音楽にせよ、舞踊にせよ、あるいは美術にせよ文学にせよ、私たちはその見方、聴き方、読み方を深く学んでいくことによって、より深い理解と楽しみを得られるようになる。
私は子どものころから音楽をたくさん聴いてきたが、最初はクラシック音楽を、やがてはジャズを、それからポピュラー音楽を、そして現代音楽を、それぞれの過程で学んできた。その経験を通して、学びを深めることによってしか聴こえてこない音があるのは確かなことだとわかっている。
あまり音楽の素養がない人がいきなり現代音楽を聴いても、ときには騒音のようにしか聴こえないこともあるだろう。が、その人が現代音楽について学び、その音楽がどのような構造を持ち、どのような狙いで作られているのか知れば、聴こえなかったものが聴こえてくることもあるだろうし、また楽しみ方もわかるかもしれない。
私がジャズという音楽を聴きはじめたのは中学の終わり頃だったと記憶しているが、最初はどの曲を聴いても、だれの演奏を聴いても、すべておなじように聴こえ、区別することができなかった。それが聴きこんでいくうちに、それがだれの演奏なのかすぐにわかるようになったし、ジャズという音楽の特性や構造も知るようになった。するとさらに興味が深まり、どの演奏を聴いてもその魅力が際立って受け取れるようになっていった。
ジャズという音楽に興味のない人は、たとえそれを日常的に耳にしていたとしても、中学生のときの私のようにしか聴こえていないだろう。
クラシック音楽ファンは、たとえば、同じ曲を同じオーケストラが演奏して、しかし、指揮者が変わることによって変化するその微妙な(彼らにとっては劇的な)変化を聴き分け、楽しんでいる。
小説を読む、文学作品を味わう、という行為にしてもおなじことだ。
芸術を楽しむ耳にしても目にしても、あるいは身体そのものにしても、それは始めからそこにあるわけではなく、学習によって作られていくのだ。おいしいものをおいしいと感じるようになるためには、「これがおいしいものなのだ」という後付けの情報がインプットされてはじめて舌が肥えていくことに似ている。
朗読という音声/身体表現にしても、おなじ事情であることは想像できる。
朗読は、だれもが日常的に用いている声と言葉と身体を使う表現なので、聴き方も特別な学習は必要ないように思われているかもしれない。しかし、私はこれまで何百回となくライブや公演をおこなってきたが、やればやるほど聴き手にもレベルアップしていただきたいという思いを強く感じるようになってきた。
朗読を聴きに来る人は「なにを」聴きに来るのだろうか。
多くの人が、朗読者が読む本の「ストーリー」を聴きに来る。
ここではっきり宣言しておくが、現代朗読においてはその聴き方はかなり「もったいない」ものであり、朗読表現が本来持っている豊かな可能性を悲しいくらいに受け取りそこなってしまう。
ストーリーはもちろん朗読者から聴衆に伝わる。が、それは、表現されている情報のごく一部にすぎない。ストーリー情報、すなわちテキスト情報は、コンピューターのデータファイルを扱ったことのある人ならよくわかると思うが、きわめてコンパクトなものである。朗読者はただそれを聴衆に伝えるために朗読をしているのではない。
朗読という表現行為では、テキスト情報をはるかに凌駕する膨大な音声情報、視覚情報、身体的信号、それらを含んだイメージ情報などが発信されている。聴衆はテキスト情報を大脳皮質で処理しながらストーリーを追いながらも、同時にほとんど無意識に朗読者が発信している膨大な表現情報を受け取ってもいる。
同時に、朗読者もまた、聴衆から豊かな情報を受け取っているのである。それらを交換し、共有し、反応しあう。ここでおこなわれているのは、音楽ライブの場でおこなわれていることと同様、まさにコミュニケーション以外のなにものでもない。
これが「現代朗読」という表現方法をもちいる場合の態度である。
このとき、表現者側に豊かな感受性が必要なことはいうまでもないが、できれば聴衆側にもそれを受け取り、また返答していくだけの感受性と身体感覚についての「学び」があればうれしい。
先入観を捨てること。感受性を開くこと。豊かな言語と非言語情報を交換しあうこと。聴き手の側にもそのような学びの態度があれば、朗読の世界はさらに豊かな可能性を広げていくのではないか、と考えている。