表現行為とは自分自身を外にむかって表わすこと。
外というのは他人であったり、家族であったり、リスナーであったり観客であったりするかもしれない。
場合によっては「だれもいない」こともありうる。
だれもいないのに自分自身を表わすことに意味があるのか、と思う方もいるかもしれない。
厳密にいえば表現は伝達とは異なるものである。
自分自身を表して、そこにもしだれもいないとしても、それは表現行為として「ある」ことになる。
だれかに伝わることはないけれど、自分自身に起こっていることをとらえ、またそこから表出してくるものを妨げない行為である。
だれもいなくても人が自分自身を表したいという衝動のことを、私は「純粋表現衝動」と呼んでいる。
子どもがだれも聴いていなくても大きな声で歌を歌ったりひとりごとを話したり、あるいはだれに見せるあてもない絵を描いたりするのとおなじことだ。
それとおなじ衝動・欲求は、大人になっても消えずに私たちのなかにある。
ただそれが社会性という「ふるまいの枠組み」のなかで見えにくくなっているだけなのだ。
人はなぜ、だれも見ていなくても、聞いていなくても、表現したくなるのだろうか。
それは「生きて」いるからだろうと思う。
私たちが持っている生命はつねに動いている。
動いていない状態というのはない。
もしあるとすれば、死に至ったときだ。
死に至っていない以上、動きつづけているわけだが、時としてそれを自分自身で確かめ、味わってみたくなる。
自分がどのように生きているのか、生きているということの実感はどのようなものなのか、自分自身が生きているということの感触を味わってみたくなる。
これが表現衝動ではないか、と私はかんがえている。
表現というのは、自分自身のありようや生きていることを味わう行為とするならば、より緻密に、繊細に、そして力強く自分自身をつかむことができれば、その味わいも深いものになるだろう。
ただぼんやりと、なんとなく自分をながめているより、集中して自分にむかい、そこに起こっていることをがっちりと把握する。
どのような表現行為においても、その行為の過程で自分自身に注目し、そこになにが起こっているのか、どのような変化があるのかを知り、味わうことが大切だ。
その過程そのものが目的であり、また結果的に表現の質も変わることになる。
あくまでも結果として。
朗読においてもおなじことがいえる。
読みあげるテキストさえあれば、いつどこでもだれもができる表現行為である朗読においても、それをおこなうとき、自分自身のありようと変化に繊細な目を向けることができれば、自分という生命現象を深く味わうこともできるだろう。
日常生活のなかにほんの数分でも朗読の練習という自分自身に向きあう時間を持つとき、生活そのものの質にもそれは影響をおよぼすかもしれないことは、私自身がよく経験していることだ。
ここに「朗読生活」という考え方の有効性がある。
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