2010年2月26日金曜日

声優/ナレーター/朗読者をより優れたオーディオブック・リーダーに育てるために

 これまで何度か、オーディオブックという商品(コンテンツ)を取り巻くマーケット事情について書いたが、最近またなんとなく動きが変わってきた。

 私が制作に関わっている「アイ文庫オーディオブック」ではおもに、著作権が切れたパブリックドメインものを含めた文芸作品の朗読がラインナップとなっている。オリジナル音楽と合わせた詩曲集などもある。また、他社から依頼されるものでは、教科書、英文など、通常のナレーターの手に負えないようなものも多い。
 現在、マーケットに流れているオーディオブックは、何度か書いたように、オーディオブックを専門に製作する会社が、ナレーターや声優を効率的に使って最小限の過程で非常に安価に作りあげたものが多い。スピードや経済効率が優先されるビジネス書や自己啓発本、講演録といったものは、そういう作り方がいいだろうとは思う。
 と、同時に、活字出版社も自社でオーディオブックを作りたいというニーズが高まってきている。
 ところが、出版社が製作会社に発注してできあがってきたオーディオブックは、出版社や著者が望んでいたほどのクオリティが確保できないことがあるらしい。それはそうだろう、上記のような効率重視の作り方をするラインでは、著者が満足できるほどのハイクオリティな朗読本を作るのはなかなか難しいと想像できる。

 今後、この動きは増えてくると思われる。出版社側は、多少予算がかかってもかまわないから、長いあいだ売りつづけられ、著者も満足できるクオリティのオーディオブックコンテンツを、自社権利で持っておきたいのだ。今後、電子書籍がさらに普及していくだろうから、デジタルコンテンツに対する関心は出版社側にも高まってきているし、また電子書籍リーダーはたいていオーディオブックも再生できるということもあるだろう。
 問題は、こういったクオリティに対する要求に対して、すぐれたオーディオブック・リーダー(朗読者)があまりに少ない、ということである。
 有名な俳優や声優を使う、という手はある。が、オーディオブックの収録には非常に時間がかかるのでスケジュールを押さえるのが大変だろうし、ギャランティーも高額だろう。一番手っ取り早いのは、世の中にたくさんいらっしゃるナレーターや声優の若手を、ハイクオリティな朗読者にスピーディーに育てあげることだ。
 アイ文庫ではかつて、現代朗読協会と協力して、このような朗読者育成の場を持っていたが、せっかく育成した朗読者がいても、出版社側の受け皿がなく、つまり仕事が十分になかった。いまでも十分にあるとはいえないし、また予算も厳しいことは事実だが、いまから優秀なオーディオブック・リーダーをめざす人を多く育て、今後に備えるのは有効なことではないか。そろそろそういった環境が整ってきたのではないか。

 そういう話を、昨日、ことのは出版の野村社長としていた。
 幸い、私たちには、ハイクオリティなオーディオブック制作と朗読者育成のノウハウがある。ふたたびオーディオブック・リーダーの育成に乗りだそうではないか。そういう合意が、とりあえず暫定的にできた。
 具体的な内容と詳細については、近日中にことのは出版のウェブサイトに発表されることだろう。
 我こそは、と思う方は、今後の情報に注目されたし。

いま読んでいる本:現代哲学の名著

 フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、オースティン、大森荘蔵、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、西田幾多郎、ベルクソン、ドィルーズ、ルーマン、坂部恵、レーヴィット、バタイユ、レヴィナス、和辻哲郎、ベンヤミン、アドルノ、デリダ、廣松渉。
 20世紀の思想家の20冊を、それぞれの専門研究者がコンパクトに解説している。
 わかりやすいものもあれば、わかりにくいものもあるのは、元ネタがそうである場合と、解説者がそうである場合の両方があって、まあ、読みにくさもおもしろかったりする。
 教科書としては不向きだが、現代思想がざっと総覧できて、いろいろ確認になる。

『現代哲学の名著』熊野純彦編/中公新書

「沈黙の朗読」来場者特典(おまけ付きだって!)

「ゆる〜みんぐ講座」をやってくれているせ〜じさんから、うれしい申し出がありました。
 たまたま「沈黙の朗読」の翌日の夜に「ゆる〜みんぐ講座」が現代朗読協会・羽根木の家で開催される予定なんですが、「沈黙の朗読」においでいただいた方には格安割引(あるいは大胆にも無料?)でゆる〜みんぐも受けていただけるようにしよう、という申し出です。
 この機会に、「沈黙」と「ゆる〜みんぐ」というセットでの体験をおすすめします。めったにできるものではございませんよ。

「沈黙の朗読」の予約ページから、「ゆる〜みんぐも希望」と書きそえてお申し込みください。
 私に直接お知らせいただいてもかまいません。

捨てる

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2010年2月25日木曜日

Ustream でのストリーミング放送の実験

 現在、実験中。
 羽根木の家から現代朗読協会のゼミやワークショップの生放送ができるようにしてみました。
 いまから実験的に昼ゼミの様子をストリーミングで放送してみます。参加者は2名だけだけど。
 コンピューターをお持ちの方は、このURLからこちらの様子が見れます。

食糧、飼料、バイオ燃料

 バイオ燃料の販売がいよいよスタートするというニュースがあった。バイオエタノールをガソリンに数パーセント混入して販売するのだ。
 バイオ燃料というのは、要するに食糧から作った燃料のこと。おもな原料はトウモロコシなどの穀物。

 ここでは数字は書かないが、2000年以降、世界の穀物消費量は増えつづけている。生産量も増えているのだが、消費量の増加に追いついていない。
 これはなにを意味するのか。
 世界の飢餓人口は10億人といわれているが、これがさらに増えつづけているということだ。毎日、飢えによって25,000人もが命を落としている。その大部分が子どもだ。21世紀のいま、人間の死亡原因のトップは飢餓である。
 世界で生産されている穀物のうち、消費の第一は「食糧」としてである。人間が食べる。
 第二位は? 家畜の飼料である。人間が食べるための家畜が食べる。
 第三位は? バイオ燃料である。車が食べる。この部分が飛躍的に増加しつづけている。
 人類はこれまで一度も、食べ物を燃やしてエネルギーに使ったことはない。それが21世紀になって始まった。これを歴史的悲劇といわずしてなんという?

 世界の飢餓人口10億人に、毎日飢えないだけの穀物を供給するためには、年間3兆円かかるといわれている。
 え、3兆円? たったそれだけで世界を飢餓から救うことができるの?
 もっとも低価格の穀物原料の食物は、一食3円しかかからない。つまり、一日10円もかからない。嘘だと思うなら、日本でもたくさん商品として出回っているカロリー栄養補助食品を見てみればいい。価格は数十円かもしれないが、流通経費や営業利益を引いたら?
 穀物食料はとても安いのである。
 国家予算における自衛隊の予算は5兆円である。その予算から3兆円を捻出して世界の飢餓を救うために回したら、だれが日本を軍事攻撃するだろうか。それこそ自衛隊そのものが不要になるのではないか。

 バイオ燃料を増やすことでもっとももうかっているのはだれなのか。
 国や自治体がバイオ燃料の導入をこれほど推進しているのはなぜか。
 自動車メーカーがバイオ燃料の導入に積極的なのはなぜか。
 アメリカを中心に欧米各国にものすごい勢いで作られているバイオ燃料プラントは、だれが作っているのか。
 私たちにできることはなにかあるのか。

アラスカの先住民、「環境難民」として新しい村を建設

 米アラスカ州にある小さなユピク・エスキモーの村の先住民たちが、米国で最初の「環境難民」となろうとしている、というニュースが流れた。
 詳しくはこちら
 私がサウンドスケッチシリーズで書いた「Swallowed in the Sea」という話そのまんまだ。
 この話は「水色文庫」に掲載してあります。こちらからどうぞ。

単独行

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2010年2月24日水曜日

ゴースト・ライト

 原題は「Half Light(薄明)」という映画。「ゴースト/ニューヨークの幻」で売れたデミ・ムーア主演なので、あやかろうとこんな邦題にしたのでしょうな。
 それにしても、冒頭から音楽がすばらしい。音楽はブレット・ローゼンバーグ。監督はクレイグ・ローゼンバーグ。どういう関係なんでしょ。もし知っている方がいたら、一報を。
 そして、映像も美しい。
 幼い息子を過失から失ってしまった女性作家が、野望のある夫とも別れを決意し、ひとりやってきたスコットランドの静かな海岸の家。ところが、そこでさまざまな心霊現象とも思えることが起きるのは、彼女の心の病からなのか、あるいは本当に心霊現象なのか、それともなにかの陰謀なのか。
 錯綜したストーリーや、意味ありげな伏線は、見ているものをドキドキさせるが、それがかえって邪魔に感じたのは私だけだろうか。風景、自然の音、音楽、それらだけでも、味わうに心地いい感触に満ちているのに、濡れ場とかいらないっしょ?

 音の感触、風景の手触り、人の静かなたたずまい、静謐な祈り。そういうものだけで作られた音楽とか映画とか舞台とか、見てみたい(作ってみたい)と思う。

朗読の聴き方

 音楽にせよ、舞踊にせよ、あるいは美術にせよ文学にせよ、私たちはその見方、聴き方、読み方を深く学んでいくことによって、より深い理解と楽しみを得られるようになる。
 私は子どものころから音楽をたくさん聴いてきたが、最初はクラシック音楽を、やがてはジャズを、それからポピュラー音楽を、そして現代音楽を、それぞれの過程で学んできた。その経験を通して、学びを深めることによってしか聴こえてこない音があるのは確かなことだとわかっている。
 あまり音楽の素養がない人がいきなり現代音楽を聴いても、ときには騒音のようにしか聴こえないこともあるだろう。が、その人が現代音楽について学び、その音楽がどのような構造を持ち、どのような狙いで作られているのか知れば、聴こえなかったものが聴こえてくることもあるだろうし、また楽しみ方もわかるかもしれない。
 私がジャズという音楽を聴きはじめたのは中学の終わり頃だったと記憶しているが、最初はどの曲を聴いても、だれの演奏を聴いても、すべておなじように聴こえ、区別することができなかった。それが聴きこんでいくうちに、それがだれの演奏なのかすぐにわかるようになったし、ジャズという音楽の特性や構造も知るようになった。するとさらに興味が深まり、どの演奏を聴いてもその魅力が際立って受け取れるようになっていった。
 ジャズという音楽に興味のない人は、たとえそれを日常的に耳にしていたとしても、中学生のときの私のようにしか聴こえていないだろう。
 クラシック音楽ファンは、たとえば、同じ曲を同じオーケストラが演奏して、しかし、指揮者が変わることによって変化するその微妙な(彼らにとっては劇的な)変化を聴き分け、楽しんでいる。
 小説を読む、文学作品を味わう、という行為にしてもおなじことだ。
 芸術を楽しむ耳にしても目にしても、あるいは身体そのものにしても、それは始めからそこにあるわけではなく、学習によって作られていくのだ。おいしいものをおいしいと感じるようになるためには、「これがおいしいものなのだ」という後付けの情報がインプットされてはじめて舌が肥えていくことに似ている。

 朗読という音声/身体表現にしても、おなじ事情であることは想像できる。
 朗読は、だれもが日常的に用いている声と言葉と身体を使う表現なので、聴き方も特別な学習は必要ないように思われているかもしれない。しかし、私はこれまで何百回となくライブや公演をおこなってきたが、やればやるほど聴き手にもレベルアップしていただきたいという思いを強く感じるようになってきた。
 朗読を聴きに来る人は「なにを」聴きに来るのだろうか。
 多くの人が、朗読者が読む本の「ストーリー」を聴きに来る。
 ここではっきり宣言しておくが、現代朗読においてはその聴き方はかなり「もったいない」ものであり、朗読表現が本来持っている豊かな可能性を悲しいくらいに受け取りそこなってしまう。
 ストーリーはもちろん朗読者から聴衆に伝わる。が、それは、表現されている情報のごく一部にすぎない。ストーリー情報、すなわちテキスト情報は、コンピューターのデータファイルを扱ったことのある人ならよくわかると思うが、きわめてコンパクトなものである。朗読者はただそれを聴衆に伝えるために朗読をしているのではない。
 朗読という表現行為では、テキスト情報をはるかに凌駕する膨大な音声情報、視覚情報、身体的信号、それらを含んだイメージ情報などが発信されている。聴衆はテキスト情報を大脳皮質で処理しながらストーリーを追いながらも、同時にほとんど無意識に朗読者が発信している膨大な表現情報を受け取ってもいる。
 同時に、朗読者もまた、聴衆から豊かな情報を受け取っているのである。それらを交換し、共有し、反応しあう。ここでおこなわれているのは、音楽ライブの場でおこなわれていることと同様、まさにコミュニケーション以外のなにものでもない。
 これが「現代朗読」という表現方法をもちいる場合の態度である。
 このとき、表現者側に豊かな感受性が必要なことはいうまでもないが、できれば聴衆側にもそれを受け取り、また返答していくだけの感受性と身体感覚についての「学び」があればうれしい。
 先入観を捨てること。感受性を開くこと。豊かな言語と非言語情報を交換しあうこと。聴き手の側にもそのような学びの態度があれば、朗読の世界はさらに豊かな可能性を広げていくのではないか、と考えている。

いま読んでいる本:永遠の故郷——夜

 著者は1913年生まれというから、いま何歳だ?
『すばる』に連載していたものをまとめたもののようだ。
 引用。
「もともと、この連載は肩に力を入れないでぶらぶら歩きをしているうちに、目に映り、記憶の底から浮び上がってきた歌があったら、それを拾い上げてもう一度噛みしめ、味わってみたいと考えてやり出したのだった」
 音楽と詩情に満ちたエッセイ。いい人生を送っているなあ。

『永遠の故郷——夜』吉田秀和/集英社

A Flying Bird in the Dark

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2010年2月23日火曜日

ウェルバ・アクトゥス・ワークショップが始まります

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インプロワンコインショーのお知らせ

 現代朗読協会の「朗読はライブだ!」ワークショップの参加者の環さん(YouTubeにもライブ映像「猩々」が出てます)から、ご自身が所属するインプロジャパンのライブのお知らせが届いたので、紹介します。
 予約されたい方は私に直接いってもらえれば取り次ぎます。

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日時:2月28日(日) 19時開演(18時45分開場)
料金:500円
会場:インプロジャパン スタジオ
             http://www.improjapan.co.jp/company/map_ij.html
東京都千代田区岩本町3-9-1 花岡ビルB1F Tel 03-3865-0481
都営新宿線 岩本町駅 A4出口より徒歩1分/JR秋葉原駅 昭和通り口より徒歩3分/JR神田駅より 徒歩8分

http://www.improjapan.co.jp/company/t_produce.html#1coin
ワンコインショーなので、チケット代は500円なのです!お得です!
ワンコインショーには「なお」名義で出演しております。ご興味のある方はぜひお越しください。

Airplane

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2010年2月22日月曜日

現代音楽、現代文学、現代アート、現代思想、現代舞踊、現代演劇、現代朗読

「現代朗読ってなんですか? 普通の朗読とどう違うんですか?」
 という質問をしばしば受ける。そのたびに、そのときの気分でいろいろなふうに答えているのだが、いちおう、こういうことが「現代朗読」であるという核になる考え方はある。なので書いておく。

 タイトルに書いたように、さまざまな表現分野においても「現代」という言葉がつく場合がある。これは英語でいえば「contemporary」を日本語に置きかえたわけで、英語圏だけでなく他の外国語圏でも、ある表現方法について「contemporary」に相当する言葉を冠する場合がある。世界同時進行的に「contemporary」という表現方法が認知されているといっていい。
 もっとも、芸術表現に縁の薄い人には、この言葉はほとんど知られていないといっていいだろう。
「contemporary」という言葉はただ「現代の」とか「同時代の」という意味にすぎないが、表現分野においてはもう少し特別な意味を持つ。「伝統的なものや体系的なものに立脚しない」「いまあるこの自分の」「いまあるこの時代の人たちに向けて」の表現である、ということだ。

「伝統的/体系的」なものに立脚しないために、現代芸術とそれ以前の芸術とを決定的に分けているものがある。
 現代芸術以前の芸術表現の場においては、それが美術であれ音楽であれ文学であれ、芸術家と鑑賞者の位置関係がとてもはっきりしていた。常に芸術家が鑑賞者より上の立場にいて、鑑賞者を睥睨していた。芸術家はみずからの優位性を示すために技術=アートを磨き、鑑賞者の上に立つ。鑑賞者もそれを認め、その優位性をたたえ、ときにはそれへの対価を支払う。
「人間ってすばらしい! こんなことができるんだ。私にはできないけれど……」
 対価を支払うことでようやく、鑑賞者も芸術家とおなじ立場に立てるわけだ。それは、コンサートホールにおけるステージと客席という位置関係に象徴されている。優位性をより先鋭化させるために、先人によって積み上げられてきた表現技術をさらに積み上げ、一般の鑑賞者のとうてい手の届かない位置まで自分を高める。
 現代芸術ではそういうことはおこなわない。
 そもそも、便器を壁に取りつけただけとか、毛沢東の拡大複製写真をリトグラフに置きかえただけとか、街の音をつないだものを音楽だといって提示するとか、そういう作品で表現者の優位性を誇示することはできない。なぜなら、そんなことはだれにでもできることだから。現代芸術では、表現者も鑑賞者とおなじ人間であり、上位に立っているわけではない、おなじ土俵でただ作品を提示する者である、という立場を確認する。
 表現者は作品もしくは自分自身をある方法で鑑賞者に提示する。それは自分の優位性を誇示するためではない。作品と鑑賞者、もしくは、自分自身のパフォーマンスと鑑賞者との間にある関係性を作るためであり、共感関係を作るためである。表現者は鑑賞者と提示した作品を通じて、あるいは行なわれるパフォーマンスを通して、ともに感じ、考え、おなじ時間と空間を共有し、共感する。表現者と鑑賞者はひとつの経験を共有し、その経験の前と後とでは、たとえば「世界の見え方、捉え方が変わる」というようなことが起こる。それが現代芸術がめざす「芸術体験」のありかたである。

 朗読表現においてもおなじような考え方を導入することができる。
 伝統的/体系的なものに立脚することなく、いまここにある自分の身体と精神を開き、いまここにある人にただストレートに提示する。なにもたくらまれたものはなく、あらかじめ仕組まれたものもなく、すべてはいまある時間と空間のなかで起こっていく。予測不能の事件が起こり、体験を共有したとき、ともにあたらしいステージが開かれるのを目撃する。
 現代朗読ではそのライブや公演において、なにが起こるか予想できない。なにしろ、表現者自身が予想できないのだから。現代朗読の表現者は、自分自身ですら予測できない表現が自分と鑑賞者との間に生まれてくるのを、いつもわくわくして臨んでいる。
 以上が「現代朗読」と私が呼んでいるもののごく簡単な説明である。

「現時点では」現代朗読表現のひとつの到達点をめざすことになる「沈黙の朗読」が、3月6日に開催される。

左義長

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2010年2月21日日曜日

電子書籍のこれからのありよう

 書き手の立場から、電子書籍のこれからのありようを考えてみた。
 これまでの書籍の「ありよう」は、書き手ではなく、出版社や読み手のニーズが作ってきた。しかし、これからは、書き手が自分の望む形の電子書籍のありようを決められるのではないかと思っている。ある程度のマーケットニーズの影響はあるにしても。

 完全に自分ひとりでハンドリングできるとしたら、どんな電子書籍を作りたいか。
 いろいろな形態があると思うけれど、私の場合、まず、「いつでも書きかえられる」あるいは「進化できる」本を作りたい。
 これは切実な望みだ。
 過去に何冊も本を書いて、出してきたが、原稿が自分の手を離れ(つまり最終ゲラ校正が終わり印刷所にまわされ)たまさにその瞬間から、後悔が始まる。あそこはこう書けばよかったとか、いまだったらこういうふうに書くのに、といった後悔である。
 当然だろう。原稿を書いているときの自分と、その原稿が活字になったときの自分では、大きなタイムラグがあり、もはやおなじ人間とはいえないほどの時間旅行を経験しているからだ。少なくとも、私はそうだ。
 いつでも好きなように書きかえられる本。それが私の理想だ。
 ソフトウェアがそうであるようにも、本もバージョンアップしていければいいと思うのだ。バージョンナンバーをつければいい。

 いま私は、現代朗読についての本をまとめている最中だが、いくら書いても次々と訂正が入る。去年書いた部分が、今年はもう使えなかったり、大幅に修正しなければならなかったりする。現代朗読そのものが猛烈な勢いで進化しているためだ。
 変化している最中の方法論や、そのことを書いている人間そのもの(私のことだが)も変化している場合、文字列として最終的に固定できるものはなにもない。テキストそのものも変化していければいい。
 電子書籍はそれを可能にするのではないか。
『現代朗読論 Ver.1.0』として出たものが、「Ver.1.02」だの「Ver.1.13」だのと変化していく。読者も最新のバージョンを常にダウンロードする権利がある。
 こういう考えは、書き手の夢想にすぎないのだろうか。あるいは実現可能な未来予測だろうか。

オーディオブックで自分を表現したい人のサポート

 あらためていうまでもないけれど、テクノロジーの進展が一個人の表現活動を後押ししてくれる場面が多くなっている。
 かつては設備の整った音楽スタジオとプロ用機材、プロフェッショナルな技術者と巨大な流通ルートがなければ届けることができなかった音楽も、いまでは簡単に一個人の力でやれるようになってきている。
 設備と技術と人材、そして流通という理由のために、音楽はメジャーなレコード会社やマスメディア、著作権管理団体などに占有されつづけていた。自分の音楽を人に届けるというのは、自分がメジャーになり、商業システムに組みこまれていくことを意味していた。
 いまでは違う。プロ用音楽スタジオも機材も、ラップトップのなかに全部収まっていて、ひとりでどこへでも持っていくことができるし、どこでも作業ができる。流通ルートなんて、インターネットがあれば事足りる。
 あとは、
「個人のスキルを磨き、アイディアを形にするだけ」
 だ。

 私は小説を書いて生計を立てていた時期があるけれど、その頃は自分の書いた小説を多くの人に届けるためには、商業活字出版社に認められる必要があった。音楽と事情は変わらず、つまりメジャーになり、商業システムに組みこまれる必要があった。
 いまは違う。いまはだれもが小説を書いて、BLOGで発信することもできるし、電子出版もできる。iPhoneや、やがて来るiPadなどが劇的に変えるはずの人々の読書スタイルも、電子出版の形態をより進め、書き手は出版社や取次を通さなくても、多くの人々に書いたものを届けられるようになるだろうし、すでになりつつある。

 オーディオブックの世界もおなじ事情だ。
 自分の朗読を発信したい人はたくさんいるし、これからさらに増えていくだろう。うれしいことだ。あとは、
「個人のスキルを磨き、アイディアを形にするだけ」
 ところが、この「個人のスキル」の部分についていえば、オーディオブックに必要なスキルアップの情報は、いまのところ絶対的に不足しているといっていい。音楽製作については、ハードウェア、ソフトウェア、それらに関する本、ネット情報など、かなり豊富に出回っているが、オーディオブックに必要な個人的スキルについての情報はほとんど見当たらない。
 どのように読めばいいのか。
 読むにあたって必要な技術は?
 収録はどのようにすればいいのか。ソフトウェアはなにを使えばいい? マイクの使い方は? 編集の方法は? マスタリングに必要なものは?
 そもそも、朗読者のほとんどが「マスタリング」という言葉すら知らないという現状がある。
 音楽に比べればとても立ち遅れているといわざるをえない。
 オーディオブックを発信したい、自分を表現したい。そんな人をも、私はサポートできるのではないかと思っている。なにしろ、長年苦労してこつこつと積み重ねてきたからね。

衝撃的なバレンタインチョコ

 バレンタインデー。
 私はこの手の商業的イベントにはほとんど関心がなく、わざわざチョコレートをいただいたりすると自分の関心のなさにかえって恐縮してしまうくらいなのだが、今年はちょっとびっくりしたので、書いておく。
 フランスの田舎にある有名なチョコレートの店で、日本では初輸入・初販売となる「イルサンジェ」というブランドのチョコレートをいただいた。とても高価なチョコレートで、貧乏臭い話で申し訳ないが、計算するとひと粒あたり400円にもなる代物である。「スパイスライン」と銘打たれたチョコである。
 押しいただきながら、口に運んでみる。
 ま、まずい……!
 リンドウの根だの、カレー粉だの、わけのわからないスパイスが効いている。食べたことのない味である。
 食に対して挑戦的な方なら、こういうものも「ひょっとしておいしいかも」と果敢に立ち向かうのかもしれない。私は芸術や表現については挑戦的であり、常にあたらしいものにしか興味がないと公言してはばからないが、こと食に関しては非常に保守的な人間なのである。
 とはいえ、いや、いい経験をさせてもらった。

最高の人生の見つけ方

 これまた、不覚にも涙してしまった。作り手として未熟であり、お恥ずかしい限りだが、しかしいい映画なのである。
 ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンという二大ハリウッド俳優が、その持ち味を存分に生かして好演。設定や話の展開にはハリウッド特有のご都合主義と強引さが見え隠れするが、ふたりの演技に救われている。
 たまたま病室でいっしょになってしまった大富豪と自動車修理工のふたり。ともに余命6ヶ月と宣告される。ある成り行きで人生最後の旅行に出かけることになったふたりが、次第に心を通わせていく。
 私のように老境に差しかかろうという人間には、とても切ないところもある映画である。「死」という完全リセットの前にクリーンリセットをしたくなる気分のことを思わざるをえない映画で、それを結局は笑いとばしているようで、しかし決して軽んじた扱いをしていないところが好感を持てる。
 監督は「スタンド・バイ・ミー」のロブ・ライナー。俳優でもある。

2010年2月19日金曜日

さよなら。いつかわかること

 静かな悲しみに包まれた、美しい反戦映画。
 観ている途中、何度も涙をとめることができなかった。
 12歳と8歳の娘がいるアメリカの4人家族。ところが妻は兵士で出征中。アメリカの兵士の14パーセントは女性である。なので、決して特殊な状況ではない。
 その妻の戦死の報を受け、呆然とする主人公。この夫役を、ジョン・キューザックが非常に繊細に演じている。
 パパは娘たちにママの死を告げられないまま、ふたりを連れて遊園地に向けて旅に出る。一種のロードムービーっぽいテイストもある。
 長女役のシェラン・オキーフという子役の演技もすばらしい。

 また、映像に寄り添うようにしてある静かな音楽も美しい。いかにも「プロ」の音楽家が作りました、というテクニカルな匂いがなく、いいかたを変えればむしろ素人っぽいともいえるのだが、素朴であり、共感的であり、嫌みがない。だれが音楽を作っているのかとわからないまま、最後まで観て、クレジットを見て驚いた。なんと、あのクリント・イーストウッドが音楽を担当している。びっくりした。

いま読んでいる本:メール症候群

 私たちが「いま」のなかで確かに感じている違和感と実感。言葉にしようとしてもできない居心地の良さと悪さ。暴力と非暴力のはざま。そういったことを、独特の肌触りのある言葉で織りあげた刺繍=詩集。
 ゆるやかなストーリー性も感じられて、さらっと読んでも、じっくり読んでも、刺激的。

『メール症候群(現代詩の新鋭8)』渡ひろこ/土曜美術出版販売

2010年2月17日水曜日

中野ピグノーズのmizuho(瑞穂)さんが出演するベリーダンスのショーのご案内

 といっても、mizuhoさんがへそ出すわけではありません。ちょっと見たいけど。本業のバイオリン演奏での、ベリーダンスショーのサポートのようです。
 ベリーダンスは「Izumi & Izumi Studio Dancers」という方々。
 昨夜、ちらしをいただいたので、その紹介。

 3月25日には横浜の〈くんくんしーらや〉という沖縄とアジア料理のお店でのショー。
 3月27日には中目黒の〈楽屋〉というお店でのショー。
 3月28日には横浜の〈サムズ・アップ〉というお店でのショー。
 ちらしには、それはそれは美しい、おへそを出された美女たちの写真が載っております。興味のある方はどうぞ。
 詳しくはこちら

語りっ娘ニュース特別編 No.92

 語りっ娘・小林沙也佳ちゃんと、お母さんの淑江さんから、特別編集版が送られてきたので、紹介します。
 クリックすると大きくなります。
 なお、語りっ娘ニュースの正式版と、沙也佳ちゃんのとっても楽しい日記は、彼女のブログでご覧いただけます。
 語りっ娘ブログはこちら

2010年2月15日月曜日

偶然と不思議なこと、いろいろ

 名古屋でいろいろ偶然が重なって、おもしろかった。
 朝、ホテルをチェックアウトして、余分な荷物を先に東京に送り返してしまおうとローソンに立ち寄った。なんだか感じのいいお兄ちゃんがレジで対応してくれたのだが、私が荷札を書いていると中年の女性が店に入ってきて、いきなりお兄ちゃんに、
「これ、プレゼント。今日、バレンタインでしょ?」
 といって、チョコレートらしき包みを渡して出ていってしまった。
 聞けば、常連さんだという。名札を見ると、お兄ちゃんは加藤くんというらしい。なんとなくほほえましかった。
 荷物を出して店を出て、地下鉄の駅へ降りる階段のほうへ歩いて行きかけて、もっと近くにも階段があったはずだと思いなおしてくるりとUターンしたら、横断歩道を見た顔が歩いてくる。去年のウェルバ・アクトゥス「Kenji」公演のとき、音響を担当してもらった加藤さんだ。こんなところでバッタリ会うなんて奇遇だ。しかも加藤つながり。
 そういえば、この夜にデリヘイのライブで会った位里ちゃんも、姓は加藤だった。

 最近できた「マインドフルライフへの気づき」というmixiのコミュを見ていたら、せ〜じさんがミヒャエル・エンデの『モモ』のことを書いていた。
 名古屋でのミーティングに使わせてもらった店も〈MOMO〉という。オーナーの節子さんから、エンデの『モモ』にちなんでつけた名前だという。これも偶然。

 余談。
 デリヘイのライブのとき位里ちゃんに引き合わせてもらった来島さんというウェブデザイナーの方は、デリヘイのMySpaceの公式ページを作ったりしてあげているらしいが、「デリヘイ」でネット検索するとそのページより私のブログ記事のほうがトップに表示されてしまうらしい。
「どういうしかけで検索トップになるようにされてるんですか?」
 なんて聞かれたけれど、なんにもしかけなんかしてない。
 そういえば、現代朗読協会も最近、Google の検索で「朗読」と入れるとトップに表示されるようになってきた。
 不思議だ。

2010年2月13日土曜日

名古屋〈まちの縁側MOMO〉でウェルバ・アクトゥスの懇親会

 品川から新幹線で名古屋に向かう。静岡あたりから晴れている。名古屋は快晴。東京より暖かい。マフラーがいらないほどだ。
 今夜泊まるホテルに寄り、チェックインして、マフラーや荷物の一部を預ける。
 久屋大通の〈加藤珈琲店〉でバラさんとコーヒーを飲みながら、「沈黙の朗読」の打ち合わせ。また、6月30日に千種の円形劇場でやる朗読公演の打ち合わせも。どちらもおもしろくなりそうで、非常に楽しみ。

 バラさんと車道の〈まちの縁側MOMO〉という店へ。ここで今年のウェルバ・アクトゥスの最初の制作ミーティングと懇親会がおこなわれた。すでに一歩さん、ナオスケさん、健ちゃんらが来ていて、すぐにミーティング。ほとんどまだなにも決まっていない状況だが、12月9日から4日間、すでに愛知芸術文化センターの小ホールを押さえてある。この日程について、バラさんから提案があり、検討していくことになった。
 また、この最終公演に向けて今年もワークショップを開催するのだが、その方式について私からも提案をさせてもらう。
 そのあとは懇親会。あたらしい顔ぶれが何人もいらして、大変なごやかな雰囲気で食事しながら、ビールやワインをいただく。皆さん、ウェルバ・アクトゥスに興味を持っていただいたようで、今年の名古屋も熱くなりそうな予感がする。
 明日のワークショップは、今日とは別のメンバーがほとんど。

朝はきらいだ

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2010年2月9日火曜日

RT plan-B、夜

 野々宮卯妙のmixi日記
 昨日、「沈黙の朗読」の会場下見に彼女も同行してもらった。
 そうか。公演当日はもう春分も近く、夜の部の開場時間の17:30だとまだ明るいのか。

RT【「沈黙の朗読」公演のお知らせ】

 出演者のひとり、菊地裕貴が告知メッセージを書いてくれてます。
 mixiです。
 こちら

 菊地裕貴は現役の芸大生で、朗読を使った「先端芸術表現」をやっています。
 今回、私の「Bird Song」という作品を使って、かなりおもしろいパフォーマンスを、オープニングアクトとしてひとりでやってくれることになってます。

RT【沈黙の朗読】

 トゥイートじゃないからReTweetじゃないけど。
 でもまあ、「沈黙の朗読」についておすすめメッセージを書いてくれているので、mixiのIDをお持ちの方は、見に行ってみてください。
 こちらです。

 このヒヨコ草(雑草)さんは、げろきょの正会員でゼミ生です。
 ご自分も4月に朗読劇に出演するそうです。

Wind Blows In My Life

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2010年2月6日土曜日

iPadの詳細な映像分析

 このサイト、すごいんです。
「fraserspeirs’ photostream」というflickrのサイト
 現時点で発表されているiPadの実物の映像を詳細に解析して、まだ分かっていない機能や隠された機能を明らかにしています。

Oni

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2010年2月5日金曜日

トイレで読んでいる本:PRIVATE WORLD

 けっこうトイレでちびちびと本を読むのだが、最近はこれ。
 著者の下田昌克は、旅のスケッチ画家とでもいえばいいのだろうか。絵本も描いているけれど、旅のスケッチがいい。それも、お行儀のいいきれいなスケッチではなく、人に会い、正面から即興的に色鉛筆を運動させて描いたもの。建物や風景も息づいている。
 2年間にわたる中国、チベット、ネパール、インド、そしてヨーロッパの旅における膨大なスケッチを本にしたものだ。
 毎日、トイレで少しずつペラペラとめくっては楽しんでいる。

 私も「サウンドスケッチ」というテキストを描きつづけているが、いつも「ネタ」を探している。ときには旅に出て、新鮮なネタを拾いたくなる。
 この本を見ていると、とくに空間的な旅に出なくても、私たちは日々、時間的旅行をしているのであって、その気になりさえすればいくらでも新鮮なネタを発見し、描きとめることはできるのだと思う。

『PRIVATE WORLD』下田昌克/山と渓谷社

The Underground

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2010年2月3日水曜日

ブレイブワン

 タイトルがいまいちなのと、主演のジョディ・フォスターは悪くない女優だとは思うけれど個人的にはあまりグッとくる感じがしないのとで、見る前は気乗りしなかったのだが、始まったら出だしからすぐに引きこまれた。
 まず、ニューヨークでラジオのDJをやっている女性が主人公、という設定がいい。ジョディ・フォスター演じるDJのエリカが、ニューヨークの街を録音機をかついで街の音を収集して歩いている場面からはじまる。そして彼女の電波に乗せたモノローグ。まったく雰囲気は違うが、「タクシー・ドライバー」に通じるような魅力的な出だしだ。
 その後、ストーリーは目を覆うような悲劇へと転じる。エリカが婚約者と公園で犬の散歩をしていたところを、暴漢に襲われ、恋人は死亡、エリカも瀕死の重傷を負う。
 このような女性が、ふたたび社会復帰しようとしたとき、自分の身を守るためになにか武器を身につけるというのは必然性があるし、ジョディ・フォスターは繊細に演じている。そしてひょんなことから、エリカはこの「暴力」を駆使する機会に遭遇するのだ。

 正義の名のもとに、法律では裁けない暴力に暴力で制裁を下すことは許されることなのか。
 彼女の行動にどこか喝采を送っている私を発見する。また、映画のエンディングも、彼女と担当刑事の選択を、全面的ではないにせよ、肯定しているように見える。
 問題を多くはらんだ映画であろう。
 ジョディ・フォスターもよかったが、刑事役のテレンス・ハワードもなかなかよかった。


名古屋で現代朗読の特別ワークショップを開催します

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Lonely Girl

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2010年2月1日月曜日

イースタン・プロミス

 全然聞いたこともないタイトルの映画だったが、ヴィゴ・モーテンセンがいい演技をしていると聞いて観てみた。
 モーテンセンといえば、「ロード・オブ・ザ・リング」でアルゴン役として出ていた。
 全編、非常に抑制されたタッチで、暴力的な空気感をかもしだしており、緊張感がある。のっけから音楽もよくて、音楽で引きこまれていった。
 ちなみに音楽はハワード・ショア。この作品のほかに、「ロード・オブ・ザ・リング」「ディパーテッド」「ギャング・オブ・ニューヨーク」「パニックルーム」「羊たちの沈黙」などを手がける超売れっ子作曲家。

 ロシアンマフィアと接点を持ってしまったまじめな女医アンナ(演じるのはナオミ・ワッツ)と、そのマフィアの運転手からのしあがっていくモーテンセンの役のふたりを軸にストーリーは進行するのだが、ストーリー構成も画面構成も音構成もいい。
 最後にはちょっと驚く仕掛けが用意されているのだが、これも取ってつけたようなものではない。
 監督はデヴィッド・クローネンバーグ。
 なにか遠い、大きな目的のために、人はどこまで足下を見ずに進めるのか、というようなことを考えた。


明日の夜はPignoseでのライブ飲み会です

 今日から2月ですね。
 毎月第一第三火曜日の夜の恒例となった中野Pignoseでの「げろきょでないと」。2月もやります。
 くわしくはこちらにも書きましたが、ご都合のつく方はごく気軽に、飲み会だと思って遊びにいらしてください。
 毎回、なにかしらあたらしいことが起こっています。その目撃者になるもよし、飛び入り参加も歓迎ですのでその当事者になるもよし。
 お待ちしてます。

Move

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