2019年10月15日火曜日

自然現象としての生命観・死生観を体認から得る(末期ガンをサーフする(26))

10月11日、金曜日。午前11時半。
26回めの放射線治療のために東京都立多摩総合医療センターに行く。

今日から照射治療の最後のクール——残り五回となるので、照射プログラムを作りなおすための撮影をするのだという。
私の場合、食道ガン本体から胃の下部——大動脈の脇のリンパ節に遠隔転移があって、昨日まではそこを含む広範囲に照射をおこなっていたのだが、遠隔リンパ節の周辺は胃や腸、血管、腰椎、その他さまざまな器官が集まっているので、最後はその部位をはずした照射プログラムになるらしい。

照射治療前にやや時間をかけてX線撮影がおこなわれた。
その後、いつものように——しかし角度や時間は変わっている?——照射治療。

体育の日を含む連休があるので、次回の照射治療は火曜日となり、また残りは四回となった。
やはり治療の影響で体調がくずれぎみだったので、いったんこれで治療が終わるのはほっとする。
ただ、治療の効果がどの程度だったのか、ガンは縮小したのか、あるいは効果がなかったのか、それがわかるのは一か月くらいあとの検査による。

  *

二〇一三年からはじめた武術・韓氏意拳の具体的な内容については、日本の代表である武術家の光岡英稔氏をはじめとする著述や対談があったり、武術雑誌やネットでもたくさん紹介されているので、私から説明することはしない。
ここで書いておきたいのは、私が韓氏意拳の稽古をするようになって教わった——あるいは気づいた、私たち現代人がおちいっている、いびつともいえる身体観の特徴であり、本来の自然な動物の一員としての人のありようについてのあらためての気づきについてだ。

あくまで私個人の気づきであり、かんがえなので、韓氏意拳の本質そのものをひょっとしてはずしているかもしれないが、私が「そうとらえた」ことによって世界のあらたな見方を得たことは事実なので、それについてすこしだけ触れておきたいと思うのだ。

私たちは巨大化した物質文明社会のなかで、いわば絶えざる生命の危機を守られながら安心して生きている。
発達した政治や経済のシステムも、私たちの持続的な生活をささえている。
それがいい悪いということではなく、げんにそのような社会を生きている。

そのために、私たちがつい忘れてしまうことがある。
それは、私たち人間も、本来は自然界の存在であり、野生動物となんら変わらない生命現象のもとに生きている、ということだ。

いくら物質文明に守られていたとしても、どんな人もいつかはかならず寿命がつきるときが来る。
医学や科学が発達したおかげで、怪我や病気をしても治療ができる(こともある)し、平均的な寿命も昔にくらべれば格段にのびている。
子どもの死亡率もとても低くなっている。
だからときどき勘違いしてしまう。
私たち人間は病気や寿命や不慮の事故をある程度コントロールできる、と。

自分の病気や寿命を、まるでモノであるかのように概念化したイメージでとらえている。
機械が壊れたら修理してもらえばいいというふうに、病気になれば薬を飲めばいい、医者に治してもらえばいい、さまざまな治療法があってそれを適切に用いれば、自分も修理可能だ、くらいに(無意識かもしれないが)思っている。

もちろん文明はそういったことを可能にした面もたくさんある。
しかし、そのことによって本来の、本質的な私たちの生命現象というものは、概念化することもできないし、コントロールもできないものであるという謙虚さを、私たちは忘れてしまっている。
非文明の少数民族や、さまざまな民族の古来からの教えを見ればわかるように、自然現象にたいする謙虚さを持つことが、自然の一部である自分の生命への敬意にもつながっている。

病気は病気として、怪我は怪我として、文明的に対処できるものはすればいいが(げんにそういう社会に生きているわけだし)、生命現象というものの本質を忘れて対処法ばかり肥大化するのは、自分自身をないがしろにしてしまうのではないかと思うのだ。

私は自分の病気を受け入れたい。
文明社会的にその病気に対処する方法はいくつかあるが、自分が病を得、生命現象の進行に変化がもたらされたことは、壮大な自然現象の流れのなかで起こったことであるという認識を持っていたい。
その上で、生きるとはどういうことなのか、死とはなんなのか、自分がこの世に存在し、またこの世から存在しなくなるとはどういうことなのか、概念ではなく身体的な生命現象として向きあっていきたい、と思っている。

その体感覚を探求する方法として、武術における「体認」という稽古が、私には大きく役立っている。