2009年10月26日月曜日

浅井信好「TSUBAKI」を観て音楽と朗読について考える

 昨日、中野の Plan B というスペースに舞踏を見に行った。
 タイトルは「TSUBAKI」。
 舞踏家は山海塾とありがとうというグループに属しているらしい浅井信好という人。私には詳しい事情はわからない。とにかく、ネットで見ておもしろそうなので見にいった。
 私は朗読家との即興はセッションを重ねてきているが、かねてより一度、舞踏家とも一対一の即興セッションをやってみたいと思っている。また、舞踏家/朗読家も交えてのセッションもおもしろいだろうと思っている。
 が、なかなかその機会がない。
 それはともかく、昨日の公演はなかなかおもしろかった。

 地下のライブスペースは、以前、私が住みながら使っていた豪徳寺の酒屋の地下のスタジオにそっくりで、なつかしい。
 踊りのための板敷きのフロアが広くとってあって、入るとロウソクが10数本、火をつけてぐるりと立ててある。その中心に男がひとり、衣装をまとって横たわっている。これが浅井信好。
 フロアの奥まったところにアップライトのピアノが置いてある。
 始まると、そこへピアニストがやってきて、おもむろに座って、煙草を吸う。
 しばらくして、演奏が始まる。その音にびっくりしてしまった。予想しなかったような美しいタッチのピアノの音。まさかこの地下室のボロピアノ(に見える)から、これほどの美しい音が出てくるとは予想していなかった。
 ピアニストは Yoshizumi という人らしい。ライブを通じて4つくらいのモチーフを順番に繰り返しながら、展開していく即興演奏だ。即興といってもジャズ的なアプローチではなく、私はむしろクラシック演奏家の印象を受けた。あるいは、ECM系のサウンド、そしてもちろんキース・ジャレット。
 ピアノの演奏に乗るような乗らないような動きで、ダンスも展開していく。ときに静かに、ときに激しく。ときに丸太のようにまっすぐに後ろに倒れたりすることもあって、ちょっとびっくりする。
 全体的に、人が生きることの悲しみ、苦しみ、矛盾、激しさ、暴力、そして生と死といったものを感じさせる表現。
 50分くらいのセッションが途切れることなくつづき、最後は最初とおなじように静寂にもどって終わった。

 とても刺激的なライブだったが、物足りなさも残った。せっかくの接近した空間なのに、「演じる側」と「見る側」という図式が最後まで崩されることなく、また舞踏家とピアニストの間に積極的なコミュニケーションは見られなかった。あるのかもしれないが、ピアニストが主導で展開し、それに舞踏家が合わせていくといった印象を受けた。そこが物足りなく感じたゆえんかもしれない。
 そうやって印象を延長させて考えていくと、朗読という表現の大きな可能性にあらためて気づかされる。
 朗読にはコミュニケーションがある。
 ダンスと音楽には言葉なく、そこに非言語表現の豊穣を感じるのだが、朗読においても非言語表現の豊かさに朗読者が気づいたとき、世界の大きな広がりが見えてくるはずだ。