2019年1月18日金曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(16)

長編小説は2週間くらいで書きあがってしまった。
かなり中途半端な長さで、原稿用紙で200枚ちょっと。

当時はコクヨの原稿用紙に万年筆で書いていた。
200枚ちょっとを2週間で書きあげるというのは、かなりのスピードだといえるが、なにしろ一日中ほかにやることがないのと、話の筋を決まっていたので、あとはただ小説として展開して書きつけていくだけだった。
問題は、書きあがったらどこかの新人賞かなにかに応募しようと思っていたのに、長さが中途半端で、どこにも応募できないということだった。

SF小説の新人賞は早川や徳間、光文社など、いろいろあった。
当時はSF文芸誌がけっこうあったのだ。
しかし、どの新人賞も短編が対象で、50枚とか、多くても100枚以内だった。
長編を対象にした賞もあったかもしれないが、そちらは300枚とか400枚、ようするに単行本一冊の分量が要求される。

私が書きあげたのは、そのどれにも当てはまらない、中途半端な長さだった。
かといって、書き直すほどの執着はなかった。
執着はなかったが、捨ててしまうほどなかったわけでもない。

そこで適当な出版社を選んで、郵送することにした。
選んだのは『SFアドベンチャー』という月刊誌を発行していた徳間書店で、雑誌の編集長宛に送ったのだと記憶している。

それっきり、自分が書いた小説のことは忘れてしまった。
経緯をはしょるが、そのすぐあとに私は京都を引きはらうことになり、ドタバタと引っ越しが決まった。
私は福井の田舎の実家に帰った。

実家にはまだアップライトのピアノがあり、それを使ってピアノの先生をやることになった。
最初は近所の子ども数人しか生徒がいなかったのだが、おなじ町でピアノレッスンをしている教師のグループの仲間にいれてもらって、生徒を回してもらったり、遠隔地の生徒グループをまとめて紹介してもらったりして、そこそこ収入があるようになった。
また、頼まれて近所の小さな本屋で子ども相手の学習塾の先生をしたりもした。

そんななか、福井の〈Space B'〉という現代美術作家ばかり扱っているギャラリーに遊びに行ったことがきっかけで、音楽活動を再開することになり、また私の音楽の方向性が思わぬ方向に進んでいくことになった。