レポートを書くのが遅れたけれど、今週始めに当タイトルの公演を見てきた。場所は高田馬場・プロトシアター。
会場に入ると、コンクリートむき出しのそっけないがらんとした空間に服やら灰皿やらラジオやら雑誌やら洗面器やら、日常的な物体がそっけなく置かれているだけの舞台。それを観客は部屋の隅っこにかためられた椅子に座ってながめる、というスタイル。あとでわかるのだが、観客のなかには出演者も混じって座っている。
始まるとふたりの役者とダンサーが、即興のように見えるほとんど台詞のない動きを、互いにまったく無関係に提示していく。その動きひとつひとつに意味があるような、しかし意味はないような、弛緩した中毒者だったり、自己顕示欲の強い女だったり、不安におびえる表情だったり、さまざまだが、そこに関係性は意図的に排除してあるようで、観客はすがるべき視点や物語をまったく持つことができない。ストレートプレイとはまったく異なる手法で、そもそもこれは演劇と呼べるのかという印象すら持つ。しかし、その放り出された感覚が新鮮で刺激的なのだ。
後半になると役者が増え、台詞らしきものが現れる。が、その台詞もあきらかに個人的なもので、台本で用意されたものではないように聞こえる。
そして、たくさんの椅子がならべられたり、倒されたりする。これはピナ・バウシュの「カフェ・ミューラー」を連想させるが、彼女の舞台のような救いはまったくない。ただ行為が提示されているだけで、観客はすべての「判断」から拒絶されている。
東南アジアの夜の映像をコラージュした作品が壁面に投影され、役者たちはそのなかで動く。わずかな関係性があるように見えはじめる。しかし、それがなにかを意味するものでもない。
演出の大橋さんとは20年くらいまえに、一度だけ、名古屋でいっしょにワークショップを行なったことがある。声をかけると覚えていてくれた。
終わってから話をするチャンスがあった。聞けば、実はかなり作りこんだものであるという。即興だが、かなり細かくきっかけがあって、稽古はたくさんしたらしい。あるコンセプトに従って役者たちの動きはかなり限定されているような話しぶりだった。私が知らない、まだ理解していない手法がそこにあるらしいことを知るのは、私にとっては快感だった。
演劇というのは、作られたストーリー、作られた偽のセット、準備された録音音楽、そして何者かになりきり役者という、その手法そのものが古くさく、私自身あまり興味を覚えられなくなってきたところだったので、このようなアプローチでその先を見ながらがんばっている人がいるのはうれしいことだった。
たくさんの刺激をもらって幸せな気分で劇場をあとにした。