2019年1月24日木曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(22)

約一年後に私は小説家として商業デビューすることになる。
その間の経緯は音楽とはやや離れるので、ごくかいつまむことにする。

電話をかけてきたのは徳間書店の雑誌『SFアドベンチャー』の編集の今井さんだったが、私の原稿を発見してすぐに編集長の石井さんに見せ、そして連絡することになったという。
すでに書いたが、私の原稿は200枚ちょっとという非常に中途半端な分量で、それをどうするかという話になった。

私は上京し、まだ新橋の烏森口にあった古い徳間書店の社屋をたずねた。
この社屋はジブリ映画「コクリコ坂」に出てくる。
内部のようすもかなりきっちり描写されている。
私がたずねたときは、ちょうどそのジブリ(当時はまだジブリではなかった)の「天空の城ラピュタ」の公開直前で、ポスターがたくさん貼ってあった。

相談の結果、ノベルスとして出版できる分量の400枚以上まで書き足すことになった。
この作業がまた過酷で、何度書きなおしてもオーケーが出ず、生まれて初めて小説の生みの苦しみを味わった。
しかし、このときの経験がのちのちに生きてくることになる。
いまでは今井さんと石井さんに感謝してもしたりないと思っている。

いろいろあって、1986年の夏に私の処女小説が徳間ノベルスから出版された。
出るとすぐに、あちこちの出版社から連絡が来た。
中央公論や、いまはなき朝日ソノラマ、天山出版、どれもノベルスの依頼だった。
雑誌からも原稿依頼があった。
急に忙しくなった私は、思いきってピアノ教師の仕事を大幅に縮小することにした。
学習塾の仕事もやめた。

ラジオの仕事はつつづけていた。
それに加えて、田舎で小説家デビューした人間は大変注目を浴び、地元のテレビ局から出演依頼がやってきた。
こののち、福井テレビと福井放送というふたつのテレビ局に準レギュラーで出演するようになったり、福井新聞や地元のタウン誌にも連載を持つようになる。

同時に、榊原忠美との朗読と即興演奏のライブパフォーマンスは相変わらずつづけていたし、榊原が所属する名古屋の劇団クセックとの関わりも、ますます深まっていった。
世間ではバブル最盛期から、徐々にその陰りが見えはじめてくる時期だった。