみる。マインドフルでいる人は、おなじようにマインドフルでたたずんでいる人がすぐにわかる。それはやってみればわかるのだ。やってみてほしい。
たいていの人はマインドフルな状態ではない。つまり「心ここにあらず」という「死んでいる状態」にある。
たとえば携帯電話をいじっている。心はケータイメールやケータイゲームのなかにある。
たとえばぼんやり考え事をしている。昨日の失敗を悔やんでいるのか。それとも今日の計画をめぐらせているのか。
ともかく、心はここにない。いまこのホームに立って、人々にかこまれ、風が吹き、時がすぎていくなかにいる自分自身のありようには気づいていない。
私たちはほとんどの時間をそのようにすごしている。そういう癖を身につけている。

しかし、まれにあなたとおなじようにちゃんと「心がここにある」状態の人を見つけることができる。彼(もしくは彼女)は、ケータイをいじってもいなければ、本も読んでおらず、ぼんやりもしていない。目が生きてまわりをしっかりと見ている。耳はまわりの音をとらえている。
彼はいま現在の自分と世界の状況をとらえて、わくわくしている。そのようすは、おなじマインドフルの状態にある人からははっきりと見える。ふと目があったりすると、なんとなくお互いの状況を認識しあって、ちょっと会釈してしまったりもする。これは誇張でなく実際にある。
ちょっとしたゲームだが、マインドフルネスの練習には効果的だと思う。実際、私はときどきそんなことをやって楽しんでいる。
もっとも、ウォーリーとおなじくマインドフルの人を探すのはなかなか難しい。

2011年1月7日金曜日

Apple App Store が来た!

を〈エレクトリックミズキ〉のほうに書きこみました。
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Apple App Store が来た!

Mac OS が 10.6.6 にバージョンアップされたので、インストールしてリスタートすると、ドックに自動的に App Store のアイコンが追加された。
これは iPhone や iPad、iPod touch などのiOS用にすでに提供されている App Store とは違って、Macのアプリケーションそのもののダウンロード販売サイトである。つまり、Mac OS-X 用のアプリケーションが、直接Appleからダウンロード購入できるわけだ。
ドックにはいった App Store のアイコンをクリックすると、Macがネットにつながっていれば直接 App Store に接続される。
ログインは iTunes Store の App Store で使っている Apple ID とおなじものをそのまま使える。

どんなアプリがならんでいるのか見てみると、有料Appには「iPhoto」や「Keynote」「Pages」「Numbers」「iMovies」「GarageBand」といったおなじみのものがある。これらはすでにインストールずみの場合は「INSTALLED」と表示される。
買いたい場合は、「BUY」ボタンを押せば、決済画面が出て、自動的にインストールされる。インストールされたアプリは、自動的にデッキにアイコンが追加される。

無料アプリをいくつか落としてみた。
「Twitter」は「Tweetie」をツイッターが買収して、公式アプリになったものだ。
ほかにも「Evernote」「SketchBook」「StuffIt Expander」「MindNode for Mac」など、たくさん並んでいる。いちいちアプリのサイトまで行ってダウンロードしなくてもいいのが便利だ。
無料ゲームもけっこうある。私はあまりゲームはやらないが、「Solitaire」「Golf」「Blackjack」「Poker」「Basketmania」「Minesweeper」などたくさんある。

このストアのすごいところは、iOS と同様、デベロッパーとしてライセンスを購入すれば、だれでもアプリを開発してここで売れる、ということだ。iPhoneやiPadアプリとまったくおなじ仕組みだ。
すでにiPhoneアプリの開発などで Objective-C のプログラミングの勉強をしている人なら、まったくおなじようにMacアプリを開発したり、iPhoneアプリをMacに移植したりできるわけだ。
開発者にとってもありがたい環境が登場したわけだが、それ以上にエンドユーザーにとっても、今後魅力的なiPhoneアプリがたくさんMacに移植されるかもしれないというのは、喜ばしい。
とくに多くの音楽ソフトが移植されたら、MacBook Air のユーザーとしてはとてもうれしい。

冬の野菜が甘くなるわけ

皆さんは冬の野菜が甘くなる理由をご存知だろうか。
正月で北陸の実家にしばらく帰っていた。畑で取れた冬の野菜を何種類か食べた。ネギ、白菜、大根、蕪、いずれも甘みがあった大変おいしい。大根などは葉っぱまでおいしくいただいた。
冬に野菜が甘くなるのは理由がある。
気温がさがって氷点下になると、野菜も凍りつく。凍りついてしまうと、野菜の細胞が水分の膨張でこわれ、死んでしまう。そこで野菜も凍るまいと防衛手段を打つ。すなわち、みずから糖分を作り、MOL濃度をあげて、凍結を防ぐのだ。
糖は分子が大きいので、MOL濃度をあげやすい。MOL濃度があがると、水分は氷点下でも凍らなくなる。細胞が壊れにくくなる。
大変かしこい所行である。だれからも教わらなくても、冬野菜は自分でそういうことをやっている。
それに比べて人間の浅知恵なんて知れている。

人は大脳皮質を発達させて文明を築き上げ、地表にびっしりとはびこるまでに繁栄したけれど、本当の叡智はどこにあるのか、とよく思う。
文明が進めば進むほど自分の頭で考えられない、自分の身体を生かしきれない愚民が増え、思考停止の集団ばかりがのさばるような気がしてならない。

実家から東京に戻る途中の空港に向かう車中から、カラスが道路に数羽降りているのを見た。
車が通るのに危ない、なにをしているんだろうとよく見たら、なかの一羽がなにか黒いものを道路にポトリと落としている。よく目をこらしてみたら、なんとクルミなのだった。
カラスは自分でクルミを割ることができないが、中身は食べられることを知っている。そしてクルミを道路に落としておけば、やがて車がタイヤで踏みつぶしていってくれることも知っている。
恐ろしいほどの知恵だ。私たちはカラスや冬野菜に匹敵する真の意味での知恵を持っているだろうか。

真の知恵とは、自分の身体能力と生存と世界のありように対して有機的に引き結んだ、深く必然的な知恵ということだ。たんなる知識や、計算能力、情報の運用能力のことではない。自らの身体が凍結することを防ぐために糖分を増加させるようなたぐいの知恵と身体能力のことだ。
甘くておいしい冬の野菜をいただきながら、考えた。
文明というシステムにがんじがらめに捕われて自らの潜在能力を埋もれさせてしまった人間が、もういちど鋭い感受性や、世界とつながった深い叡智や、本来持っているはずの身体能力の可能性を取り戻せないものだろうか、と。
そのためにはなにが必要なのだろうか。
やはり自ら身体を運んで、凍てつく寒さを体験し、硬いクルミに歯を立ててみる必要があるのではないだろうか。実体としてあるのは、たしかにこの私の身体なのだから。

2011年1月6日木曜日

人が表現する理由

人は表現せずには生きられない生き物だといわれる。
音楽演奏や朗読などの狭義の表現にかぎらず、料理、会話、仕事、ファッションなど、広義の表現まで含めると、たしかに人が生きることはすなわち表現することと同義語のように思える。
表現、すなわち自分を表現することは、自分の存在をなんらかの方法で他者に伝えることにほかならない。
よく誤解されることだが、表現する人は「なにか表現したいこと」があって表現をおこなうのではない。表現する前から明快に表現したいものが定まっている人などだれもいない。人は表現行為をおこなって初めて、自分がなにを表現したかったのか、後付けでわかるのだ。なぜなら、自分が表現したいことが顕在意識に明快に表面化していることなどめったになく、あったとしてもそれは「嘘」か「すり替え」にすぎない。本当に表現したいことは潜在意識にしかない。

私たち人間は全員、成長の過程で「社会的成員」のひとりになることを教育され、いまもそうであることを強いられている。その枠組みはほとんど自分の思考過程そのものをも決定づけている。使用言語を含め、後天的に獲得した思考システムを逸脱することは、まず不可能といっていい。
潜在意識のみ、そのシステムからの自由が保障されている。
たとえば夢のなかの世界がそうだ。夢はたしかに私たちの脳内でおこる思考の一部であるのに、そのイメージを自分でコントロールすることはできない。このコントロールできないものこそ、私たちの自分そのものである。
しかし潜在意識も、そして自分自身の外形的イメージも、私たちは自分で見ることができない。つまり「これが自分だ」というものを私たちは自分自身で確かめることができないのだ。
「あなたはだれ?」と問われたときに感じるとてつもないとまどいと不安は、このためだ。
この不安が原動力となって私たちは表現行為に駆り立てられる。

だれかに向かってなにかを表現したとき、相手からはなんらかのレスポンスがある。そのレスポンスは私たちが確実に受け取ることのできるものだ。そのレスポンスこそ、私がここにいてなにかをおこなったという証拠である。
私が表現をおこなった相手のレスポンスを見て、初めて私は、自分の存在と行動を確認することができる。私ひとりでは私の存在を確認する方法はない。
「そんなことはないだろう。げんにこうやって腕があり、触れれば感触もあるじゃないか」
という人もあるかもしれない。
しかしそれは主観的なものであり、客観的事実とはいえない。私がここにこうやっていることを「客観的に」示すことにはならない。
私がここにこうやっていることを客観的に認識するには、私以外のだれかに私の表現を伝え、そのだれかのレスポンスを私が「客観的に」見るしかない。

人は自分自身の存在とありよう、そして内在的な表現欲求を確認するために表現する。それはまず間違いのないところだろう。
だれかを楽しませるためにとか、朗読なら文学作品の世界を伝えるためにとか、いろいろな表現の動機や目的がならべられるが、いずれも表面的にすぎない。
表現する理由が自分自身の深くて強い欲求のなかにあることを認識し、そこに立脚しておこなう表現行為こそ、極めて個人的であると同時に、それゆえに普遍性を持つといえる。

2011年1月5日水曜日

「わかった」の思考停止「わからない」の思考停止

正月に金沢の21世紀美術館に行ったとき、家族連れで来ていた一家のおばあさんらしき女性が、
「こういうのはわからんのよね」
と家族にいっているのが聞こえてきた。
21世紀美術館は金沢のど真ん中にある現代美術館である。
現代美術を観に行くと、しばしばこういう声が聞こえてくる。
「意味がわからない」
「なにをいいたいのかわからない」
「なにが描いてあるのかわからない」
そうつぶやいて人たちは、その作品について思考停止におちいっている。もちろん、それ以上なにかを感じることもない。
まったく逆に具象絵画でよく起こることだが、
「これは港の絵だ、きれいだね」
とか、
「この裸婦はふくよかだなあ」
と、自分が知っているものが描かれているのを見てわかったつもりになり、思考停止におちいるパターンもある。

「わからない」も「わかった」も、ともに「思考停止」「感受ストップ」の状況を作りだしてしまう。このことは絵画鑑賞のみならず、すべての芸術観賞においていえる。
たとえば、朗読を聴く人にもこれは起こる。
朗読者が読んでいるテキストを聞いて、
「あ、この小説は知っている」
とか、
「こういうストーリーなんだな」
と、テキスト情報をとらえて「わかった」つもりになる人が多い。しかし、その人はなにを聴いたというのだろう。「わかった」のはストーリーであって、朗読者のことではない。
朗読者が伝えようとしたことをとらえること、あるいは絵描きが伝えようとしたことをとらえることにおいては、ストーリーの理解や描かれている物体の認識だけでは不可能だ。なにか芸術作品を鑑賞するとき、「わかる/わからない」という基準とは別の接し方が必要なのだ。

では、それはなにか。
子どもたちが芸術作品(でなくてもいいのだが)に接したとき、彼らがどうふるまうか、観察してみよう。
彼らはなにかに接すると、
「変なの」
とか、
「おもしろーい」
とか、
「やっつけちゃえ」
とか、さまざまな反応を示す。彼らはいったいなにをしているのか。
彼らはまさに「体験」しているのだ。自分と芸術作品の関係のなかで体験を持ち、その体験で生じた身体感覚を「変なの」といった言葉にしている。
大人にはこの「作品を体験する」という感覚が欠如している。成長の過程のどこかで置き忘れてきてしまったのだ。

私たちはふたたび「体験する」ことを取り戻せないだろうか、と思う。
朗読を聴くとき、それを理解しようとするのではなく、朗読者の存在そのものを含めて丸ごと体験として受容できないか。そうできたとき、私たちの口からは、なにか別の言葉が出てくるのではないか。
アタマではなく、カラダで受け止めること。理屈ではなく感覚で反応すること。本来私たちはそうやって成長してきたはずなのだ。
大人になった私たちがもう一度子どもの感性を取りもどせれば、すごいことが起きる。

2011年1月4日火曜日

自分が何人もいたっていいじゃないか

小器用なところがあって、いろいろなことができてしまう。
内なる声にいわせれば、本当はどれもそれなりの努力の賜物であって、才能とは関係がない。小説を書いて、ピアノを弾いて、手慰み程度だが絵も描いて、朗読演出をやっている。
心ない人からはしばしば、痛烈な質問を浴びせられてきた。
「それであなたはなにが本業なんですか?」
「なにかひとつに絞れば大成するのに」
その質問の背景には、人はなにかひとつのことをやり貫いて全うすべし、という思想がある。日本人はとくにその考え方が好きな人種のように思える。そのために私は長く苦しんできた。

ひとりの人間のなかにはさまざまな顔がある。
ごく普通のサラリーマンでも、会社にいるときの顔、家庭にいるときの顔、家庭でも妻と接するときの顔、子どもと接するときの顔、子どものお母さん(妻だけど)と接するときの顔、町内会の行事に参加するときの顔、などなど。
おなじように、表現においても、文字を書く、絵を描く、音を奏でる、映像を写すなど、さまざまな顔を持っていて当然だろう。ひとつの顔に限定して自分を閉じこめることはないと思う。
水城ゆうという私は、いくつもの顔を持っている。それはまったく正直に自然なことだろうと思うのだ。

ありがたいことに、最近は「いろいろなことができるんですね」といわれることはあっても「なにが本業なんですか?」と訊かれることは少なくなってきた。
時代がそうしているのかもしれない。少なくとも私のまわりの人々は、ひとりの人間にひとつの価値観を閉じこめるような見方はしない。
比喩的ないいかたをすれば、私のなかには何人もの水城ゆうがいる。音楽を作る水城。演奏する水城。書く水城。描く水城。演出する水城。話す水城。料理する水城。生活する水城。
全部自分であり、自分のなかにひとつの人格が統合されているわけではない。複合人格としての私がある。
これはだれもがそうであり、自分が統一人格を持っているように思いこんでしまうと、そこからはずれた感情や行動が生まれたときに悩むことになる。そんな悩みは不要だ。
逆にいえば、自分が複数の人格の複合であることを自覚すれば、いろいろな可能性が見えてくる。

これまであれができない、これができない、と思いこんでいたことも、それが得意そうなある人格に任せてしまえば、楽にできるようになる。
たとえば英語が不得意でいまさら勉強も苦手だという人は、自分のなかから英語が好きな人格を召還すればいい。かならずそういう人格は中にいる。
子どものときに、アルファベットを覚えたり、ローマ字を書いたり、中学生になって英語を習いはじめたときに、だれもがわくわくした覚えがあるだろう。なにか新しいことを始めるときに感じたわくわくした感覚。あのときの人格を召還できれば、英語学習も楽しいものになる。
ある年齢に達してなにか新しいことを学ぶとき、億劫がっている人はいつまでも旧人格のなかにとどまっているだけだが、別人格を呼びだして学ぶことを楽しめる人は、おそらくいつまでも若い。

2011年1月2日日曜日

新年エレクトリック考2011

2009年の正月にiPhoneを使いはじめて、2010年には音楽アプリが充実していった。かつての高額なソフトウェアシンセサイザーやシーケンサーの名機が次々とiPhoneアプリに移植され、こちとらユーザーとしてはうはうは喜びながら使った。
iPadが出たが、見向きもせず、iPhoneを使いつづけた。
電子書籍元年などといわれ、iPadなどの電子書籍端末がいろいろと出てきたが、ごきげんな音楽アプリのせいでそっちには見向きもしなかった。電子書籍も買っているが、もっぱらKindleなどのiPhoneアプリで読んでいる。日本語の書籍は雑誌とコミックが中心で、iPadで読んでいる人も多いようだが、私にはあまり切実な必要性がなかった。もっぱら英語の書籍をKindleで読むことが多い。
単独アプリとして出た日本語の本や、ほかにも数冊は読んでみた。iPhoneでも「まあ読める」ので、iPadには最後まで手が出なかった。

そこへ MacBook Air の登場である。
これにはハマった。
軽量、薄型、11インチの高精細ディスプレイ、高速処理、そしてなによりOS-Xが走る。
どこへでも持って歩いて使った。iPadからは完全に遠のいた。

で、2011年はどうなるだろうか、という話。あくまで個人的な希望。
MacはもうMacBookだけでいい。モバイルはAir、メインマシンは MacBook Pro。Proは今年の前半に、AirのようなSSD搭載モデルが出るという噂がある。魅力的だ。メモリ価格がどんどん安くなって、500GBくらい搭載したSSDモデルが現在のProと同等価格で出てくれば、大変魅力的だろう。
Airにはなにもいうことはない。あえていえば、ディスプレイがクルっとひっくり返って、iPadのように平たくして閲覧できるといいが、タッチディスプレイはいらない。

音楽と電子書籍のために、iPadの7インチくらいのが出れば、こっちは別の意味で魅力的だ。
iPadにしかリリースされていない魅力的な音楽アプリがいくつかあるのと、楽譜を表示させるにはiPadのほうが都合がいいということがある。
iPadの画面に楽譜を表示させて譜面立てに置けば、電子楽譜として演奏で使える。フリックでページめくりができるのもわかりやすい。
これも7インチでいいのだ。
電子書籍も7インチでいいと思う。紙の書籍のサイズに近い。このくらいのサイズだったら、電車のなかで読むのもいいかも。

音楽アプリでは、iPhoneにしてもiPadにしても、midi対応のものがたくさん出てくるだろう。すでに出ているものもmidi対応になっていくだろう。
iPhoneから音源だけでなく、映像や、その他さまざまな効果のタイミングを操作できるようになるとおもしろい。

ネットではUstreamのような映像配信サービスがますます充実してくるだろう。また、映像や音声の解像度はますますあがっていく。
多くの人がもっと気軽に映像を配信したり、ライブ中継をしたりするようになる。「コンテンツ」として作りこまれたものと「だだ漏れ」が混在していく。その結果、確かな技術力とライブ感覚の両方が、表現する側に求められていくことになる。

こういった環境の変化の流れのなか、私は確実にひとつ、自分のターゲットにねらいを定めた。
この歳でできること、この歳でしかできないこと、そして今年にしかできないこと。それを念頭から確実にステップインしていく。

ところで、あまり知る人はいないが(しかもどうでもいいことだが)、私のコンピューターとエレキ歴は20歳を少しすぎたころに出たばかりのPC-8801のフルセットを分割払いで買い、やはり同時期にローランドのシンセサイザーJupiter-8、続いてヤマハのDX-7を買ったときからつづいている。
つまり、30年越しなのだ。
今年もいろいろエレキネタを書いていくので、よろしく〜。

2011年1月1日土曜日

80歳ロリン・マゼールのベートーベン全交響曲連続指揮を聴いて

2010年大晦日(といっても昨日だけど)は、タイトルの演奏会をUstreamで聴きながら、一日すごした。
東京文化会館でおこなわれた演奏会は、午後1時から始まって、終わったのがNHKの紅白歌合戦の終了とほぼおなじの11時45分だった。

ベートーベンの交響曲はご存知のとおり、9番まである。それを全曲、一日で演奏しようという、壮大なイベントだ。
楽団は岩城宏之記念オーケストラ。やけに男が多い楽団だ。サイトウキネンは半分くらい女性なのに。
ま、そんなことはよろしい。

演奏は1番→2番、休憩、4番→3番、休憩、6番→5番、8番→7番、休憩、9番、という順番でおこなわれた。
なんとなく静と動が対になっているようだが、おおむね作られた順番といっていい。
こうやって順番に聴いていくというのは、そのまま、ベートーベンの作曲技法の変遷をたどるといっていい。
もちろんベートーベンは初期ロマン派の巨匠だ。最初の1番からすでに完成されている。練習も助走もない。いきなりトップスピードで走りだしている。
とはいえ、順番に聴いていくと、ひとりの人間がこつこつと創作に向かい合って積み上げていく過程と苦悩が見えて興味深い。9番では作曲技法などという言葉それ自体がどうでもいいような、神懸かり的な曲が完成した。長調とか短調とか、和声とかいった世界を超越し、ほとんどモードであり、同時にバロックであるような複雑な音楽が立ち現れた。
ひとりの作曲家の交響曲を通して聴くというのは、旅をする気分に近い。そんなものを居ながらにしてネットで聴けるなんて、おもしろい時代になったものだ。

ネット中継では高精細の動画と音声が配信された。たまに中断することがあったが、4000人を超える人間が同時に接続していた。
高精細のために、マゼールの表情から楽団員の動きまで、きれいに見ることができた。
80歳のマゼールは軽々と、しかし集中を切らすことなく、すばらしい指揮を完遂させた。全曲暗譜による、スコアを開かない指揮だ。9曲の交響曲をすべて、各パートにわたるまで暗譜するというのは、並大抵のことではない。
ここにもまた、ひとりの人間がこつこつと努力してきた結果、到達しうる頂点の情景を見ることができた。
いい年末となった。
いろいろな人に感謝したい。