2009年10月12日月曜日

私たちはなぜライブや公演をやるのか

 私たち人間はなんのためにひと前に出てなにかをやるのだろうか。
 芸術にしても音楽にしても、芸能にしても、あるいはスポーツにしても、もちろん私たち人間は「表現行為」をせずには生きていられない動物だからである。
 その「表現欲」には個人差があるし、またおなじひとりの人間でも年齢のなかで変化していくこともある。若いときには表現欲に突き動かされて芸術家をめざしていたのに、中年になってからすっかりおとなしくなってしまう人とか。あるいは逆に、学生から社会人、あるいは結婚生活と、とても平凡な生活を送ってきた人が、突然表現欲求に突き動かされて、なにかを始めたりすることもある。
 いずれにしても、人はだれかに理解されたり、認めてもらうことで、自分自身の存在を確認することができる。なぜなら、自分は自分自身のなかに閉じこめられているので、厳密な意味で客観的には自分を認めることができないからだ。なにかを表現し、自分以外の人のリアクションを受けとることで初めて、自分の存在を認めることができる。

 朗読や演劇、音楽の世界では、自分たちを表現する場としてのライブや公演がある。
 私もいま、10名ほどの仲間と小規模な朗読ライブの準備を進めているが、自分たちが「なんのためにライブをやるのか」ということについて、しばしば確認することにしている。
 ライブや公演というと、たくさん準備やリハーサルをして、お客にできるだけ完璧なものを見ていただこうとする人や集団が多いようだが、私たちは違う。
 多くの集団が、
「せっかくお金を払って見に来てもらうのだから、できるだけいいもの、対価に見合うだけのものをお見せしたい」
 と考え、入念に準備をする。が、私たちはそういう考え方をとらない。
「楽しみ」であったり「泣ける」ことであったり「お笑い」であったり、「超絶的な技巧」であったり、なんでもかまわないのだが、観客が対価に見合うだけのなにかを求めてライブや公演に来る場合、それは「消費行動」と呼ばれる。3000円のシャツを買ったり、100万円の車を買ったり、100円の人参を買ったりすることと基本的にはなにも違わない。ただライブや公演はモノではないので形がないだけである。消費行動という意味では、経済的におなじ意味を持つ。
 しかし、私たちはなにかを売るために表現をおこなっているわけではないのだ。もちろん、自分自身を売ることもしない。
 私たちは私たちがおこなうなにかを「売る」ことなどしたくはないのだ。
 では、なんのためにライブや公演をおこなうのか。

 これまでに何度も書いてきたが、私たちは「共感の場」を作りたくて表現をおこなっている。
 人は共感する動物である。共感の場でしか生きえない生き物である。自分を認め、自分が認められ、また人を認め、共感的な存在として対面したとき、そこには「売り買い」ではない水平な関係が生まれる。その場にはまた「学び」も生まれる。「学び」によって人は「成長」する。
「共感」「学び」これがキーワードだろうと思うのだ。
 私たちは共感の場を作る。そこには予期しないさまざまなことが起こる。感動的なことが起こることもあれば、びっくりするようなハプニングが生まれることもある。また、私たちの表現を受けて変化する人々の表情、感情、身体を感じることもできる。そこから私たちは学ぶのだ。自分が表現することでなにが起こりうるのかを。
 学びはさらなる表現へとつづき、その過程で私たちも、そして来てくれた観客も成長する。そこは決して消費行動の場ではない。
 重ねていうが、私たちはあらかじめ準備し作り上げられた完成物をそこに提示するのではない。いまここに生きて変化しつづけているありのままの私たちをそこに置き、来てくれた人々とコミュニケーションを作る。関係性を見つめる。そのなかで学び、さらに変化する。
 時間は流れつづけ、私たちの身体も感情も存在も、すべては動いていく。
 来てくれる人からお金をいただくとすれば、それは共感の場を成立させるために必要な血液としてである。献血をする人がそうであるように、来てくれる人が喜んで提供してくれるものだけを、私たちは受け取る。