実家から歩いて1分(つまり道路を渡ったところ)にある眼医者に行く。
まず、視力検査。
右1.5、左0.9と、なんの問題もない。
診察を受けたが、これも問題なし。見えにくくなっているのは、老眼が進んでいるせいらしい。とくに暗いところでは老眼は見えにくい。そして、私のようにいつも遠くまでくっきり見えている者は、とくに老眼を感じやすいのだそうだ。
目がいい人は老眼が早く進む、という迷信があるけれど、これは物理的に早く進むのではなく、普段遠くがよく見えている反動で老眼の進み具合を早く感じやすい、ということだろう。こればかりはしかたがない。
歳をとっても全然老眼鏡などいらない人がいるけれど、世の中すべて公平とは限らない。
老眼が進んで、まんざら悪いことばかり起こるようになったわけではない。
老眼が進むと、まず、近いところの細かいものが見えにくくなる。活字であり、楽譜である。読まなければならないときには老眼鏡をかけるわけだが、老眼鏡が手元にないときにはなんとか「なし」ですまそうとする。つまり、視覚情報に頼らないようにしようとする。
たとえば、今度の名古屋の「Kenji」公演。
私はピアノ演奏のために、ステージ中央に置かれてピアノに向かって座っている。
ステージ上は、照明があるとはいえ、基本的に暗い。というより、明るくなったり暗くなったりする。場面によっては「完全暗転」もある。暗転すれば、当然、なにも見えない。楽譜にせよ、台本にせよ、読むことはできない。なので、結局は「覚える」しかないのである。
楽譜とか台本を全部覚えて、視覚に頼らないで演奏をする。人の動きは音や気配で感じとる。これがいろいろなことを活性化する。
視覚に頼っているあいだは、「見えているものしか見えない」というあたりまえの状況なわけだが、視覚に頼らずに感覚をとぎすませていると、「見えていないものも見えてくる」という状況が出現する。これは嘘ではなく本当に起こることなのだ。観客の顔すら見えてくるような感覚になる。
老眼が進むのは悪いことばかりではない。そのうち、目を閉じていても活字を読めるようになるかもしれない(これはもちろん冗談)。