しかし、その目的は、大きくふたつに分けることができると私はかんがえている。
ひとつは本の内容を聴いている人に伝えるもの。
つまり伝達。
もうひとつは朗読という行為そのものを、それをおこなっている人の存在をも含めてまわりに伝えるもの。
これを表現という。
世の中にはさまざまな表現行為があるが、たとえば音楽の場合、演奏者はある曲を演奏することによって曲そのものを伝達したいのではなく、その曲を自分はどのように解釈しユニークな演奏をおこなうかということで、自分自身をも表現する。
どのような曲なのかは重要ではなく、その曲を自分はどのように演奏する演奏者なのかを伝えることが目的なのだ。
音楽だけでなく、ほかのさまざまな表現行為でもおなじようなことがいえる。
絵描きがひまわりの花を描くとき、ひまわりの花がどのように花なのかを伝えるのが目的ではなく(図鑑はそのような目的だが)、自分はひまわりの花をどのように描く絵描きなのかを伝えることが目的だ。
それが表現行為だ。
朗読にもそのような側面があり、また朗読という行為を表現という目的としてとらえ、実行することもできる。
不思議なことに、なぜか日本では、朗読行為は表現ととらえられることがすくなく、伝達の手法にばかり注意が向けられていることが多い。
それはおそらく、日本において朗読は、大正時代からはじまったラジオ放送から昭和のテレビ放送にかけて、放送という情報伝達の手段のなかで整備されていった放送技術とともに発展したきた、ということと関係があるかもしれない。
現代朗読では放送技術ではなく、もちろん情報伝達でもなく、自分自身を一個の生命存在として表現するための手段として、朗読という行為を用いる。
◎朗読表現基礎ゼミ(4.9)
従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を基礎からじっくりと学ぶための講座。4月9日(土)のテーマは「伝達と表現/伝統的表現/コンテンポラリー表現」。単発参加も可。