以前よくやっていた「ディープリスニング」というワークショップと、そこから生まれた音楽アルバム"quiet pictures"の誕生秘話(べつに秘密でもないけど)について書く。
いまはもう削除してしまって存在しない古いブログで配信したものを書きなおしたものだ。
ディープリスニング自体はまたやりたいと思っている。適当な場所を物色中。
2004年のことだが、ウォルフィー佐野というマルチプレイヤーと知り合った(元気かなあ?)。
その年、私は地下アトリエを使って「Into Your Mind」という静かなライブシリーズを月に1回程度開催していた。そのゲストにウォルフィーを呼ぷことになった。
ウォルフィーは基本的にサックス奏者だが、アルトもテナーもソプラノも、そしてフルートもこなすというマルチなプレーヤーである。さらにはギター、パーカッション、ヴォーカルまで幅広くやれる。
そして彼は生まれついての盲目の人である。
地下アトリエでライブの準備をしていたとき、照明をどうしようか、という話になった。
このシリーズのライブでは、いつも照明をかなり落とし、なるべく音に集中してもらうように心がけていた。
ときにはホームプラネタリウムを回したりすることもあった。そのときは照明は完全に落としてしまう。
するとウォルフィーは、
「どうせ見えないんだから僕はどちらでもいいよ」
いわれてみればそのとおりだった。そのとき、私はふと、完全に照明を落として演奏してみようと思いついたのだ。
ウォルフィーは照明があろうがなかろうが関係ないし、私もまた、プラネタリウムを使うときなどはほぼ完全に真っ暗で手元が見えない中、演奏することに慣れていた。そもそもピアノの鍵盤は規則正しくならんでいるものであるから、とくに見えなくてもそこそこ演奏できるのだ。
というわけで、真っ暗な中、ライブがスタートした。
完全暗転である。鼻をつままれてもわからない、とはこういう状態のことだ。眼をあけているのか閉じているのかすら、自分ではわからない。
あけても閉じても、どっちみちなにも見えない。となると、すがれる感覚は音しかない。
聴覚のみが有効となると、とたんに聴覚に全感覚が集中し、とぎすまされていくのがわかる。音が音でなく、まるで手を伸ばせる触れるような実体のあるイメージとして立ちあがってくる。同時に、自分のなかにもそれに呼応するようにさまざまなイメージが浮かんでは消えていく。
もっとも、そういう効果があるというのはあとになってわかったことだ。あとになってわかったことは、ほかにもいろいろとある。
ここではくわしく書かないが、「ディープリスニング」と名付けたこの方法は、欧米でもすでにおなじ名前あるいは「ソニックメディテーョン」などと呼ばれておこなわれていることもわかった。
このことをきっかけに、朗読ワークショップなどでも機会あるごとにプラクティスの一環としてディープリスニングを試みるようになった。
その演奏だけを収録したCDがほしい、という声がかなり寄せられ、それで作られたのがアルバム "quiet pictures" である。
付記(宣伝ですが)。
ディープリスニング(11) CDの詳細はこちら。
試聴もできます。