2018年4月20日金曜日

作家はアマチュアの頂点

先日、NHKラジオを聴いていたら、いとうせいこうが自著の『「国境なき医師団」を見に行く』について話をしていた。
いわゆるルポルタージュだが、彼が強調していたのは、ジャーナリストの視点ではなく、あくまで作家の視点でこの本を書いたということだった。

彼が引き合いに出していたのは、開高健のベトナム戦争のルポルタージュだった。
私も愛読していた。
開高健のルポルタージュは、ベトナム戦争ものの他に、より多くの読者を魅了した『オーパ!』という釣り紀行があった。
これも私は大好きで、ほとんど読んでいて、いまだに時々読み返したりすることがあるほどだ。

いとうせいこうがいっているように、おなじものごとについてルポルタージュを書いたとしたら、ジャーナリストとライターと作家とでは、まるで違った視点が現れる。
ジャーナリストやライターは出来事の本質や問題点をあぶり出そうとし、それをあやまらずに人々に伝えようとするのに対し、作家の視点は時に問題の本質をそれ、現場の人間のキャラクターや小道具や自分の心情など、ディテールに向けられる。

開高健の『オーパ!』でも、たとえばモンゴルで満点の星空を仰ぎながら、初老に差しかかった冴えない作家としての自分自身を嘆くようなシーンが出てくる。
釣りとは全く関係がないといえばその通りなのだが、読者はそこのところに共感を覚えたりする(私はぐっときた)。
また極私的なその視点が、逆に問題の本質を違った角度からあぶり出すこともある。

ジャーナリストやライターになるにはそれなりの資質や技術や姿勢が必要となるが、作家はひょっとしてアマチュアの書き手の頂点のような位置づけといってもいいかもしれない。
自分自身のオリジナルな物の見方や感じ方をきわめ、それを正直に無防備に書き尽くすことで、逆に普遍性を持ったり多くの人々に共感を与えたりする。
逆に言えば、すべての人が作家になれるということかもしれない。

私が主催している身体文章塾などでも常々言っていることだが、すべての人が優れた表現者になる資質をもともと持っているし、すべての人が優れた作品を書けるポテンシャルを持っていると思う。
すべての人が作家になれるのだ。
これは断言していい。

テキストで自分自身を伝えるために、自身の身体性とむすびついたことばや文体についてのさまざまな試みをおこなっています。4月の開催は22(日)19時から約1時間半程度です。