2018年2月23日金曜日

上手・下手ではない表現の世界

先日、歌のレッスンをしていて、ふと思った。
どんな人でも歌のレッスンを受けるとき、そこにはどんな目的があるのだろうか、と。

私は歌はうたわないが(もっぱらピアノ伴奏)、ボーカルの指導をすることがある。
指導というよりコーチングで、本人も気づいていない歌い手の本来的な能力を引きだしたり、無意識にやってしまっている癖に気づいてもらったりする。
そんなとき、歌い手はたいてい、「よりよい歌い手になりたい」と思っている。

このよりよい歌い手の「内容」が問題なのだ。

ほとんどの場合、「よりよい」は「上手な」とか「瑕疵《かし》のない」を意味する。
たとえば、
「音程をはずさないようにうたいたい」
「もっと響きのある発声をしたい」
「いろんなジャンルの歌を自在にうたいたい」
といったことだ。
いずれもそこには「テクニック」が存在し、それを身につけたいと思っている。
自分が不足しているある種のテクニックを身につけることで、歌をより上手にうたえるようになりたい、と思っている。

そっちではない方向性や目的があってもいいのではないか。
そっちではない、というのはどっちなのか。

私は多くの歌い手が、
「人を楽しませたい」
「喝采されたい」
「ほめられたい」
あるいは、
「けなされたくない」
「批判されたくない」
というマインドを手放せていないと感じている。
それゆえに、うまくなりたい、テクニックを身につけたい、という、なにか自分に「付け加える」ことばかりに執着してしまうのだ。

これは歌い手だけでなく、あらゆる表現をする多くの者にもあてはまることだ。

多くの表現において、もう私たちはなにかを「付け加える」必要はない、と私は感じている。
なにかを付け加えるのではなく、逆になにかをやめたり削ぎ落とすことによって、よりシンプルで力強いオリジナリティのある自分の表現世界があらわれてくるのではないか。

これについて私には実績がある。
現代朗読だ。

野々宮卯妙という朗読者がいて、好みはあるにせよ、その表現力にはだれもが納得するだろう(第一回ポエトリースラム・ジャパンでだれも彼女を知らないアウェイのなか、ファイナリストになったことを見てもわかる)。
まったくのど素人だった彼女をコーチするにあたって、私がおこなったのはなにかを付け加えることではなく、本来の彼女が持っている力を邪魔している余分なものを削ぎ落とし、オリジナリティを研磨することだった。
おなじことが、音楽のボーカルにも適用できる。

うまい歌い手をめざすのではなく、オリジナルな歌い手をめざす。
そのためにはなんとしても、さまざまな怖れを手放し、無防備にのびのびと自分を表現できる無邪気な世界に自分を置いておける、一種の強さが必要だ。
むずかしいことかもしれないが、そのためのツールとして共感的コミュニケーションがある。

上手い・下手という基準ではなく、どれだけのびやかさがあるかという基準で稽古を積んでいったとき、そこにはどんな表現があらわれるだろう。
それを想像するとき、私はわくわくする。
もちろんそれを聴く人々のなかには、上手い・下手という基準があってそれを適用されてしまうかもしれないが、彼らには共感すればいいし、そうではないものも必ず伝わるだろう。


3月9日:沈黙[朗読×音楽]瞑想コンサート@渋谷
東京ではひさしぶりとなる水城ゆう&野々宮卯妙の沈黙[朗読×音楽]瞑想コンサートが、いよいよ2018年3月、渋谷区総合文化センター大和田の大スタジオでおこなわれます。3月9日(金)19時開演。要予約。