2009年7月31日金曜日

名古屋「Kenji」ワークショップ第四回の模様の抜粋映像

2009年7月25日。ウェルバ・アクトゥス「Kenji」のためのワークショップ第 四回の模様の抜粋映像

このワークショップでは、アレクサンダー・テクニークを応用したナチュラルな姿勢と呼吸を重視しながら、その人本来が持っている魅力的なたたずまいを引き出そうとしています。
本番公演は2009年9月2日夜、名古屋市芸術創造センターにて。

2009年7月29日水曜日

絵はがき「金蓮花」

金蓮花はペルー原産の植物で、日本へは江戸時代にはいってきたそうだ。

ナスタチウムともいう。

葉っぱが蓮に似て、丸くてかわいい。

いったん成長の勢いがつくと、グネグネ曲がった茎をどんどん伸ばして、たくさんの花をつける強い植物だ。

花だけ摘んでコップに挿してあったものを、ザクッとスケッチしてみた。


2009年7月28日火曜日

「Kenji——宮澤賢治・音と光と土——」について(新聞社用)

9月2日夜、名古屋市芸術創造センターでおこなわれる第一回ウェルバ・アクトゥス公演「「Kenji――宮澤賢治・音と光と土――」を、名古屋市内の各新聞社にアピールするための資料につける案内文。


「Kenji――宮澤賢治・音と光と土――」について


宮澤賢治が残した「ことば」から出発し、「ことば」に息を吹きこみ、私たち自身のなかにもある銀河宇宙に音楽として蘇らせようという試みが、このウェルバ・アクトゥス「Kenji――宮澤賢治・音と光と土――」です。

私たちは決して観客を驚かせたり、睥睨したりするような舞台を作り上げようとはしていません。

今回、15名の一般参加者とワークショップをおこない、賢治の「ことば」を核としてあたらしい舞台表現の方法を模索しつづけています。


ウェルバ・アクトゥス(Verba Actus)について

「朗読を越えた共感の場」


以前から、私たちはジャンルの枠に閉じこめられることを窮屈と感じて、多くのパフォーマンスを実行してきました。

私たち、というのは、作家・音楽家・演出家である水城雄(MIZUKI)と、クセックACTの俳優である榊原忠美を軸としたゆるやかなつながりのあるグループのことです。

今回、これに日本巧匠文化協会、PAP・でらしね、現代朗読協会、そして一般市民が参集し、はっきりとまとまりのある集団〈ウェルバ・アクトゥス〉として、蓄積してきた方法論をより具体的に実現すべく、名古屋で第一回公演を行なうことになりました。


「Verba」はラテン語で音/音声/言語、「Actus」は人の行為のことです。

朗読といってしまっては限定的すぎる、演劇でも音楽でも美術でも舞踊でもない、そうでありながらそれら全部の要素を含んでもいる……

私たちがめざすもの。それは「共感」であり、「共鳴」です。出演者同士の共感、朗読と音楽の共鳴、朗読と美術の共鳴。そしてともに時間と空間を共有するはずの観客との共感と共鳴。

まったくあたらしい方法論とウェルバ・アクトゥスという表現の試みを、ぜひともお取り上げいただき、広くご紹介いただくことをお願いいたします。


2009年7月25日土曜日

名古屋のイケメンたち

今日から名古屋。

ウェルバ・アクトゥス「Kenji」のためのワークショップも4回めとなる。いよいよ大詰めだ。


名古屋で公演をやろう、という話は、去年の暮れに持ちあがった。

たちまち話が具体的になり、今年の1月には最初の制作会議が開かれた。そのとき集まったのは、私のほかにバラさん、主催の日本巧匠文化協会の一歩さん、深澤さん、そして理子さんの5人。いずれもこういうイベントに関してはやりつくしてきた手練の、いってみれば「プロ」である。いろいろなことがさくさくと決まっていき、小気味よかった。


その後、一般参加者をつのってワークショップをやることになったり、一歩さんの「子分」の若者たちが手伝いに来てくれたりと、所帯は大きくなってきた。最終的には出演者やスタッフも入れて、60人から80人くらいになるのではないか。


そのなかでも、なぜか名古屋には「いい男」が多い。

私のいまの活動拠点は東京の現代朗読協会であり、こちらはなぜか「いい女」が中心になっている。男性は数えるほどしかいないのだが、名古屋は男性が多い。しかも「いい男」が多いのだ。

主催の一歩さんは見るからに不良ジジィで、本職は絵描きさんだ。白髪のほうが多い長い髪を小さくキュッとポニーテールにくくっている。どう見てもカタギではないが、中身は極めて真摯(紳士)。過激なほどまじめである(ある部分に関しては)。が、いざとなったらハラをくくって、バッとタンカを切るのではないかというようなスリルをはらんでいる人で、魅力的だ。


深澤さんは制作の責任者で、かつては劇団クセックACTの制作をやっていた。私とはかなり古くからの知り合い。ほとんどバラさんと同時期からの付き合い。

口から生まれたようなところがある人で、思いついたことをどんどんしゃべるので、意固地な人は苦手に思うのかもしれないが、私は自分自身似たような部分があると感じている。ウェルバ・アクトゥスにとっては不可欠なムードメーカーである。


バラさんはいまさらいうまでもない。

ひとことでいえば超人である。いろいろな意味で。もっともっと評価されてしかるべき人だと思うが、それは私の仕事のひとつなのかもしれない。


クセックACTの男優陣からはひとりだけ、樋口くんに参加してもらった。

本当はほかにも参加してもらいたい気持ちもあったが、今回の最初のウェルバ・アクトゥス公演ではできるだけクセック色を抑えたかったのだ。そうでなくてもバラさんが中心にいるのだ。これがうまくいけば、もちろんどんどん巻きこんでいきたい。

樋口くんはクセックでは再若手。フレッシュ。なにも描かれていないキャンバスのようなもの。人の話にとても熱心に耳を傾ける。それだけでも若い人にとっては、今後飛躍的に伸びていくための重要な才能といえる。


一歩さんの「子分」からは鈴木健、吉田大、成原満といった人がいつも参加して、助けてくれている。いずれも嫉妬してしまうほどのイケメンなのだ。そしていずれもまじめで、なにかひとつのことに立ち向かって格闘しているあんちゃんたちだ。

汗を流している真摯なあんちゃんは魅力的だ。


そしてもうひとり。

ワークショップに参加している柊さんのマネージャーだと自称しているファンキーという男がいる。

実に腰が低く、軽快で、表情もころころ動く。いまから出世街道を駆け上ろうとしているマファアの下っ端といった風情の男なのだが、聞けばなんと私と同年代なのだ。

信じられない。

私にはあんな軽やかな動きは無理。軽やかな動きで、実は知らずにたくさん助けられているような気がする。それをことさらに主張しないところもかっこいい。

こういう人の存在が公演の成功を力強く下支えしてくれるような気が、いまからしている。


イケメンだけでなく、もちろん名古屋には魅力的な女性もたくさんいる。

が、いまここには書かない。いずれたくさん書く機会がおとずれるはずだから。

みなさん、よろしくお願いしますよ。


(写真は「じじぃ組」。左から深澤さん、一歩さん、MIZUKI、バラさん)


2009年7月24日金曜日

保育園でかんがえた一番大切なこと

 昨日、品川区立南ゆたか保育園でお話と歌のイベントを手伝ってきたが、そのときに私が考えていたこと。

 この保育園には0歳児から就学前の5歳、6歳児までいる。一番年長が5歳、6歳児のクラスで、来年は全員、小学校に行く。

 私は小学生に接する機会もあるが、小学生と、就学前の保育児童とでは、なにかが決定的に違っていると感じる。おそらくそれは、「言語化」という行動を日常的に強いられるか強いられないかによるものではないか、と思っている。


 学校に行くと、本を読んだり、なにかをしたり、だれかの発表を聴いたり、絵を見たりしたとき、とにかく「感想」という形で自分の感じたことをしゃべったり、書いたりすることを求められる。つまり「言語化」である。

 なにか問題を解くということもそうだ。算数にせよ、国語にせよ、問題があったとき、それには回答することを求められる。そして正解、不正解、という結果を示される。問題という「謎」を謎のままに残しておくことは、学校教育においては許されない。ものごとを言語化できることが、大人になることであり、また社会的人間に成長することであるからだ。

 が、就学前にはそのようなことを強要する大人はあまりいない。いるのかもしれないが、そんなことを強要しても子どもにろくな影響がないことは、まともな大人なら知っていることだ。

 なので、就学前の幼児ばかり集まっている保育園の雰囲気は、とてものびやかで、自由で、一種心地よい無秩序と混沌が存在している。

 この無秩序と混沌のなかで、なにかを言語化することを強いられることなく、のびのびと感じるままに、好きなように行動し、触れあったり、泣いたりわめいたり、喜んだり痛いめにあったりすることが、子どもたちにとってはとても重要なのだ。

 この体験が、その後の想像力のベースになる。

 たとえば小説を読んだり、映画を観ているとき、主人公がなにか痛そうな目にあったとき、そのときにリアルに感じるのは「自分のなかにある痛み」をベースとした延長的想像なのである。しっかりとベース体験があるからこそ、バーチャルな世界に感情移入できるし、またそのバーチャル世界そのものも自分の体験としてさらに取りこんでいくことができる。

 この体験は感覚的なものであり、実感であり、言語化する必要はないし、言語化することもできない。

 ベース体験の希薄な子どもにはそれがない。バーチャル体験にバーチャル体験を重ねてもなにも生まれない。あまりに幼い頃に英語を学ばせようとしてしまうことの弊害も、このあたりの問題と関係しているのだが、ここでは詳しくは書かない。もっとも、上記のことが理解できる人ならば、容易に推論できるだろう。


 ところで昨日、私は子どもたちを見ていて、無性に触りたくなった。

 そこで、イベントが終わってから子どもたちに近づき、話しかけながら、やたらと触りまくってやった。すると子どもたちは、私になにかを聞いてくる。大半はなにをいっているのかわからない。ただ、うなずきながら頭やらほっぺたやら手やらを触ってみた。

 なにをいっているのか、なにを聞かれているのかなど、問題ではないのだ。しかし私と彼らとの間には、短い間に濃密なコミュニケーションがあった。ピアノを弾いていたおじちゃんが、自分の頭やほっぺを触りながらなにかいってた。そのときのおじちゃんの手の感触、声の調子、顔の表情、それが彼らに伝わればよかったのだし、私もまたあの子たちの頬のやわらかさ、汗ばんだ髪の手触り、小さな手の感触を受け取っていた。


 家に帰ってから、今日もそうだが、私はずっと考えつづけている。

 私はこれから、だれにむかってなにを表現し、なにを伝えていけばいいのだろうか。一番大切なことはなんなのだろうか、と。


キャンプは異次元へのトリップだった

 この季節になると、子どものころに家族で出かけたキャンプのことを思い出す。

 前にも書いたが、私の祖父は自動車修理工場を経営していたので、当時はまだ珍しかった自家用車を何台か持っていた。当時というのは、昭和30年代から40年代初頭にかけてのことである。

 キャンプ道具を積んで、一家総出で車でキャンプに出かける。それだけ書くとまるでアメリカの50年代みたいな風景だが、もちろん私の記憶の風景は純和風である。

 車はニッサン(ダットサン)だった。

 道路はもちろん舗装されていない。スピードを出すと、大量の砂埃を巻きあげて、ガタガタと疾走する。後ろを振り返ると、真っ白の砂埃のほかはなにも見えない。しかし、後続の車はまばらで、いまのように「車列」というようなものは皆無だった。

 もちろん、クーラーなどはない。夏場は窓全開が基本だった。

 私たち子どもは、その窓から首を突きだし、皮膚がしびれるくらい風に顔をさらして景色を見つめていた。


 私の記憶のなかでは、キャンプ行きにはじいちゃんはいなかった。ばあちゃんはいた。私の両親とばあちゃん、私と妹、といったメンバーだった。たまに従兄弟たちもいたかもしれない。しかし、じいちゃんはきっと仕事があったんだろう。いっしょにキャンプに行った記憶はない。

 私の父が車を運転し、私たち子どもとばあちゃんは後ろの座席だった。


 私は山間部の盆地に住んでいたので、海が近づくにつれ空が広くなるのがなんともいえずわくわくした気分だった。空はあくまで青く、白い雲が流れている。後ろを振り返ると、山脈の上には積雲が生まれている。

 海が間近になったことは、空気の匂いでわかった。山の子は海の匂いに敏感なのだ。海の匂いをかぐと、もういても立ってもいられないような気分になった。気が早くも車のなかで浮き輪をふくらましたりした。

 海が見えると狂喜乱舞した。

 いまでもそうだが、北陸の夏の海は格別に美しい。太陽光線が山側から差しているため、ぎらつかず、静謐な青さをたたえている。波打ち際の白さが際立っている。

 なぜあれほど海に夢中になったんだろう。いや、いまでも海に夢中であることは変わりない。なかなか海に行く機会は少ないけれど、海に行けば私はそのまま全身でタイムスリップする。


 石川県の千里浜というところが、私たちのキャンプの場所だった。泳げるし、蛤が採れるからだ。

 また、防砂用の松が植林されていて、キャンプ用のテントを張りやすいこともあった。

 いまのようにキャンプ場などというものが整備されていないころだった。まず、水場があることが条件である。水場は海に流れこむ小川だったりする。

 海に着くと、私たち子どもはとりあえず裸になって海に飛びこむ。大人たちはテントの準備をする。

 いまのような便利なキャンプ用テントではない。いわゆる三角テントというやつで、松と松の間にロープを張ったり、地面に杭を打ったりして、テントを張って固定する。

 石を集めてかまどを作る。薪を集めて火を起こす。大人たちはいろいろとやることがあって、忙しそうだったが、子どもは波打ち際でコロコロと波とたわむれているだけだった。そのときの波にかきまわされる身体の感触が、いまでもはっきりと思い出すことができる。


 夕方になると、かまどのほかにたき火が作られる。

 もちろん虫は多い。いまのように虫除けスプレーなどというものはなかった。蚊取り線香をあちこちに配置しておくが、風があるのでどの程度の効果があるのかはわからなかった。

 虫のなかで一番やっかいなのが、アブだった。ハエのでかいやつみたいな感じで、刺されると痛いし、腫れてかゆい。大きい虫なので、子どもとしては怖かった。

 ほかに刺す虫としては、ブヨとか蚊がいたが、小さいので怖さはなかった。実際には刺されるとアブよりかゆい。とくにブヨはかゆい。刺されたら虫刺されの軟膏を塗ってもらう。

 夕食は大人たちが採ってきた蛤やら、近くの漁港で仕入れてきたイカやら魚やらを焼いて食べる。

 だんだん夕日が落ちていき、最後は水平線に真っ赤になって落下していく。これも日本海側ならではの光景だろう。「パノラマ」という言葉を聞くと、私はいまでもこの光景を反射的に思い出す。

 日が落ちると、あたりは急に暗くなっていく。いよいよキャンプらしくなってきた。

 持ってきた花火で遊ぶのも、楽しみのひとつだ。打ち上げ花火だの、ロケット花火だの、派手なものはなかったが、楽しかった。

 そのころには空は満天の星だ。うっすらとミルクを流したような天の川が見える。その川を泳ぐように白鳥座の十字も見える。私の父はそれほど星座は詳しくなかったが、いくつか基本的なものは教えてもらった。北斗七星から北極星を探す方法とか。太平洋戦争で海軍の少尉だった父は、南方で南十字星も見たことがあるといっていた。


 そのころになると、遊び疲れた子どもたちはもう目をあけていられなくなる。いつの間にかテントの中に連れていかれ、眠りこんでしまう。

 気がついたら朝、という具合だ。

 小学校の高学年になっていたと思うが、一度、越前海岸の岩場のほうでキャンプをしたことがあった。そのとき、強烈に覚えているのは、近くの山を分け入ったところに巨大な滝があって、そこの滝壺で泳いだり、滝に打たれて日に焼けた肩が猛烈に痛かったりしたことだ。子どもの記憶だから、それほど大きな滝ではなかったのかもしれないが、いまもあの滝はどこかに存在して、真っ白なしぶきをあげて怖いほど青く深い滝壺を満たしていると思いたい。


2009年7月22日水曜日

「Kenji」ワークショップ参加者の声(第三回)

先日、名古屋でおこなわれた三回めの「Kenji」ワークショップにおいて参加者の皆さんからいただいた感想の一部を紹介します。


■実際に動きが付いたので、やっとイメージがつかめるようになりました。これからがさらに楽しみです。滑舌、響かない声、発音など、多くの方が悩んでいる問題が、今日のワークショップでいつも簡単に矯正されていくことに驚きました。確かに学校ではむずかしく教えすぎますよネ。「書くように読む」これから、心がけます。


■本日、初めての参加でしたが、とても楽しく練習をすることができました。特にご指導を直接いただいて、自分の声の出し方が変わったことには非常に驚きました。


■「読む」という意識ではなく、「書く」という意識で、ひとつひとつの言葉を感じて読むと、言葉が、ひとつひとつの文字が、浮き上がってていねいに響くように、声が、言葉が届いてきました。とっても、びっくりし、感動しました。

「自分本来の声を出す」それが目指すひとつの大きな目標です。それには、からだの使い方、息の意識、いろいろなことを、日常の生活で、意識して、いろいろ試行するようになり、新しい発見があります。私は「読もう!」とすると、声が高くなる事に、今日は、気づけました。普通に、自然になっていきたいと思います。


■今日は、2回めに参加させて頂き、毎回、何らかの得るものをと思っています。今日は、皆さんを含め朗読の難点、欠点を修正を大変参考になり、自分も修正して行こうと思っております。


■群読というのですか、あわせて読むのはおもしろいです。自分の感覚を最大限にひらかなくてはならないのでしょうが、なかなかうまくいかないです。もっとくりかえしてくんれんしたいですが、時間ですよね。いつもさわりだけになっているのが残念です。


■久しぶりの参加で少し不安もありましたが、楽しく勉強させていただきました。「文章を書くようによめ」といわれたのが衝撃的でした。うまく自分なりに吸収したいと思います。


■やのしくう先生の尺八演奏、とても心に澄みわたるすてきな音でした。

文字を書く、なるほど! これを聴いて、ほっとしたような気になりました。前回もそうでしたが、自分を自然体に、力をぬいて、なかなかまだまだ思うように力がぬけない私がおります。みなさんでオープニングのオーケストラのチューニングの練習は、とっても楽しく、かつ、いろいろな広がりが期待でき、仕上がりがとっても楽しくなりました。


■今日のワークではたくさんの学びがあり、ありがとうございました。ワークはだんだん楽しく、面白くなって、舞台でのイメージもつかめてきましたし、緊張もほぐれてきて、4時間はあっという間でした。尺八の音色の美しさ、感謝します。


■滑舌や読み方を意識せず、「書いてみる」ように読む、というのが、目からウロコでした。学生の頃、自分の読む箇所を全てノートに書いて朗読した事を思い出しました。黒手帳を作るのに、台本を「書いて」自分の中にいったん取り込む作業をしていこうと思います。より実践に近いワークショップで、仕事の休みをとって来たかいがありました。又、仲間の同志のコミュニケーションも、回を重ねるごとに深まっていくような気がしました。


【YouTube】名古屋「Kenji」ワークショップの映像3本を公開

名古屋ウェルバ・アクトゥス公演「Kenji - 宮澤賢治・音と光と土 - 」のために行なわれているワークショップの第三回の模様の抜粋映像を、3ファイルに分けてYouTubeで公開しました。


■名古屋「Kenji」ワークショップ第三回の模様の抜粋映像(その1)

http://www.youtube.com/watch?v=Qgk0m061RLE


2009718日。

ワークショップも三回めとなるこの日、本公演に音楽陣のひとりとして出演していただく尺八奏者のやのしくうさんに、初めて来ていただいた。公演本番では即興的なパフォーマンスを存分に発揮していただく予定だが、今回はワークショップ参加者の皆さんに尺八という楽器の魅力を教えていただくべく、古典作品の「新月」を演奏していただいた。


■名古屋「Kenji」ワークショップ第三回の模様の抜粋映像(その2)

http://www.youtube.com/watch?v=YO6vYSoZUQM


2009718日。ウェルバ・アクトゥス「Kenji」のためのワークショップ第三回の模様の抜粋映像。

いつもワークショップの最初に「気づき」発表として、全員に宿題の「気づき日記」から発表をしてもらっている。


■名古屋「Kenji」ワークショップ第三回の模様の抜粋映像(その3)

http://www.youtube.com/watch?v=r7GOJkCEUiI


2009718日。ウェルバ・アクトゥス「Kenji」のためのワークショップ第三回の模様の抜粋映像。

この日初めて、実際の脚本を使って、ステージ上での動きと発声の実演をシミュレートしてみた。

しだいに自分がステージに立っていることをイメージできつつあるせいか、出演者たちはリアルに緊張感が高まっていく様子。

たった二回のワークショップにも関わらず、発声と身体使いについては非常に魅力的になっている参加者を見て、実は演出はかなり驚いていた。


2009年7月21日火曜日

皆既日食とiPhoneアプリ

 明日は皆既日食だ。東京地方はどうやら曇らしい。

 iPhone の App に「iステラ」という星座ソフトがあるのだが、それで皆既日食がかなり正確にシミュレートできるというので、やってみた。

 皆既日食が見られる緯度経度を入力し、時間を少しずつ動かしてみる。

 ほんとだ。コロナまできっちり再現できる。