2019年10月8日火曜日

現在、過去、未来、マインドフルネス(末期ガンをサーフする(22))

きゅうに涼しくなった。
日本列島の南海上ではまた大きな台風が発生し、近づいてきているらしい。
昨日は現代朗読ゼミをやり、午後は国立の家のまわりの掃除をみんなに手伝ってもらい、餃子パーティーをやり、夜はひよめき塾という小説家のミーティングをおこなった。
どれも私にとって大切な、命の時間といえる。
かけがえのない時間をすごすことができた私自身と集まってくれたみなさんに心から感謝。

10月7日、月曜日。午前10時。
22回めの放射線治療のために東京都立多摩総合医療センターに行く。

  *

過去形とか未来形を持たない言語体系というのは、実際にある。
本にもなっているが、南米の非文明化種族のひとつであるピダハンなどはそうだ。
言語体系には現在形しかない。

過去や未来をあらわすことばを持たない人たちは、過去や未来という概念をそもそも持たない。
過去にとらわれることなく、また未来を憂えることもない。

私は日本に生まれて、日本語を母語として育ったので——それとて正確には北陸の一地方の方言というべきか——、過去や未来という概念がある。
過去という概念が記憶を作り、未来形がありもしない想像を生む。
それが悪いといっているのではない。
そういう言語体系のもとに生まれ育ち、そのような概念化された時間と空間を生きているという事実があるといっている。

たしか2004年ごろだったと思う——なぜ覚えているかというと、ちょうど現代朗読という表現体系を研究・実践しはじめたころだったからだ——なにげなくラジオを聴いていたら「マインドフルネス」ということばが流れてきた。
ティク・ナット・ハンというベトナム出身の平和活動仏僧の本を紹介していたのだった。

私たちは本来、いまこの瞬間を生きているはずなのに、過去にとらわれ、未来を憂えることで、本来のいきいきした生・生活を見失ってしまっている、マインドフルネスの実践によって自分本来の人生を取りもどそう、というようなことが書かれているらしく、そのためには呼吸に注目するという簡単な方法が有効だといっていた。
なんとなく表現活動にとって重要なキーワードのような気がして、私はすぐに本を取りよせて読んでみた。

ちょっとしたショックを受けた。
呼吸に注目することで、いまこの瞬間の自分自身のからだや心のありさまに気づき、またまわりのことにも気づくことができる。
この移り変わりゆく一瞬一瞬の「いま」という時間に注目しつづけることこそ、いまを生きることであり、真の自分を生きるということにほかならない。
過去も未来もいまこの瞬間にはない、人が作り出した「思考」であり、「概念」であり、それが「苦」のもとになっているのだ、という。

昔体験した幸福なできごとを思い出して思い出にふける、嫌な体験を思いだして身をよじる、まだ起こってもいない事故や事件や災害を想像して不安にかられる、これらはすべて、いまこの瞬間には存在しない、頭のなかだけのできごとで、思考や概念でしかない。
もちろん、なにか悪いこと起こることを想定してそれを予防したり、起こっても被害が最小限に食いとめられるように準備しておくことは大事なことだ。
人類はそうやって繁栄してきたのだ。
しかし、その思考も過大になると肥大化した予防策が生まれ、ひいては巨大な物質文明を築きあげることになる(実際いまのこの世界はそうやってできてしまった)。

私たちは、いまこの瞬間にしか生きてはいない、このことを身体感覚としてしっかりつかんでおくことは、非常に大切であると同時に、私たち文明化した人間にとっては困難なことでもある。
つねになにか思考し(いまここにいない)、過去を振り返り(いまここにいない)、未来を想像し(いまここにいない)、ここではないどこかべつの場所に思いをはせている(いまここにいない)。

かれこれ15年くらい、マインドフルネスのことをよくかんがえ、ときには練習したり、実践したり、ワークショップを開催したり、また書籍に書いたりしてきた。
そのことが、末期ガンによる余命を告げられたとき、私にとって非常に重要なバックボーンとなっていることに気づいたのだった。