朗読のワークショップやゼミにおいて、「~しなさい」や「~ねばならない」ではなくて、「あなたはどうしたい?」と問うことが多い。
この問いは、たえず自分自身にも向けつづけている。
ただし、答えはない。
明確な答えはなくても、問いつづけ、探しつづけること。
探しつづける行為そのものが、人を成長させる。
これがときに、とても嫌悪されることがある。とくに、若い年代の人たちからは、
「きみはどうしたい?」
という問いに対して、つよい反発を食らうことが多い。
私も含めて人は、「~しなさい」「~ねばならない」への誘惑がある。そのほうが楽だからだ。自分の行動が内部的であれ外部的であれ、ある規定を受けていると、そのことについてかんがえる必要がなく、ただそのとおりにすればいい。
しかし、なにも規定がなく、自分で決めなければならないとき、探索の苦しさがある。
しかし、これが「人であること」であり、「自由であること」であろう。なにもかんがえず決められた行動しかしない人は、人というよりロボットに近い。
苦しくても自由意志を志向し、かんがえつづける人は、ロボットではなく人だ。
私は自分自身に死ぬまで問いつづけたいし、また、嫌悪されようとも人にたいして問いかけつづけようと思っている。