2017年11月30日木曜日

メールやSNSメッセージで共感は可能か

しばしば標題のような質問を受ける。

しばらく前までは、言下に、
「無理です」
と断定していた。
人と人のコミュニケーションというものは、表面的に交わされている「ことば」など言語情報のほかに、表情や反応、姿勢、息遣い、視線、声のトーンやリズムといった、非常にリッチな情報を交換していて、しかもそれらのほとんどは無意識のうちに処理されている。
それに比べ、メールやメッセージなどによるテキストコミュニケーションは、リッチな情報がほとんど抜け落ちた、言語情報のみによるかなり貧相(プア)な交流といわざるをえない。

共感的コミュニケーションにおける人と人の共感のやりとりは、無意識下の処理を含むリッチな交流で、とてもテキストの交換のみでおこなえるようなものではない、たいていは失敗する、というのが、容易に想像できることだし、また経験的にもそういえる。
実際にメールでやりとりして、こちらの意図がまったく伝わらなかったり、思いもよらない反応が相手から返ってきて、絶望的な気分になった経験を持っている人は多いのではないだろうか。
だから、テキストで共感はできない、といわれているし、私もそう思っていた。

でも、ちょっと待て。
本当にそうなのだろうか。

私は子どものころから本が好きで、さまざまな本をたくさん読んできた。
北陸の山間部という田舎に生まれ育ったので、世界を知るには本は貴重な情報源だった。
その読書体験――テキスト体験を振り返って、それがプアな体験だったとはとうてい思えない。
むしろ非常にリッチな時間だったと、いまでも感じている。
子どものころのテキスト体験がなかったら、いまの私はいまとはまったく別の人間になっていただろう。
そのことはあまり想像したくない。

ことばだけのテキスト情報は、たしかにそれ以外のリッチな情報が抜けおちているが、だからといって読む者に豊かな経験や感覚を喚起させないとはいえない。
ようするに、どう書くか、どう読むか、ということなのではないだろうか。

最初からテキストだけのやりとりでは共感はむずかしい、とあきらめてしまうのではなく、テキストの可能性を共感的コミュニケーションの観点から洗いなおすことで、あらたなコミュニケーションが見えてくるかもしれない、と私は希望を持っている。
というのも、最近の共感文章講座でおこなっているいくつかのワークで、テキストを用いた共感交流の可能性が見えてきたからだ。

だれかが書いた文章を読むとき、私たちはついつい、そこに「なにが」書かれているかを読みとろうとする。
そこに書かれている「情報」に注目する。
そういうふうに読む習性が身についているからだ。
その習性はおそらく、教育や社会性のなかで成長とともに訓練して、あるいは強制されて身につけてきたものだろう。

いったんその習性を手放し、「なにが」書かれているか、ではなく、「どう」書かれているかに注目して文章を読んだときに見えてくるものはどういうものだろうか。
実際にワークで経験したことだが、だれかが書いた文章にはさまざまな感情やニーズが込められている。
それが意識的に書かれていることもあれば、ほとんどの場合は書き手も無意識に書いていることが多い。
しかし、それは文章からある程度読み取ることができる。

人が話したり行動したりするとき、そこには豊かな感情があらわれ、またその奥にはニーズが息づいているように、書かれた文章のなかには感情がこめられ、それはさまざまなニーズにもとづいている。
それを受けとり、フィードバックを返していくことで、これまでとは異なったテキストコミュニケーションができるかもしれない。

また、自分が書くときにもそのことを意識する。
自分のニーズや感情をつかまえ、そこから離れないままなにかを書くとき、それはどんな文章表現になるだろうか。
このことは、実はある程度実験ずみだ。
そこに大きな可能性と楽しさがあることは、すでに実証ずみだ。
そこで起こっていることを、もうすこし整理し、系統だてて説明したり、だれもが練習できるようにしてみたいと、私はいまかんがえているところだ。

12月3日:自己共感を用いた文章表現WS
水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。