子どもから大人まで、青少年からお年寄りまで、サラリーマンから主婦まで、
「さぁ、たったいまから表現者になろう!」
ということができるのが「朗読」という表現手段の大きな特徴です。
人は多かれ少なかれ、自分を表現したい、人に自分を伝えたい、という気持ちを持っています。おしゃべりすることも、仕事することも、だれかのために料理することも、表現といえば表現です。いずれもなんらかの形で自分のことが人に伝わります。
それらを自覚的に、特定の表現手段を用いることでおこなおうとするのが、「表現者」といわれる人々です。
表現者というと、音楽家、絵描きや彫刻家、小説家、ダンサー、役者といった人たちをすぐに思い浮かべることができます。大道芸人や伝統芸能家、スポーツ選手なども表現者だろう、という人もいるでしょう。
いずれにしても、それら「特定の表現手段」は、それを用いるためにかなりの技能習熟が必要であり、だれでも表現者になれるわけではない、と思っている人が多いのではないでしょうか。
たとえば、音楽家。
ピアニストを例にとってみましょう。
どのピアニストも三、四歳のころからレッスンをスタートし、大変な時間と労力をピアノの練習のために使います。多くの人がその過程で挫折し、脱落していきます。私も小学校のころからピアノを習っていましたが、おなじピアノ教室に通っていた同級生の女の子たちも、高校生になるころにはほとんどがやめてしまっていました。子どものころにピアノを習いはじめた百人がいるとすれば、そのうち九十九人は高校までにやめてしまうのではないでしょうか。
それほどピアノを習熟するというのは、時間と努力が必要なのです。
さらに残ったなかから、ごくひと握りの者だけが音楽大学へ進み、さらにごくひと握りの者だけがピアノを弾くことを生業にすることができます。
ピアニストだけ見てみても、ほんのひと握りのエリートだけが「表現者」として生きていくことができるという、とても厳しい状況であることはおわかりいただけるかと思います。ましてや、充分に大人になってしまってからあらためてピアノなどの楽器を習熟しようというのは、大変なことです。よほどの時間的、経済的、精神的余裕がなければできることではありません。
そのような状況はピアノだけでなく、バイオリンやトランペットなどの楽器はもちろん、歌もそうですし、絵画やバレエやスポーツなどでもいえることです。
ところが、朗読という表現手段は、だれもがいつでも取り組める、とてもすぐれた方法なのです。老若男女、あるいは身体的特徴や障碍の有無を問わず、すぐにでもはじめることができます。これまでこのことに着目する人はあまりいませんでした。
正直いって、私自身もこのことに長いあいだ気づかずにいました。しかし、いったん気づいてみると、とても明るくて広々とした世界が目の前に広がっていました。
「朗読は表現である」
そんなことあたりまえだろう、とおっしゃる方もいるかもしれませんが、しかしよく考えてみてください。朗読において「表現」しようとしているものとは、いったいなんでしょうか。
音楽においてピアニストが表現しようとしているのはなんでしょうか。曲の味わいでしょうか。作曲家の意図でしょうか。それとも……
たとえばベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾こうとするピアニストがいるとします。彼はそれを弾くことで私たちになにを表現しようとしているのでしょうか。「エリーゼのために」はこんな曲ですよ、ということを伝えようとしているのでしょうか。
もちろんそんなはずはありません。その曲のことなら私たちは何度も聴いたことがあるし、よく知っています。いろいろなピアニストによる「エリーゼのために」を聴いたこともあります。そもそも私たちの興味は「エリーゼのために」が「どんな曲なのか」というところにはありません。私たちは、彼がどのように「エリーゼのために」を弾くのか、ということに興味があるのです。
ピアニストの側もそのことをかんがえています。あまたいるピアニストと比して、自分はどんなふうにこの曲を弾くのか。この曲を弾くことによって自分のなにを伝えようとしているのか。
「表現」とは、自分自身を人に伝えることです。その手段はさまざまであって、音楽を奏でることであったり、小説や絵を書くことであったり、踊ることであったり、野球やスケートをプレイすることであったりします。朗読もそんな表現手段のひとつなのです。
その定義にあてはめていえば、朗読とは「本を読むことによって自分自身を伝える」表現手段のひとつです。
ここで確認しておきたいことがひとつあります。それは私が提唱している「現代朗読」(あとでくわしく書きますが)のもっとも大事な部分なんですが、
「朗読は本の内容を相手に伝えることが主目的ではない」
ということです。
こう書くと、多くの方が「えっ?」という顔になります。たぶん、多くの方が「朗読とは本の内容を相手に伝えること」が主目的だとかんがえているからでしょう。でもここで、いま直前に述べたピアニストのことを思いだしてみてください。彼は「曲の内容を相手に伝えること」を目的にピアノを弾くのでしょうか?
そうなのです。朗読表現は本の内容を伝えることではなく、「本を読むことによって自分自身を相手に伝える」行為なのです。
本にはいろいろあります。便宜上「本」と書きましたが、書かれたもの=テキストだったらなんだっていいのです。詩でもいいし、新聞の切り抜きでもいい。料理のレシピやお菓子の説明書きでもいいでしょう。お店のメニューだってテキストです。実際、ライブでお店のメニューを朗読し、大喝采をもらったこともあります。
この「テキスト」は音楽家にとっての「楽譜」に相当します。この「テキスト」を使って、あるいはこの「テキストを読む」ことを利用して、自分自身を相手に伝えるのが朗読という表現行為なのです。
たとえば「蜘蛛の糸」というテキストがあります。芥川龍之介が書いた短い小説です。国語の教科書にも載っています。だれもが一度は読んだことがあるでしょう。つまり、聞き手は最初からそのテキストの内容を知っているわけです。だから、朗読者はこの「蜘蛛の糸」が「どんなお話なのか」を相手に教えるために読むわけではありません。
もちろん、声に出して読めば、お話の内容は相手に伝わります。相手もお話の内容を聞き取ります。しかし、そこでおこなわれているのはそれ以上のことです。
聞き手にはいったいなにが伝わっていると思いますか?
お話の内容が伝わる以上のことが、実はここでおこなわれています。現代朗読はそこの部分に着目します。
テキストを読むことで伝わるテキストの内容以外のこと。この部分に、自分を表現し、また相手と共感するための大切なことがらが含まれています。そしてまた、現代社会におけるコミュニケーションをかんがえるための大きなヒントがあるのです。