東京から北陸の田舎に移動。
実家は人口2万人くらいの田舎町の街なかにある。回りは家が建てこんでいるが、半分くらいは空家である。他聞に漏れず、産業の地盤沈下と人口流出が激しい。他聞に漏れず、無能な行政が高水準の給料をもらって、居座っている。お役人ではない商家や農家は、その半分以下の収入で、土地にへばりつくようにして暮らしている。土地がなければ生きていることすらできないだろうが、そのなけなしの土地にも不動産税がかけられて搾取される。搾取されているのは人だけでなく、その土地そのもの、伝統風土そのものだということに、国は気づかなければならない。
こんなことを書きたいのではなかった。つい筆(キーポード)がすべった。
回りには家が建てこんでいるが、人は少ないので、生活音はあまりない。ときおり道路を車が通りすぎる音が聞こえる程度だが、その頻度は低い。
セミの声がかすかに聞こえる。もう秋なので勢いはまったくない。東京のほうが賑やかだ。
選挙カーが遠くからやってきて、家の近くを通りすぎて、また遠ざかっていく。共産党の選挙カーだ。聞き覚えのある声だと思ったら、同級生の山田くんの声だった。
音楽はない。どうやら最近、私は音楽がなくても不都合は感じなくなっている。音楽がなくても、さまざまな音を楽しめるようになってきたせいか。そして、朗読にたずさわる時間が増え、人の声に接している時間が増えたせいか。
数日前の「朗読はライブだ!」ワークショップでの話。参加者のレイラさんの気づき報告。
かつて彼女は、常に携帯音楽プレーヤーを持ちあるき、耳にはイヤホンを挿していた。音楽を聞いていなければ歩けなかった。音楽を聞けば、どんなに疲れていてもいくらでも歩けるような気がしていたという。
ところが、最近、音楽にあるかされている自分に気づいた(ここが気づき報告)。そして、最近は携帯プレーヤーを忘れても平気なようになってきた。かつては忘れたらあわてて取りに戻ったりしていたのだが。
音楽を直接耳に入れていなくても、まわりのさまざまな音を聴きながら自分のペースで歩けるようになってきた、という報告だった。
私たちのまわりにはいろいろな音がある。
音楽だけでなく、いろいろな音に気づいてみよう。多彩な音に感受性を開いてみよう。すると、聴覚だけでなく、いろいろな感覚が目覚め、立ちあがってくるだろう。
音楽もいいけれど、そこに閉じこめられてしまうのではなく、ときに音楽から開放されて世界の音とつながってみよう。