2017年11月17日金曜日

『朗読の力』という本を

たくさん書きたいことがたまっていて大変なんだけど、また一冊、書いてみたい本ができた。
というより、すでに断片的にはメールマガジンやブログで書いていることなのだが、それをもうすこしまとまった形にしたくなっている。

タイトルが先に降ってきていて、『朗読の力』という。

2006年に特定非営利活動法人として現代朗読協会を立ちあげる以前から、私自身は朗読をやらないくせに朗読という表現行為についてかなり大きな可能性を感じていた。
自分では朗読しないかわりに、朗読演出という形で朗読者と関わりつづけ、またステージ表現を演出という立場で数多く試み、また音楽家・演奏者という立場でおなじステージに立って共演してきた。
その過程で「朗読の力」に気づき、年を重ねるごとにその可能性をますます確信するようになってきた。

「朗読」という表現は、さまざまな表現行為のなかでも特別な位置づけにある。
だれもがいますぐチャレンジできるその表現行為には、現代人にとって非常に重要で必要なことに気づき、獲得できる、特殊な有用性が秘められている。

このことをいまここで解説するつもりはない。
それは『朗読の力』のなかで明らかにするつもりだ。
また、きちんと順を追い、ある程度の質量のことばを重ねなければ、みなさんに納得してもらうのは難しいと思っている。
だから、一冊本を書きたくなっているのだ。

まあしかし、私や現代朗読家の野々宮卯妙がやっているゼミやワークショップに参加したことがある人なら、その一端は垣間見ておられるかもしれない。
ピンと来た方がいるかもしれない一方、まったくピンと来なかった人もいるだろう。
よくわからないままについてきてくれているうちに、おぼろげながら方向性が見えてくる人もいるだろう。
なんだか曖昧な話だが、なかなかひとことで説明するのが難しい、明快に言語化することが困難なことをやっているからだ。
といって、やっていることそのものは難解でもなんでもない。
ごくシンプルなことだ。

ようするに自分の身体、生命の働きをよく注視し、そこから生まれ出ずるいきいきとした脈動を「邪魔しない」ようにする、というだけの話だ。
難しくはないが、やってみればわかるとおり、ちょっとやっかいな面がある。
それは私たちが現代的な文明生活のなかで自分の生命活動を解きはなつ機会を失ってしまっていて、むしろそれを抑制し阻害する習慣ばかりを強固に身につけてしまっている、という理由による。

長々と書いたが、ようするに朗読という表現行為は、私たちが自分自身をひとつの生命体として生かしきるための練習の有効性がある、ということだ。
みなさん、いっしょに楽しみながらやってみましょう!

朗読や群読などの身体表現を用いていまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現するための研究の場・現代朗読ゼミ、12月の開催は5(火)/7(木)/16(土)/21(木)/26(火)、いずれも10時半から約2時間。