それはひたひたと潮が満ちるように水商売の世界に侵食してきて、気がついたらどの店にも置かれるようになっていた。
私がバンドマンをやっていた1980年前後は、カラオケという名称ではなく、たとえば機械の名称を取って8トラとかいっていたと思う。
特殊な規格の8トラックカセットテープを機械にガシャンと挿入して、曲を選ぶ。
ひとつのカセットには8曲のオケ演奏がはいっている。
客はメニューを見て歌いたい曲を選ぶと、店のママとかホステスとかボーイが該当するカセットを選んで挿入し、頭出しをする。
マイクを使って歌うと、オケと自分の歌声がミックスされて、まるで本物のバンドといっしょに歌っているように聞こえる。
生バンドはもういらない、と思ったのは客だけではないだろう。
機械は買ったりレンタルしなければならないが、バンドマンのギャラよりはるかに安価だし、客からもカラオケ代として1曲ごとに回収できる。
ほんの一年とか二年とかいったスパンで、バンドマンの仕事は激減していった。
私のようなペーペーのバンドマンから仕事がなくなるのは当然のことで、店の不払いや機材購入の借金なども重なって、とたんに私は困窮してしまった。
私にとって選択肢はいくつかあったが、バンドで生活をつづけていくことができないことは確かだった。
バーテンダーにもどるか、あるいはまったく別の仕事をするか。
そしてもうひとつ、私にとって京都という街に住みつづけることがまったく魅力的ではなくなってきた、それは突然のように、京都に嫌気がさす、という形でやってきた。
仕事がなくなった私は、家賃が滞納しはじめたアパートの部屋で机に向かって座り、原稿用紙を広げて、ひたすら小説を書きはじめたのだ。
どこかの新人賞に応募して、あわよくば小説家になってやろうという野心があったかもしれないが、自分でもそんなことは信じておらず、逃避行動にちがいなかった。