2019年1月13日日曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(12)

時はちょうど80年代に差し掛かったころで、ブラックコンテンポラリーもロックもその他ポップスと、内外問わず爆発的に花を開かせていた。
音楽を楽しむための機器も安価なステレオコンポやラジカセ、ウォークマンが出てきて、レコードからCDへ、さらに購入からレンタルへと移行したため、個人が大量に音楽を楽しめる時代になっていた。

また音楽の作り手にとっても、シンセサイザーやコンピューター、音楽製作ソフトが個人でも購入できる価格まで降りてきているのがありがたかった。

20代のもっとも血気盛んで吸収意欲もマックスだった私も、たくさんの音楽を聴き、レコードやCDを買ったり借りたりし、また演奏機材も無理をしてでも購入した。

東京ほどではなかったが、関西でもたくさんのアーティストが来日公演した。
ジャズの大物もたくさん聴きにいった。
たとえばハービー・ハンコックがエレクトリックグループの〈ヘッドハンターズ〉ではなくてアコースティックのコンボで京都会館にやってきたりした。
そのときはスーツを着た、あるいはあまりカジュアルではない服装の男女がたくさん聴きに来ていて、どう見てもジャズファンの層とは違っていたのだが、あとでハンコックは創価学会員で、学会が動員をかけたのだろうということが判明した。
おそらくハンコックは創価学会というより、仏教にあこがれて仏教徒になるつもりで入会したのではないか、と私たちバンドマンは噂した。

私のアイドルといってもいいウェザーリポートは何度も聴きに行った。
またウェザーリポートのベーシストだったジャコ・パストリアスも、ビッグバンドを引きつれて来日したときに聴きにいった。

数えあげるときりがないのでいちいち書かないが、とにかくジャズ漬けの日々だった。
そんななかで、私もジャズについて学び、自分なりに理解し、自分の音を追求するようになっていった。
しかし、大きな壁が私の前に立ちはだかり、私はミュージシャンの道をいったん断たれることになるのだ。
しかもその壁は二重に立ちはだかっていた。