2019年12月27日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(20))

昨日は水城ゼミの忘年会だった。
朗読ゼミ生やひよめき塾生のほか、ゼミに参加したことのある人、音読療法やNVCでのつながりがある人など、オンラインも合わせれば10数人が集ってくれて、大変にぎやかで楽しい会となった。
みなさん、ありがとう。

今年最後のイベントだったので、現在と今年を振りかえるいい機会になった。
集まってくれたみなさんの多様性に、混沌を感じつつ、うれしくなった。
人種、性別、年齢、職業、思想信条など、てんでばらばらで、そういう人たちが朗読表現や非暴力コミュニケーション、マインドフルネスなどの勉強の場としてのゼミにつどっていることが、私にとっては大きなお祝いだ。

私自身もこの半年、マインドフルに自分のニーズにつながり、日々やれること、やりたいことに集中してすごしてこれたことは、半年がまるで何十年にも感じるような充実があった。
こんな濃密な時間はこれまでになかったことだ。
ひょっとして子どものころはこんな時間を毎日すごしていたのかもしれないが、あいまいな記憶でしか残っていない。

残り時間はあとどのくらいあるのだろうか、という想像的観念ではなく、いまこの瞬間の永遠にちかい濃密な時間を感じながら生きること、このことが私にとって「生きる」ということにほかならないと、昨日の集まりのなかでみんなの声を聞きながら編物をしながら、思っていた。

■各社からの依頼とバブル崩壊による小説氷河期へ

デビュー長編が徳間書店の徳間ノベルスから刊行されると、驚いたことに、すぐにいくつかの出版社から書き下ろしの依頼がやってきた。
中央公論社、(いまはなき)朝日ソノラマ、(いまはなき)天山出版。
それぞれの出版社に出向いたり、編集者が福井までやってきたりして、それぞれの出版社での最初の長編小説の企画を練った。

そんなふうにして、最初の年から翌年にかけて、4冊くらいの新刊書を私は出すことになった。
そこそこ売れたものもあれば、売れなかったものもある。
すぐにわかったのは、いきなり何十万部というベストセラーを出すことはむずかしく、また私自身もそのようなベストセラー作家の仲間入りをしたわけではないということだった。

しかし、編集者——つまりプロの読み手にはあるていど評価されていたような気がする。
ベストセラー作家にはならなかったが、仕事の依頼はとぎれることはなかった。
ほとんどが長編の書きおろしの依頼で、単発の雑誌掲載短編の依頼もたまにあった。
書き下ろしはノベルスが多く、文庫書き下ろしもあった。
しかし、ハードカバーでの刊行はなかった。
つまり、エンタテインメント小説の——ひょっとして使い捨て的な——書き手として扱われていたのだろうと、いまとなっては思う。

私の小説家デビューは1986年だったが、時代はやがて激動の1989年から1990年、1991年へと進んでいく。
私にはまったく意識も実感もなかったが、この時期はちょうどバブル期にあたっていた。
そして1991年にバブル景気が崩壊すると、小説の世界にも寒風が吹きはじめた。
とくにノベルスという新書版サイズのエンタテインメント小説は、一部のベストセラー作家をのぞいて急激に売れ行きが落ちていった。
もちろん、私の本も売り上げが激減していった。