朗読をふくむ表現行為では、表現者の意識や感情、身体そのもの――つまり生命存在が他者に伝わる。
そもそもそこにある生き生きとした存在の表われを、できるだけ妨げないようにしたい。
しかし、後天的に社会性を身にまとい、そのふるまいを習慣として鎧のように着身してしまっている私たちは、しばしば生き生きとした表われをいろいろな方法で妨げてしまう。
なにが自分の表われを妨げているのか、自分自身がなにをやってしまっているのか、あるいはなにをしないようにしているのか、それをつぶさに見ることが、表現の練習となる。
朗読においては、なにかを読んでみたとき、なぜそのように読むのか、そこにはなにかとらわれや型のようなものはないか、そのように読まねばならないという思いこみはないかどうか、つぶさに検証してみる。
たとえば、現代朗読の講座で、ある人が宮沢賢二の『風の又三郎』の冒頭の詩を朗読した。
こんな詩だ。
どっどどどどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう
じつに力強く、リズミカルに朗唱してくれた。
しかし、なぜそのように読んだのだろう。
たぶん、多くの人がこの詩を読むとき、リズミカルに力強く読むことだろう。
その読み方はひょっとして、「この詩はこのように読むものだ」という自分の外側から刷りこまれたなにか特定の型のようなものではないだろうか。
私たちがなにかを朗読するとき、自分の外側から刷りこまれている可能性がある型は無数にある。
たとえばこのようなものだ。
「この詩は『風の又三郎』の冒頭に書かれているものだ」
私たちは『風の又三郎』という作品をすでに読んでいたり、知っていることがたくさんある。
また実際にだれかが読むのを聴いたことがあるかもしれない。
だれかが作った映像作品を観たことがあるかもしれない。
そういうものから「指示」される「このように読む」という特定の型を、すでに自分が持っているかもしれない。
「この詩は宮沢賢治が書いたものだ」
宮沢賢治という人についても、私たちはすでに多くのことを知っている。
独特の童話や不思議な物語をたくさん書いた人である、東北の人である、文壇とのつながりはなく書き手としては孤立していた、「風ニモ負ケズ」を書いた人だ……
そういったイメージがある型を朗読者にもたらしているかもしれない。
「リズミカルなことばの連なりで書かれている詩だ」
ついリズムをとって読みたくなるような文の調子がある。
その一定のリズムの型にはまって読もうとしてしまわないだろうか。
これら自分の外側からもたらされる型に注目し、それらをいったん全部はずしてみたとき、自分はどのように読むことができるだろうか、あるいはどのように読みたくなるだろうか、という「自分自身と向き合う場所」へと踏みだしてみる。
型を排除したとき、自分の中心にある本質的な生命活動は、このことばのつらなりをどのように音声化したがっているか、そこに目を向けることができるかどうか。
これはやってみるとわかるが、なかなかむずかしいことだ。
自分の生命活動がなにをいっているのか、どのように動きたがっているのか、どう表現したがっているのか、そのかすかな声や兆候に耳をすまし、とらえられるようになるためには、それなりのトレーニングが必要になる。
そのためのさまざまなエチュードを、現代朗読では用意している。
◎体験参加可「朗読生活のススメ」(4.16)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身のシリーズ講座ですが、単発の体験参加も可。4月16日(土)のテーマは「ことばと社会と自分個人の関係/声と呼吸と身体」。