2020年7月21日火曜日

essay 20200721 やりたかったこと

かなり落ちこんでしまった。
昨夜、介護ベッドの置いてある二階の部屋に、1階からピアノを運んでセッティングしてもらった。
弾くのは何日ぶりだろう。
退院した日だから、5日ぶりだろうか。

衰えるのは早く、回復するのは時間がかかると聞いた。
確かにその通りだと思った。
まったく思ったように指が動かないのだ。

しかし、ふと思い出した。
思ったように自在に演奏するのではなく、自分の内側から出てくる音を触りながらまだ聞いたことのない自分のことを発見していく作業をやりたいのだった、と。
いずれ肉体は衰えていく。
これまでできたことが、いつかできなくなってしまう日が訪れる。
私の場合、それはおそらく思ったより近い日だろう。

あと何日ピアノを演奏できるだろうか。
許されるなら、その日が来るまでただただ無心にピアノを弾き続ける、それが私の最も喜びとするところだ。




From editor


書こうと思いついたことはたくさんあるのに、日々スリリングで流れていってしまう。

ベッドの向きを変えた。ベッドがさえぎっていた窓からの光が奥まで届くようになり、ピアノを入れたにもかかわらず部屋は広く感じられる。
窓にむいて絵を描き、五歩ほどでピアノにたどりついて弾ける環境をつくった。
この環境ができるだけ長く生かされますように。

今日は本当に久々におだやかな一日。痛みは絶えないが、こうして演奏もアップできた。絵も描いた。小さな小さなオムレツも食べられた。アロマオイルで足をマッサージされて安心した。絵筆を洗おうとして洗面所へたどりついたらなぜか過呼吸になって焦ったけど音読療法で立ち直れた、いただいて大喜びしたマイクロ胡蝶蘭が三日目にして早くも折れてしまってすごくがっかりしたけど「ドライフラワーにするとかわいいんだ、ドライフラワー用のシリカゲルを買わなきゃ」、嘆きは命を慈しむお祝いになった。

  * * *

こんなふうに、とてもとてもささやかなことを喜び慈しんで日を送っている。
とはいえ、ほんのわずかなショックも大きく響き、自分の無防備さのゲージが下がっている(不信や警戒心が上がっている)のに気づく。
どうやら体が常時緊張しているようで、ものすごく疲れる。きっと視野も狭いだろう。
それでも外に出れば、道をまるで初めて見るかのように歩くことができ、かすかな風に肌を喜ばせることができる。どうにかこうにかここまで来た、人より歩みはものすごく遅いだろうけれど、そのぶんしっかり味わえた。できることは本当に少なく、それをただやるだけ。