災害救助などに直接影響のあるイベントなら理解できるのですが、それを中止してもなんの影響もないでしょう、というようなものまで「自粛」されます。
どうやらそれは、
「あそこの人たちが大変なめにあっているときに、自分たちが好き勝手なことをやっていては申し訳ない」
という気分のようです。
そしてそれは空気のように伝播していくみたいです。
自粛するだけだったらまだいいのですが、自粛しない人たちを指をさして糾弾する人まであらわれて驚きます。
本当かどうかわかりませんが、ある保育園に「熊本震災があったのに散歩とか不謹慎だ!」とクレームが入ったそうです。
びっくりですが、さらにびっくりなのは、それに対して園長から、
「震災があったにも関わらず、子供達が散歩中にモンシロチョウを見つけて騒いでしまい、大変申し訳ございませんでした」
とマンションの掲示板に謝罪文が掲示されたということなのです。
クレームをつける人もですが、そのクレームに反応する園長さんにもびっくりです。
園長さんはクレームに対応して園児たちの散歩を「自粛」させるのでしょうか。
モンシロチョウを見つけても騒がないように指導するのでしょうか。
なんていうことでしょうか。
こちらがソースです。
他人の行動にたいして「けしからん」「不謹慎だ」「やめさせろ」と糾弾する人は、自身のなかに強い欲求不満をかかえているように思えます。
欲求不満とは、つまり、なにか自分の欲求やニーズが満たされていない状態です。
その満たされない思いを、他人への糾弾――つまり他人をコントロールしようとすることで満たそうとするのは、とてもゆがんだ表現だといえるでしょう。
自分の欲求やニーズを満たせるのは、自分自身しかありません。
そもそも、他人はコントロールできないものですし、もしできるとしたらそれは「暴力」をもってしかありません。
暴力をもってなされたことはすべて、相手も自分も不幸におとしいれます。
他人を糾弾する人々はどんな欲求・ニーズを持っているのでしょうか。
子どもたちが楽しそうに散歩しているのを見てイライラした人には、どのようなニーズがあるんでしょうか。
幼い子どもも含む国民全員が、被災地のことを思いやり、被災者を助けようと一丸となることで、安心したいのでしょうか(そもそも子どもにそれを求めるのはむずかしいと思いますが)。
自分が懸命に寄付したり被災者のことを思いやったりしているのに、そうせずにのびのびとしている人を見ると、不平等を感じるのでしょうか。
本当はすぐにでも被災地に駆けつけて被災者を助けたいのに、事情があって身動きとれず、それなりに自由にふるまっている人を見ると、自由や選択肢が自分にあればいいのにと思ってしまうのでしょうか。
私がいま思うのは、他人を糾弾する人たちを、さらにこちらが糾弾するようなことはやりたくないな、ということです。
思いやりをもって対話につなげることはできないでしょうか。
思いやり、共感、対話で人々がつながっているときに、創造的なことが起こり、失われてしまったものも回復にむかうのだと思うのです。
◎4月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(4.27)
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【追記】
上記事を私のメールマガジンに書いたところ、さっそく何人かの方からリプライいただきました。
そのなかのひとりは、「モンシロチョウを見つけて」の一文に園長さんの密かな抵抗を見た、というものがありました。
一部、紹介します。
◎私が園長なら、同じように書いたかも。
災害が起こって人が死んでも、世界は美しいことを子どもは教えてくれている、そのことに気づかない、周りにビクビクする大人(そんな自分にムカついていて他人を避難する人たち)への精一杯の皮肉。
同時に、そんな連中から子どもたちを守るために。
自粛はもちろんしないで、同じことが起こればまた同じように謝罪文を出す。
反省なんか絶対にしないで(笑)!
☆水城のコメント
なるほど!
私はびっくりしてしまったけれど、園長さんは本当はちゃんとわかっていたのかもね。
そして確信犯?(笑)。
だとしたらいいなあ。
このリプライのように、うん、その手がいいよね、と私もあらためて思いました。