ある人がその場にいない人の悪口をいっているのを聞くと、つらくなることがある(つらくならないこともある)。
ひょっとしてその人は、自分がいないところでは自分の悪口をいっているのかもしれない、などと想像してしまう。
あるいは卑怯な感じを受けて、いたたまれなくなるのかもしれない。
そのときに損なわれている自分のニーズはなんだろうか。
すべての人が陰口など叩かれずに正当に扱われること――公平さや誠実さが大切なのだろうか。
自分があずかり知らないところで陰口を叩かれて不当な評価を下されたくない――安全のニーズがあるのだろうか。
だれかがだれかをことばの暴力でおとしめているのを見るのが苦痛だ――平和や安心のニーズがあるのだろうか。
まず自分のニーズにつながった上で、悪口をいっているその人のニーズも見ることができるかどうか。
すべての人はなにかのニーズに突き動かされて、そのような言動を取っている。
本人はそれが最良だと信じてそのような言動を取っている。
そこには本人にとっては切実なニーズがある。
それを見ることができるかどうかが、共感的につながれるかどうかの鍵となる。
つながりたくない、ということもあるかもしれない。
あまりに嫌悪を感じすぎて、相手にまったく共感する気が起こらない。
そういう場合は、その場を離れるのが最良の選択かもしれない。
しかし、その相手とつながるなんらかの必要性があったり、なぜその人がそんな言動をしているのか興味を覚えたりすることもある。
そういうときは共感的につながってみることを試みる。
その人がこの場にいないだれかの悪口をいうのは、ひょっとしてこの場にいるみんなとのつながりが必要だからだろうか。
訊いてみることができれば、実際にそうしてみる。
「きみがそういうふうにあの人の秘密をここで話すのは、ひょっとしてここにいるみんなとのつながりを大切にしているからかな?」
あるいはその人は、だれかから不当に扱われてとても傷ついたり憤慨していることを、みんなに聞いてもらったり理解してもらいたいのかもしれない。
「きみはひょっとして、傷ついていて、そのことをわかってもらいたかったり、聞いてもらいたいと思って、この話をしているのかな?」
ほかにもあるかもしれない。
人の悪口をいいたてる人は、どういう必要性があってそんなことをしているのだろう。
そこに興味を向けることができるかどうかが、共感的にその人とつながれるかどうかのポイントになる。
結果的にその人が自分のニーズをあなたに聞いてもらえた、自分の大事にしていることを理解してもらえたと体感したとき、だれかの悪口をいうことは止まるだろう。
◎共感カフェ@羽根木の家(4.28)
4月の羽根木の家での共感カフェは、4月28日(木)19〜21時です。