2018年11月6日火曜日

マイクロシフトがビッグシフトを生む

人生、現状維持でいい、いまのままでなんの不都合も感じていない、という人には不要なことだろうが、私のようにつねに自分が昨日よりも今日、今日より明日が、すこしでもよりよい自分でありたい、わずかでも成長しつづけたい、という欲求が抜きがたくある人間は、多かれ少なかれ自分の変化を望んでいる。

若いころはスピード感を求めたり、劇的な変化の手応えがほしかったりして、ある日を境にそれまでできなかったことが急にできるようになる、といったストーリーを夢見たり、実際にまれにそういうことが起こったりすることもある。
が、変化というものは若かろうが歳を取っていようが、漸進的なものであり、すこしの変化が積み重なった結果として大きな変化がもたらされるものだということがわかってくる。

これはあまり年齢とは関係のないことだと私は思っている。
若いほうが成長は早い、歳をとると成長はおろか能力は徐々におとろえていく、というのは思いこみにすぎないのではないだろうか。
そのようにかんがえておくと、できないことのいいわけができて安心するという心理が働いているような気がする。

もちろん人は生き物であり、経年劣化はだれにもひとしくおとずれる。
筋力や体力がおとろえたり、身体機能のさまざまな部分が低下していくことは、自然現象として起こる。
しかし、その自然現象のなかでも本来発揮できるはずの成長能力をきちんと発揮できているかどうかということは、個々人がみずからをかえりみてみる必要があると思うのだ。

私が主催している「身体文章塾」というものがある。
参加者はすくなくて、とくに中心メンバーは奥田浩二と知念満二のふたりなのだが、奥田はもうかれこれ10年近くの継続的参加メンバー、知念も丸3年になろうかという毎回欠かさず参加するメンバー。
月に3回程度、ほぼ欠かさず参加しつづけているふたりの「斬新的成長」を、私はしっかり目撃しつづけてきた。
そしてまた、私自身も励まされてきた。

「成長」などというと数値化しずらい抽象的な印象があるが、数値でしめせることもある。
ふたりには2年くらい前から長編小説に挑戦してもらっているのだが、毎回原稿用紙にして何枚かかならず書いてきてもらっている。
それが積みかさなると、たとえば知念は先日、300枚の長編小説をとうとう書きあげたのだ。

かつては商業小説家として長編小説を何本も書きあげた私としては、とにかく長編小説というのは毎日こつこつと書きつづけなければ永遠に書きあがらない、という実感というか事実がある。
実際に長編小説を一本書きあげるというのは大変なことなのだ(そのクオリティがどうであれ)。

毎日3枚ずつ書くとする。
たった3枚というなかれ、これだって毎日欠かさず書きつづけるのは大変だ。
1か月書きつづければ90枚になる。
3か月書きつづければ270枚になる。
5か月書きつづければ450枚になる。

450枚の長編小説は一夜にして完成するわけではない、毎日すこしずつ書きすすめた結果として、450枚というまとまったものが現出するわけだ。
単純な話だが、これがなかなかできない。

3枚というほんとにささやかな、自分の能力としては充分可能な、わずかな努力を、継続できるかどうか。
わずかな変化を毎日持続して維持できるかどうか。
自分が大きく成長する、変化するようなビッグシフトは、マイクロシフトの積み重ねからしか生まれないことは確かだ。