昨日、品川区立南ゆたか保育園でお話と歌のイベントを手伝ってきたが、そのときに私が考えていたこと。
この保育園には0歳児から就学前の5歳、6歳児までいる。一番年長が5歳、6歳児のクラスで、来年は全員、小学校に行く。
私は小学生に接する機会もあるが、小学生と、就学前の保育児童とでは、なにかが決定的に違っていると感じる。おそらくそれは、「言語化」という行動を日常的に強いられるか強いられないかによるものではないか、と思っている。
学校に行くと、本を読んだり、なにかをしたり、だれかの発表を聴いたり、絵を見たりしたとき、とにかく「感想」という形で自分の感じたことをしゃべったり、書いたりすることを求められる。つまり「言語化」である。
なにか問題を解くということもそうだ。算数にせよ、国語にせよ、問題があったとき、それには回答することを求められる。そして正解、不正解、という結果を示される。問題という「謎」を謎のままに残しておくことは、学校教育においては許されない。ものごとを言語化できることが、大人になることであり、また社会的人間に成長することであるからだ。
が、就学前にはそのようなことを強要する大人はあまりいない。いるのかもしれないが、そんなことを強要しても子どもにろくな影響がないことは、まともな大人なら知っていることだ。
なので、就学前の幼児ばかり集まっている保育園の雰囲気は、とてものびやかで、自由で、一種心地よい無秩序と混沌が存在している。
この無秩序と混沌のなかで、なにかを言語化することを強いられることなく、のびのびと感じるままに、好きなように行動し、触れあったり、泣いたりわめいたり、喜んだり痛いめにあったりすることが、子どもたちにとってはとても重要なのだ。
この体験が、その後の想像力のベースになる。
たとえば小説を読んだり、映画を観ているとき、主人公がなにか痛そうな目にあったとき、そのときにリアルに感じるのは「自分のなかにある痛み」をベースとした延長的想像なのである。しっかりとベース体験があるからこそ、バーチャルな世界に感情移入できるし、またそのバーチャル世界そのものも自分の体験としてさらに取りこんでいくことができる。
この体験は感覚的なものであり、実感であり、言語化する必要はないし、言語化することもできない。
ベース体験の希薄な子どもにはそれがない。バーチャル体験にバーチャル体験を重ねてもなにも生まれない。あまりに幼い頃に英語を学ばせようとしてしまうことの弊害も、このあたりの問題と関係しているのだが、ここでは詳しくは書かない。もっとも、上記のことが理解できる人ならば、容易に推論できるだろう。
ところで昨日、私は子どもたちを見ていて、無性に触りたくなった。
そこで、イベントが終わってから子どもたちに近づき、話しかけながら、やたらと触りまくってやった。すると子どもたちは、私になにかを聞いてくる。大半はなにをいっているのかわからない。ただ、うなずきながら頭やらほっぺたやら手やらを触ってみた。
なにをいっているのか、なにを聞かれているのかなど、問題ではないのだ。しかし私と彼らとの間には、短い間に濃密なコミュニケーションがあった。ピアノを弾いていたおじちゃんが、自分の頭やほっぺを触りながらなにかいってた。そのときのおじちゃんの手の感触、声の調子、顔の表情、それが彼らに伝わればよかったのだし、私もまたあの子たちの頬のやわらかさ、汗ばんだ髪の手触り、小さな手の感触を受け取っていた。
家に帰ってから、今日もそうだが、私はずっと考えつづけている。
私はこれから、だれにむかってなにを表現し、なにを伝えていけばいいのだろうか。一番大切なことはなんなのだろうか、と。