2009年10月16日金曜日

ぶっつけ本番は失礼なのか?

 まだ若い朗読者がたくさん反復練習をするので、なぜと聞いてみたことがある。
 すると、
「ぶっつけ本番は失礼じゃないですか」
 という。
 なにが失礼なんだろう、と私は考える。
 ひと前で自分を表現するパフォーマンスには、ふたとおりある。パフォーマンス自体をきっちり練習して、何度やってもおなじようにやれるような再現性を重視するやりかた。もうひとつは、なにが起こっても対応できるように柔軟性を鍛えておくやりかた。
 音楽にたとえるとわかりやすい。クラシックとジャズ。クラシック音楽は楽譜に書かれた音楽を自分なりに解釈し、弾きこみ、狙った表現をピンポイントで再現しようとする。もちろんそうじゃない方法もあるが、一般的な話として。
 ジャズの場合は、曲目、共演者、環境、気分、すべてによって表現が変化するし、また変化するための練習をする。ジャズミュージシャンは一曲を何度弾いても同じように弾けるようには練習しない。何度弾いても違うように弾けるように練習する。
 朗読でも似たような表現態度がある。

 現代朗読協会の野々宮卯妙という朗読者が、あるライブハウスでアンコールをせがまれ、思いつきでその店のメニューを朗読した。これはお客さんに失礼なのか。
 私はそうは思わない。彼女はこのようにとっさにテキストを渡され、たとえ初見であっても、テキストやその場の雰囲気に反応し、一定のパフォーマンスを発揮できるように、反復練習だけでは獲得することのできないすぐれた能力を身につける難しい努力をしてきた。いまもしている。生活そのものが常に柔軟なパフォーマンスを発揮するためにあるのだ。
 日々努力し、ステージに立つときは全身全霊をこめて観客と向かい合い、反応する。その場を共有する。ともに時をすごし、命の炎を燃やす。
 この姿を見て、「失礼だ」などという者はいない。