コンピューターのファイルを整理していて、たまたまちょうど一年前の写真やら日記が目にはいった。
一年前の私はなにをしていたのか。たった一年前のことだけれど、はるか遠い昔のように記憶はかすんでいる。それほどこの一年の間に、なにがしかの出来事がみっちり詰まっている。
歳を取ると日時のすぎるのが早く感じるようになるというけれど、私にかぎってそれは違っている。むしろずっとノロノロと、ジワジワと、みっちりと進んでいっているように感じる。一ヶ月前のことですら、一年も二年も前の出来事のように思える。
一年前には、私と現代朗読協会にとって大事なトピックがあった。それは、「現代朗読を体験しよう」というワークショップがスタートしたことだ。いわゆる「体験ワークショップ」。
これが私と現代朗読協会を大きく変えた。
本当は無料でやりたかったのだが、それだとちょっとピントはずれな人まで来てしまうのではないかという懸念による参加費1,500円(現在は2,000円)というフィルターをかけることにした。
振り返ってみると、この体験ワークショップ開催スタート以前の現代朗読協会(げろきょ)と、以後のげろきょとでは、メンバーがほぼ9割がた入れ替わってしまっている。一年前にいた人たちの9割は、いまはもういない。逆に、いまいる人たちのほとんどが、一年前にはいなかった人たちだ。
じゃあ、いまいる人たちも一年後にはみんないなくなってしまうのか、というと、そうではないような気がする。これからの現代朗読協会は、いまいる人たちに支えられて将来もあるのではないかと思っている。
一年前まで、私は現代朗読協会という組織を維持するために、なんとか維持費を捻出しようと、いろいろなワークショップを手を変え品を変え、実行していた。その参加費も(いまから思えば)かなり高額なものだった。
結果的に、プロ志向の強い人、実利を求める人、出した金額に見合うだけのなにかを得ようとする人、そういった人たちが集まってきていたように思う。ナレーターやアナウンサー、声優、その卵、そういった人たちが多かった。
彼女たちは他では学べない多くのことを現代朗読協会で学んでいってくれたと思うし、また私も彼女たちから学ぶことが多かった。が、実利主義の世界では、ある一定の必要なことが終わった後は、その場にはもう用はない。次の実利を求めて別の場所へと去っていくばかりだ。
このエピソードは、私がかつてテキストライティングの世界でやっていた「小説工房」という集まりにもあてはめることができる。寂しいことだが、実利主義の世界では、実利がもう得られないとわかった瞬間に、人はその場を去っていってしまうのだ。目的は「実利」であって、「人との関係」ではないのだから。「小説工房」のときにあれほど濃密につながりあっていたと思っていた人々と、いまだにつながりを持てている人はわずかにすぎない。
現在の私と現代朗読協会は、ようやく実利主義から抜けだすことができたと思う。
いま、ここにいる人たちは、実利を求めていない。少なくとも経済的には。心豊かになることを欲し、その方法をともに考え、実行する仲間である。「朗読」は自分を表現する手段であり、自分と世界のありようを考えるためのツールでもある。それはだれもがすでに持っているものだ。だれもがいますぐにでも始められる。
声を出す。言葉を発する。コミュニケートする。ただそれだけのシンプルなものだ。それがひとりひとりの世界の扉を大きく開く。
この一年のあいだに、ほかにはなにが起こったんだろう、と考えてみた。
ひとつには、もちろん、「現代朗読」という方法の純粋化だろう。
もうひとつには、アレクサンダー・テクニークの講師をつとめてくれている安納献くんが持ちこんできた「非暴力コミュニケーション(NVC)」の考え方がある。これを抜きにしては、いまのげろきょはありえない。
まだまだ完全には理解できていないし、実行できてもいないが、自分なりになんとか応用しようと格闘しながら名古屋「Kenji」公演のワークショップに持ちこんで応用し、公演の成功に導くことができたと思っている。
公式なNVC-Japanの人たちがどう見ているかわからないが、私は私なりに非暴力コミュニケーションの実践の場として現代朗読協会を運営したいと思っているし、また運営している。現代朗読は、自分を発見し、回復し、認めあい、共感するためのツールだからだ。
たった一年のあいだに、世界の価値観は大きく変化したように感じている。
暴力、競争、効率追及、過剰なエネルギーと物質の消費。そこから抜け出し、新しい価値観の中で心豊かに生きること。
私たちはそんな時代に足を踏みいれようとしているのではないだろうか。