2019年1月2日水曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(1)

2018年暮もなんとなく第九交響曲を聴いていた。
小澤征爾だのカラヤンだの、ほかにもいろんな指揮者や交響楽団があるけれど、どれも違う。
まったく違う曲のように聴こえる演奏もある。
当然、好みも出てくる。

ベートーベンが書いたおなじ楽譜をもとに演奏しているのに、これほど違ってくるというのはおもしろいけれど、どうしてそんなことになってしまうんだろうという不思議さもある。
ベートーベンがこの曲を書いた時代には、オーケストラで使われていた楽器や演奏法もいまとは随分違っていただろう。
そもそもベートーベンの頭のなかで鳴っていた音はどんなものだったのだろうか。

別のことも思う。
世の中には第九を聴いても、小澤征爾なのかカラヤンなのか、サイモン・ラトルなのかロリン・マゼールなのか、いっこうに区別できないし、する必要も感じないし、そんなことはどうだっていいという人がたくさんいる。
むしろそういう人のほうがほとんどだといっていいかもしれない。

私だって子どものとき、音楽を聴きはじめたばかりのころは、それがなんという曲でだれが作曲したものなのか聴きわけられても、演奏者や指揮者がだれかまでは聴き分けられなかったり、関心がなかったのだ。
それがいつから聴き分けられるようになったり、聴き分けることに興味が出てきたりしたんだろう。

私の生まれ育ったのは、北陸の雪深い山間部の、人口が数万しかない田舎町で、当然ながらコンサートホールだのライブハウスだのといったものはなく、プロの音楽演奏に生で接する機会などほぼ皆無の環境だった。
ところが、父が田舎町にはめずらしく高等教育を受けた人で、高校の商業科の教員だった。

父が東京の大学に行ったのはまだ戦前のことで、村から高校以上に進んだ者は父ただひとりだったという。
父の生家は豪農で、次男坊の父が東京の大学に行かせてもらうだけの余裕があったのだろう。

父は東京で同郷の者ばかりが暮らす寮にはいったのだが、そこにはさまざまな大学に行く同郷の、経済的にめぐまれた者たちがいた。
なかのひとりに、東京外語大学の学生がいて、フランス語が専攻だったのだが、彼はなんとピアノが弾けた。
当時、男性でピアノを弾くというのは、非常にめずらしかった。
父はそれを見て、男がピアノを弾けるというのはなんとかっこいいんだろう、と思ったという。
その話を、のちに私はピアノを習いはじめてから聞くことになる。
(つづく)

◆ピアノ七十二候
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